遊去のブログ

ギター&朗読の活動紹介でしたが、現在休止中。今は徒然草化しています。

伊勢ギター講習会2016を聴講して

2016-09-10 08:16:22 | ぼやき・つぶやき・ひとりごと
 8月23日から3日間、伊勢でギター講習会がありました。講師はマルシン・ディラ、パク・キュヒ、熊谷俊之、トマ・チャバの4人です。私はギターは弾くものの、自分の好きな曲を自分なりに楽しんでいるだけなので、特に最近のギター界については殆ど知りません。今回の講師4人はいずれも若手・中堅で国際的に活躍している人たちだと聞いたのですが、私は誰も知りませんでした。ただ、パク・キュヒ氏だけはFM放送の「キラクラ」に出演して生演奏をされたのでそのときに放送を聴いたことがあります。が、それだけでは知っているうちに入らないでしょう。
 私は「聴講」をしたのですが、このようなところに顔を出すのは初めてのことでした。ギターを勉強する人はこういうことをしているのかと思いました。レッスンを受ける生徒の弾く曲は、私が『弾けるわけがない』と思って取り組むことさえしなかったものが多く、それを目の前で、苦も無くとはいかないが、見事に弾きこなしているのを見ると唖然としないわけにはいきません。練習すればここまでできるのかと感心しました。とりわけ左手の動きに特徴のある人にレッスン終了後、どのくらい練習しているのか尋ねてみました。この人の左手はプログラムされた自動機械のような動きをしていたのですが、「5時間くらい」ということでした。自営業だと言っていましたが、仕事をしながら5時間の練習時間を作り出すということは殆どすべてをギターに費やしているといってもいいでしょう。楽器というのは魔物だなと思いました。とはいうものの5時間くらいの練習なら私も普通にしてきています。自分でしているときは何とも思わないのですが他人の口からそれを聞くとどうも二の句が継げません。でも、どんな楽器でもプロを目指す人なら8~10時間の練習は当たり前のことだし、一般的な仕事なら2時間残業は日常的で、誰でもそのくらいは働くのだから普通のことなのですが、…。

 初日はマルシン・ディラ氏のワークショップから始まりました。講習会の前に「ワークショップって何?」と関係者に尋ねると、「ギターや音楽についてのその人の想いを話したりする時間」とのことでした。とにかくカタカナの言葉はよくわからないものが多いので困ります。
 ディラ氏の話は「メトロノームを使うな」というところから始まりました。私は『また奇妙なことを言うな』と思って聞いていましたが、途中で通訳の人が「メトロノームを使い過ぎるなというようなことですね…」と補足されたのでその意味がだんだん分かってきました。
 ディラ氏のこの後のレッスンを聴講してわかったのですが、氏が話の対象としている人のレベルは極めて高く、テーマは「音楽性をどのようにして創り出すか」ということなのです。私は殆どそれ以前のレベルなので『おかしなことを言うなあ』と思ったのです。数十年前のギター好きの世界では、音楽の基礎訓練を受けていない人が多く、「風呂場で浪花節を唸る」式の客観性の欠如した演奏がよくありました。本人は悦に入っているのですが、作曲者が聴いたら「どこかで聞いたことがあるような気がするが思い出せない」とでも言いそうです。ソロだけで弾いているとどうしてもこの傾向が強くなります。それを本人に伝えるのに一番いいのがメトロノームです。最初はメトロノームが速くなったり遅くなったりするように思うので奇妙な感じがしますが、これを徹底的に訓練することで客観的なテンポ感が得られます。ただ、この段階では「音楽的」ではありません。英語を直訳して日本語にしたようなものです。次には原文の持つニュアンスが伝わるような日本語に意訳しなければなりませんが、ディラ氏の話はこの段階でのことでした。確かに、基本的なトレーニングはここまでで、ここから先は手探りになります。その一つが「誇張してみる」ことだというのが氏の主張です。
 『なるほど』と思いましたが、問題はその「程度」です。いくら誇張しようとしても常識的な力が働いて小さな誇張しかできないのです。ディラ氏のレッスンを実際に聴き、ここまでやるかという底抜けのスケールの大きさを見て眼から鱗が落ちました。

 パク・キュヒ氏を見て最初に驚いたのは彼女の手の大きさでした。こんなに小さな手でどうしてギターが弾けるのかと思いました。しかもその指の細いこと。ポッキーよりは太いものの鉛筆くらいのものでしょう。40年ほど前に、ある演奏家がTVで「細い指では太い音は出ない」と話すのを聞きました。確かにそうだろうなという気がするのでそれ以来ずっとそう思っていました。太く柔らかい音を出すにはウインナソーセージくらいの太さの指が必要で、フランクフルトくらいになると音はいいが指が弦の間に入らなくなるから弾きにくくなるだろうというように考えていました。ところがこの日、レッスン中に出す彼女の音を聴いて、これは自分の思い込みで、技術的な問題であったのだと知りました。ただ単純に練習した場合、実際のところ、太い指の方が太く豊かな音を出すのは容易でしょう。細い指でしっかりした音を出すには相当の工夫が要ったのではないかと思いました。
 パク氏のレッスンでは「アルハンブラ宮殿の思い出」が続出しました。アルハンブラ、アルハンブラ、また、アルハンブラ…。私も最初は、やはりアルハンブラを弾きたい人は多いんだなあと思っていました。が、それにしても多すぎるのではないかと思いました。それで、最終日に、最後にアルハンブラのレッスンを終えた人に「どうしてこんなにアルハンブラが多いんだろう」と呟いたところ、「パクさんだからじゃないですか」という返事が返ってきました。私はそれまで彼女がトレモロのきれいなことで知られていることを知らなかったのです。
 私はこれまで、生で「これこそトレモロ」という演奏を聴いたことが殆どありませんでした。一流と言われている人でさえ「何、これ」と思ったことが何度もあります。それで結局、長い間『きれいなトレモロ』というのは実際には無理なのだと思っていました。ただ最近は若い人の中にトレモロをきれいに弾く人が出てきているように感じていました。それで、もしかするとできるかもしれないと思って自分でいろいろ工夫しながらやってみるのですがやはり難があります。そんなとき、パク氏が今回のワークショップで「トレモロは爪が長いとむずかしい」という話をされたのです。私はそれまでトレモロは爪が長くないときれいな音が出ないと思い込んでいたのでした。が、この一言で目が覚めました。確かに、これまでにも爪を短く削り過ぎたことがあり、そのときに「これでも大丈夫だな」と思ったことは何度もあります。それにも拘らず、爪は長い方がいい音がすると信じていたためにその短い爪で工夫してみるという機会を逸していたのでした。
トレモロで私が一番気になるのは<カシャカシャする音>が入ることでした。それは弦が爪に当たる音でした。この音が出ないようにするには弦がまず指頭に当たりそれから爪に行くようにすればいいのですが、実はこれ、ギターの弾き方の基本です。ところがトレモロになると突然これが難しくなります。その理由は爪が長いためだとは気付きませんでした。今、自分の指に合った爪の短さを探っています。今回、彼女の弾くトレモロを聴いて『きれいなトレモロ』は存在するのだということを確信しました。

 熊谷俊之氏は生徒の演奏するピアソラの曲を聴き終えたとき、一呼吸おいて「そんなに弾けて、いったい何を聴きたいの?」と呟きました。私も本当にそうだと思いました。それから氏は、ピアソラの曲を弾くとき自分が考えること、注意することを説明していったのですが、「グルーブ感」の話に移ったときにギターを持ち、低音で四分音符を弾き始めました。私はまさにこれだなと思いました。ただ四分音符を弾いているだけなのにどうしてこんなに動物的な何かが蠢く感覚、鼓動や拍動の気分が出るのか不思議でした。今も何故だかわかりません。
 ピアソラの音楽には深いところに何か得体の知れない不気味な生き物がいて、音楽が始まるとそれが動き出すような感じが私はします。それがピアソラの「グルーブ感」なのでしょう。難曲を弾きこなす生徒の演奏にはそれが感じられませんでした。動物的な匂いがしないというのはこの人の個性ではないかと思いましたが、その人がピアソラに惹かれるというのはおもしろいです。

 トマ・チャバ氏は一番の若手です。まだ講習会で生徒を教えるのには慣れていないようで、相手の演奏の問題点を見つけるのにひたすら集中している感じでした。生徒の指使いを見ては自分でも試しながら、楽譜も見て、そして少し考えてから提案して、…。体力があるなあと思いました。私も若いときには今よりも体力はあったはずですが、物事に対してこのように熱心な取り組みをしてきただろうかと思いました。
 氏は短いフレーズを弾くときにもそのフレーズの持つニュアンスを香り立たせるようでした。私はこれを「集中力」と言うんだなと思いました。これまで演奏に<集中>するということがどうもよく掴めなかったのです。それでいろいろな人に演奏中に何を考えているか尋ねてきたのですが、どうも『なるほど』と思うように捉えることができませんでした。今、<集中する>ということは、そのフレーズなり、曲なりに対して自分の持つニュアンスをしっかり保持ということなのかなと思い始めています。
 考えてみれば当たり前のことですが、私にはこれが極めて難しいのです。私の場合、演奏を始めると同時に全く関係のない事柄が頭の中で展開し始めます。最初は自分でもこのことに気付いてないことが多く、その間は演奏に支障はありません。ところが、自分で、何でこんなことを考えているんだと気付いたとたん、何もかもがギクシャクしてくるのです。今は、朗読をしながらギターを弾くということに取り組んでいるので、「よそ事」の部分が「朗読」になっているため全体として手(or頭)が一杯になっている感じで気は楽です。が、これだけの<集中力>を発揮することは難しいでしょう。

 今回の講習会ではレッスンの1単位が50分、その間の休憩が5分でした。講師の人は連続で次々とレッスンをしていきます。午前中は3人ですが、午後は5~6人です。1階と2階の2か所で2人の講師がレッスンをしていたので上に行ったり下に行ったりしていましたが、それでも3人のレッスンを聴けば、私はもうへとへとでした。だけど聴いていくうちにこういう話は二度と聞けないのではないかという気がしてきて耐えていました。そのうちに冷房のため体が冷えておかしくなってきました。私はクーラーを使いません。それで体が夏の暑さに適応しているのです。Tシャツ・短パンだったのですが、昼食のため家に帰った時にGパンにはき替え、長袖のシャツを持ってまた会場に出かけました。
 2日目はガラコンサートの直前まで講習を聴いてしまったため夕食を取ることができませんでした。コンサートが終わるまで我慢するつもりだったのですが、受付のところで何か食べるものはないか聞いたところパンがあるよというので二個もらって食べました。やはり空腹でコンサートを聴くのはつらいです。それでパンを買っていけば昼食に帰らなくてもいいことに気付き、3日目は一日中聴講しましたが、私はもう疲労困憊というところでした。それなのに講師の人たちは疲れも見せずレッスンを続けています。やはり一流の人間は体力があるんだなあと思いました。というより、人並み優れた体力と精神力がなければ人並み以上の業を身に付けることはできないのでしょう。しかもその上に才能や運に恵まれなければ第一線で活躍することなどおぼつかないでしょう。一流としてこの世界で生き続けていくのは並大抵のことではないだろうなと思いました。ですが、お蔭で私は多くのことを学べるわけだから、やはり、分野によらず、能力のある人は応援するのがいいだろうと思いました。
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不思議な山 鷲嶺(シュウレイ)

2016-08-27 08:20:08 | ぼやき・つぶやき・ひとりごと
 梅雨入り直前、近くの山に登りました。登り口まで今の家から車で15分くらいです。その山には水穴(鍾乳洞)があって、50年前、つまり私が中学生だったときに探検したことがあります。そのときは自転車ですが、道は舗装されていないし、今の家のところまで来るだけでも40分はかかるので全体では1時間半くらいかかったはずです。懐中電灯と釣り用のリールの糸を持って、仲間5,6人で行ったのですが、誰がそこへ行く道を知っていたのか、誰が行こうと言い出したのか分かりません。今考えると危ないことをしているなと思いますが、そういうことをしながら危険に対する感覚をつかんでいったのでしょう。
 今回は、50年前の記憶を辿りながら車で走っていました。今は国土地理院の地図を持っていますが、当時はそんなものはありません。やはり誰かが知っていたのでしょう。途中の集落から登山口に向かう分岐点に記憶がありました。確かここを曲がったなと思ったのですが、確認のためにすぐそばの家で声を掛けました。2,3度呼ぶと中から老人が出てきたので水穴に行く道はここを曲がるのだったか尋ねました。老人は「そうだ」と答えました。私が、水穴から上に登る道はあるか尋ねたところ「獣道しかない」とのことでした。
 『おかしいな』と思いました。というのは山頂への道はあると聞いていたからです。それで誰も登らないのかと尋ねたところ、「たまにあるが、そのときには村の若い者が案内する」ということでした。「あるといっても年に一度あるかないかで、このところはずっとない」そうで、道はわからないだろう言われました。何か奇怪な問答だなと思いましたが、途中まででも様子を見てきますと言ってその家を出ました。
 車で登山口まで行くと木の枝の杖が何本か置いてありました。1時53分、出発です。山道を歩いて20分くらいで水穴に着きました。『ああ、ここだったか』と思いましたが、意外に入口が小さいのです。50年前のことを思い出しました。水穴の入口は立って歩ける高さがあるのですが、数m先は急に小さな洞穴になっていて這わないと入れません。どういうわけか、そういうときはいつも私が先頭にされました。腹這いになって穴に頭を入れたところで懐中電灯を前に向けると目の前30cmのところに巨大な蛇がいるのです。「わっ!」と叫んで私は反射的に体を引きました。その瞬間、目の前に星が出ました。穴の天井で後頭部をまともに打ったのです。腹這いのまま頭の痛みに耐えました。少し治まってきたのでもう一度懐中電灯で前を照らしてよく見るとそこにいたのは大きなガマガエルでした。相手がガマガエルだとわかるとむらむらと腹が立ってきました。しかし、これから探検です。そんなときに他の生きものを傷めつけたりしたくなかったので懐中電灯の先でガマガエルを押しました。するとガマガエルはようやく重い腰を上げ、仕方がないというふうに横の方に移動しました。
 そこを抜けると天井は高くなっていて立って歩けます。少し進むと下が泥のようになってきました。懐中電灯をひょいと天井に向けるとその瞬間に狂乱状態になりました。無数のコウモリが叫び声(?)を上げて飛び立ったのです。天井にはびっしりとコウモリがぶら下がっています。下の泥はそのコウモリの糞でした。
 気持ちのいいものではありませんでしたが、もう入ってしまったのだから進むしかありません。しばらくすると一人が帰ると言い出しました。用事があって夕方までに帰らなければ叱られるということなので一人で先に帰らせました。他の者はそのまま進みました。水穴の中には池や滝もあると聞いていたので、とにかく行けなくなるところまで行こうということでした。しばらくすると前の方から音が聞こえてきました。誰か先に入っていたのかと思ったのですが、前の闇の中から現れたのは、何と、さっき一人で先に帰ったはずの仲間でした。
 私たちは入口のところにリールの糸を結んで、その糸を垂らしながら進んでいました。彼が先に帰るときにはその糸を辿って帰って行ったのです。それなのにどうして前からやって来るのか。話を聞いてみるとリールの糸は途中で切れていたというのです。私たちはすぐに引き返しました。やはり糸は切れていました。糸がなければ迷路を抜け出すことはできません。私は、もしかすると、下の泥の中には前に入った人の糸が残っているかも知れないと思いました。泥はコウモリの糞ですがそんなことを言っている場合ではありません。泥の中に深く手を入れて横に探ると何本も紐が出て来ました。それを辿って水穴を出ることができたのです。
 今考えると、リールの糸は岩の角で擦れたために切れたのでしょう。糸が切れることがあるなどとは全く考えませんでした。先に帰った友人は、リールの糸を軽く握りながら歩いていたのでしょう。そうすると手から突然、糸の感触が消えたのです。手から離れたリールの糸は下に落ちるでしょうが、懐中電灯の光では泥の上に落ちた透明な糸を見つけることは出来ないでしょう。この段階で彼は方向感覚を失っていたはずです。つまり、彼はこっちだろうと勝手に思い込んで進んでいただけなのです。そして再び私たちに出会った。これは偶然です。もしここで出会わなかったらどうなったでしょうか。水穴から出た私たちがおかしいと気付くのは登山口まで戻ったときでしょう。先に帰ったはずの友人の自転車がそこにあるはずだからです。それを見てどう考えるでしょうか。夕暮れの迫るなか、大変なことになったと思います。
 私は50年前の出来事を思い返しながら水穴の入口を眺めていました。こんなに小さかったのかと思いました。当時の私の体が今より小さかったためだと思いますが、よく入る気になったものです。その日は懐中電灯を持っていなかったので奥の小さな入口は確認できませんでした。それに今日の目的は水穴ではありません。その先です。確かに、山道は水穴まででした。そこから先は痕跡だけです。予定では水穴から直登して尾根に出て、そこから尾根伝いに主稜に出るつもりでしたが、先の方にテープらしきものが見えたので、とりあえずそれに従って登ってみることにしました。
 所々にある目印は2,3種類。それらはこのあたりの山でよく見るもので、ここにも来ているなと思ったのですが、かなり古いものでした。他に荷造り用の青いテープもありました。こちらは新しいと思いましたが、尾根に出るまでしかありませんでした。道は斜めに無理やり登っているという感じで獣も嫌がりそうな道(?)でした。尾根まで出るとそこから先は楽々です。しばらくすると主稜の尾根に出ました。こちらにははっきりとした道があり、鷲嶺に行く道とはこれのことだったのかと思いました。分岐点に自分だけにわかる印をつけて主稜を急ぎました。
 いくつかピークを越えると岩が多くなり頂上の近いことを思わせます。宮本武蔵もここを登ったのだろうかと思いました。それにしてもここでどんな修行をしたのでしょうか。事実かどうかわかりませんが「宮本武蔵はここで修業をした」という話が残っています。しかし、どんな修行をしたかはわかりません。山道を歩いたからといって剣術がうまくなるわけではないでしょう。足腰を鍛えるためならそんな場所はどこにでもあります。となるとやはり精神修養かなと思いました。
 「袴腰山」は鷲嶺の別名です。鷲嶺の頂上は台形になっているのでその形からきているのでしょう。道はゆるやかに登って平らな頂上に着きます。「平ら」というのは非常に危険です。こういうところでは道がわからなくなりやすいのです。私は頂上の直前で道を少し外れて登っていました。前方に石積みが見えたのでそちらに行くと「袴腰山」とあり、すぐそばに「入山禁止・火の用心 神宮司庁」という立札がありました。こんな山の真ん中に「入山禁止」とは奇妙だなと思いました。入山禁止なら山の入口に書くべきだし、ここが境界ならどっちの方に入ってはいけないのかを示さなくては意味がありません。
 すこし離れて道標のようなものが見えたのでそこに行くと道があり、小さく「展望岩まで○分」と記されています(○分は1分か3分だったと思いますが忘れました)。あとで分かったのですがこれが正規の道でした。私は横からこの道に出たので、この道は別コースの道だと思ったのです。それで展望岩だけ確かめようとその道を下りました。すぐに目印があり横の方に岩が見えました。岩からの眺めは南の方角でした。私は北を向いていると思っていたので地図を出して確かめました。この辺りで方向感覚がおかしくなっているなと感じました。でもせっかくですから岩の上で一休み。お茶を飲み、パンを食べました。ザックの中の荷物を確認して出発。立札のところまで戻り、そこから平らな頂上を北に向かいました。北側の景色の見えるところがあるはずだと思っていたのでそれを捜しにいったのです。
 50m(?)くらい進むと数mの高さの岩場があってそこで頂上は終わります。上に登っても展望はありません。北側に伊勢湾が見えることを期待していたのですが残念です。しかし、どこかに少しでも見えるところがないか探してみようと思いました。岩場を降りて頂上を下りかけましたが、すぐにこれはだめだと思い引き返しました。岩場の下まで戻ると東に緩やかの尾根があったのでそちらの様子を見ることにしました。岩場の下を回ってその尾根を進むと立札がありました。「展望岩まで○分」、実はこれ、頂上の南側にあった立札でした。私は東に進んでいるつもりだったので、これを見たときこの山にはあちこちに似たような展望岩があるようだと思いました。一応確かめておこうとそちらへ行きました。すぐに岩があり、道から岩の上に何かあるのが見えました。車のキーのようでした。誰かが落としていったなと思ったのですがそばに行ってみると見覚えがあります。自分のキーでした。ぞぉーとしました。さっき休憩したときに落としたようなのです。もしここにキーがなければここは「東の尾根」の岩だと思ったことでしょう。東の尾根と思って歩いていたところは実は平らな頂上でした。東の尾根を見てみようと思わなければ「展望岩」にもう一度行くことはなかったでしょう。
 信じられない気持ちでした。キーはザックの外のポケットに入れてありました。そこには時計と地図と磁石が入っています。地図をしまうとき、そこに車のキーが入っていることを確認しているのです。それなのにキーは岩の上に落ちていた。そして、勘違いして、また勘違いして、その結果、もう一度その岩のところに戻ってきてキーを見つけたのです。こんなことはあり得ないと思いました。何か霊的な力でも働いているのではないかと思いたくなりました。
 もう一度立札のところまで戻って最初に自分の登ってきた跡を辿ろうとしたのですがどうもよく分かりません。あちこち探っているうちにさっきの展望岩の横の道が本来の登山道かもしれないと思い始めました。慎重にその道を下ると見覚えのある岩場に出ました。もう4時を回っていたので急いで山を下りました。主稜の尾根から水穴のある尾根に入ると目印は非常に少なくなります。どこで尾根を降りるかを見極めなければなりません。この辺りの山ではこれが難しいのです。あちこちにそっくりな地形があるのでまちがいやすく、一度下るともう一度戻るにはかなりの体力を消耗します。下降点を確かめて尾根を離れました。ほとんど斜面を滑り降りるような下りです。とても道とはいえません。よくこんなところを登って来たなと思いました。水穴に着いたのが16時56分。そのまま下り登山口の車に着いたのは17時17分でした。何とか明るいうち戻れました。
 心配しているといけないと思って、来るときに道を尋ねた家に寄りました。声を掛けるとまたさっきの老人が現れました。やはり、私のことが気になっていたようでした。途中の道のことなどを少し話すうちに老人は自分のことを語り出しました。自分は吉野の行者(山伏)で、今は78歳だということでした。そして奥に入ると名刺を持ってきて1枚くれました。そしてまた遊びにきてくれといいます。その時にはここに電話してくれればいい。5時頃ならもう起きているので朝はどんなに早くてもいい。午前中は山仕事に行くので午後の方がいい…。
 私は半信半疑でした。引っ越しの挨拶状に「近くに来たときにはぜひお立ち寄りください」式の話ではないかと思いながら聞いていたのですが、内容があまりに事細かなので不思議な気持ちになりました。今も本気なのかどうかわかりません。私としては民俗学的な昔の暮らしの話が聞ければ嬉しいのですが…。どうしたものかという気持ちです。
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記憶変調

2016-07-22 08:16:17 | ぼやき・つぶやき・ひとりごと
 さすがにおかしいと思いました。ここまで思い違うということはありうるのか。それとも年を取ってくればこのくらいのことは当たり前のことなのか。案外、年を取るということはこういうことなのかもしれません。
 先日、運動靴を買いに行きました。「運動靴」なんて言葉、今も使うのでしょうか。ランニングシューズと言った方がよくわかるかもしれません。山登りに使うためですが、いつからか日帰り登山のときには登山靴ではなく運動靴を履くようになりました。荷物の重いときには底の厚い頑丈な登山靴が必要ですが、軽装のときは運動靴の方が便利です。
 運動靴のサイズは26cmでした。平地のときはこれで問題はありませんが、山では下るときにつま先が靴に当たって痛みが出て来ます。これは単純に体重のために足先が前にずれるだけのことですが、靴ではこれは致命的です。前から知っていましたが我慢していました。今回も山を下りながら何とかならないか考えていて、靴のサイズを大きくしてみようと思いました。もちろん、こんなことはこれまでに何度も考えましたが、靴の場合には「足に合ったサイズ」が大切だと聞いていたので、大きすぎるとごそごそして使いものにならなくなるのではという気が強くしていたのでした。ただ、今回その気になったのはつま先の痛みがひどくなってきたのと、この数年、何でも試してみるようになってきたことがあります。
 そう思い始めるとすぐにも試したくなります。といっても町に出たときじゃないと買えないので4,5日あとになってしまいました。当然、そのときには靴のことはすっかり忘れています。別のものを買ってすぐ帰ろうとしたのですが、何となく気持ちがすっきりせずホームセンターの中をぶらぶらしているとパッと靴のことを思い出しました。
 27cmの靴を持ってレジに行くとそこで「サイズは大丈夫ですか」と言われました。一瞬、靴のサイズと私の背丈を見て言ったのかという気がしましたが、相手は単にマニュアルに沿って尋ねているだけでしょう。私の体の中には昔の感覚がいつまでも残っていて、つい相手の言葉に対応しそうになってしまいます。それにしても、レジで働く人も品物によってマニュアルが違うわけだから、いったいどれだけ覚えなければならないのだろうか、たいへんだなぁと思いました。自分の中では昔のように話した方がいい気がして、頭の中で、『本当のサイズは<26.5cm>なのだけど、坂道を下るときにはつま先が当たって痛むので一回り大きい27cmを試すことにしたのです』と説明しておきました。
 家に帰ってこれまでの靴をみると「26cm」でした。何、これ。自分の靴のサイズまで思い違いするようになったのか。これは効きました。当然のことながら、自分でも、何もかもがこれまでとは違ってきていることには気づいています。その一つとして簡単な暗算ができなくなりました。特に引き算です。実際のところ、筆算は問題なくできるので計算の論理は壊れていないのですが、どうも複数個の数字を同時に保持することが難しくなってきているようです。しかし、自分の靴のサイズを間違えるとは。
 日常生活の一つひとつは記憶している多くの数値をもとに無意識のうちに行われていきます。これでは早晩おかしくなる。これがモウロクの始まりだなと思いました。
 いずれにせよ、<少し大きい>靴には違いないので試してみることにしました。平地でも違和感はありません。これまでサイズにこだわり過ぎていたのかもしれないと思いました。すぐ近くに90mほどの山があるので登ってみました。登りは問題ありません。問題は下りです。やはり靴の作りが柔らかいので体重のために前にずれます。だけど足首のひもをしっかり締めれば何とかなりそうです。
 いろいろ試しているうちに、40年前、初めて登山靴を買ったとき、つま先が当たるといけないということで27cmにしたことを思い出しました。ただ、登山靴の場合には毛糸の靴下を、厚手、薄手の2枚履きました。その分を見込んだ<27cm用>だったのか、それを見込んで27cmにしたのかはわかりませんが、つま先が当たらないことを確認したことだけは覚えています。
 そのうちに、運動靴の場合、以前は<26.5cm>を履いていた時期があったような気がしてきました。若いときには26.5cmを履いていて、あるとき26cmを履いてみたらそれでも問題なかったのでそれから26cmに切り替えたのではなかったかと思います。それでモウロクが始まった今、記憶の混乱が起きているのかもしれません。今後、このような思い違いはどんどん増えることでしょう。60代でこれですから70代、80代の人はどうしているのだろうかと思いました。
 とりあえず、<物>を少しずつ減らしていかなければと思います。カセットテープやビデオテープだけでも全部聴こうとすれば何年かかるかわかりません。実はこの作業、すでに始めていたのですが内容をチェックしたもので捨てることのできたものはありません。捨てられたのは、チェック中に切れたり、からまったりしたものだけです。テープの劣化が進んでいるようで、これは誤算でした。しかし、この誤算のおかげで少しは荷物が減りそうです。
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「魔の山」を読む

2016-06-19 08:30:46 | ぼやき・つぶやき・ひとりごと
 トーマス・マンの「魔の山」は40年くらいうちの本棚にあります。岩波文庫で全4冊。学生時代に古本屋の棚で見かけて買いました。何かで、北杜夫氏がトーマス・マンに惚れ込んでいるという話を聞いたのですが、聞き違いかもしれません。トーマス・マンという名前はそのとき初めて知りました。北杜夫氏の小説は読んでいなかったのですが、「どくとるマンボウ」で氏の名前だけは知っていました。そんな有名な人に影響を与えるトーマス・マンとはどんな人だろうと思っていたときに、たまたまこの本を見かけたのでした。帯には「マン中期の代表作であるこの大長編は、“ファウスト”、“ツアラツストラ”と並んでドイツが世界に送った偉大なる人生の書といえよう」と書かれています。そのころの私は人生をどう生きればいいかを模索していたので、これを読めば何かつかめるかも知れないと思いました。
 40年も前のことなのでよく覚えていませんが、長い説明が多く、ごく日常的な会話が延々と続くばかりで全くおもしろくありません。「サナトリウム」って何だろうと思いました。私にとっては異世界の話で、勝手が違うという印象でした。この先に何か意味のあることがあるのだろうかと思いました。言いたいことがあるならもっと手っ取り早く言ってくれという気分でいらいらしてきます。こんなペースにはとても付き合っていられないと思い、中断しました。
 その本を再び読み始めたのは去年です。きっかけは村上春樹著の「ノルウェーの森」を読んだことでした。ノーベル賞の発表が近づいてくるとよく村上春樹氏の名前が出て来ます。私は氏の作品を読んだことはありませんでしたが、ただ外国人がよく「村上春樹」の名前を口にすることは聞いていました。それで学校の図書館に行ったとき、村上春樹の作品を読んでみたいのだけれど…という話をすると、紹介してくれたのが「ノルウェーの森」でした。
 数ページ読んで気付きました。外国文学の翻訳を読んでいるみたいです。『な~るほど』と思いました。この人は英語かフランス語か、とにかく外国語で考えているなと思いました。それを翻訳する形で日本語にしているのではないかという気がします。それで外国人にとっては読みやすいのでしょう。
 1ヶ月間借りられるので2度読みました。おもしろかったからではありません。それまで自分の気付いていなかった世界のあることをこの小説で知ったからです。「心の病」というものがあることは知っていましたが、これまではそれを「外から見る形」で知っていただけだったということが分かりました。それを内側から眺めたら外の世界がどのように見えるかということは考えたこともありませんでした。そういうことだったのか思いました。
 この小説の中に、主人公が「魔の山」を読みふける場面が出て来ます。「魔の山」に関しては、私には<読みふける>などということは考えられませんでした。自転車で長く緩い坂道を漕ぎ上っているときのように次第に息切れがしてきて、いつ止めようかとそのタイミングばかりを探っている感じだったので、<読みふける>という表現に自分が何か大切な物を忘れてきたのではないかという気がしてきたのです。それで40年ぶりに「魔の山」を本棚から取り出しました。
 読み始めてすぐに40年前の気分を思い出しました。だいたい「魔」という文字が問題です。全部読んだ後ならどうしてこのようなタイトルを付けたかの意味もわかりますが、タイトルに引かれてこの本を手に取り読み始めた人にとっては、いつまで経っても「魔」の出てこないこの小説は「やってられない」という気分が募るばかりです。
 私は、4年ほど前から市の図書館を利用するようになりました。それまでは学校の図書館を利用していたので多少融通が利きます。市の図書館を利用するようになって「返却期限」というものの持つもう一つの意味を知るようになりました。その日になるとその本は家から消えることになるので、おもしろくなくても、よくわからなくても、とにかくその日までに隅から隅まで目を通すようになったのです。そのおかげでどんな本でも必ず読み通すようになったのですが、それでも今回は勝手が違いました。膨大な文字、それはまさに活字の海です。こんなにたくさんの言葉を使って語っているにも拘らず、私の心に響いてくるものはあまりありません。文章は文法的には成立していますが、その意味を、あえて立ち止まって解釈してみても、図式としては捉えられますが、それには実感が伴いません。気分は空虚になるばかりです。膨大な言葉の無駄遣い、そんな言葉が心の中を駆け巡ります。私も時間を無駄にしたくないという気持ちが募り、ついに2冊目の途中で本を開けなくなりました。

 今年の1月の半ばから浄化槽の工事が始まりました。そして2月に入りトイレが洋式になりました。私は洋式トイレは苦手です。これまでの人生の中で数回しか使ったことがありません。それで、使い方を知らない道具を渡された時のようにどうしていいかわかりませんでした。まだ残っている感じがしてすっきりしないのです。『仕方がない、出るまで待つか』ということで本を持ち込むことにしました。
 幸いにして今回の工事でトイレに不潔感はなくなりました。とはいえ、大切な本をトイレに持ち込むことはためらわれます。そこで候補に挙がったのが読みかけのままになっていた「魔の山」でした。
短い時間でも毎日読むことには意味があったのだと初めて知りました。というのは、以前、ある高校で1限目の授業の前に、10分間、「読書の時間」を作っていたのですが、そのとき私は、こんな短い時間で、ぶつ切りで読んでも…、と思ったのです。読書の習慣をつけさせるということだろうと思いましたが、そのときには「毎日」ということの威力に気付きませんでした。
 トイレ読書で「魔の山」は再び動き出しました。しかし、おもしろくはありません。喜びはただ一つ、ページが進んでいくことだけです。それなら止めたらいいようなものですが、最後までそうなのかは終わりまで目を通さなければわかりません。興味を引かれた箇所もいくつかはあります。主人公のハンス・カストルプが、死を間近に控えた患者のところに花を届けるという活動を始めたところもその一つです。一種異様な印象を受けました。確かに、青年期ならそういうことを思いつき、そこに意味を見出すこともありうることでしょう。作者のマンは、この出来事をハンスの精神的な成長過程に必要なことと考えて挟んだのか、それとも、ふと思いついて挟んだのか、もしこの場面がなければ小説あるいはハンス青年の色調が変化してしまうのか、そのあたりのことはわかりませんが、自分の青年期の「ふわふわした気分」を思い出しました。
 セテムブリーニ氏とナフタ氏の論争もそうです。両氏はありったけの用語を駆使して議論を展開します。ハンス青年は2人の論争を聞きながら時々口を挟みますが、私はそれを読みながら、工科大学を終えたばかりの青年に、怒涛のようにぶつかり合い、溢れ渦巻く言葉の流れが理解できるものだろうかと思いました。しかし、考えてみれば自分もそうだったかもしれません。難解なものが立派に見えて、そんな言葉を使いこなせるようになりたいと思ったときがあったのですから。今はそれが青年期なのかもしれないと思います。
 セテムブリーニ=ナフタ論争の結末は意外でした。これは私にもさすがにショックでした。だけど『なるほど』と納得できるものでもありました。そして、すぐにすべては第一次大戦に飲み込まれていって物語は終わり、私の「魔の山」も終わりました。
 読み終えて思いました。最初に読みかけた青年期では、たとえ最後まで読んだとしても、そのときの私にはこの小説を受け止めるだけの力はなかったでしょう。だから中断したのです。今も、この小説が、帯に書かれているような「偉大なる人生の書」であるかどうかわかりません。ただ、40年間、ちらちらと気になりながら、今、機会を得て読むことになったということには味があると思います。日記をみると、この本を読み終えたのは4月5日でした。そして、5月1日には「リンの話」を書き出しています。リンは私が最初に飼った犬の名前ですが、この話を書くということは自分の人生を整理する作業を始めることでもあるからです。これまで何度もやろうとしたのですが、書き出しても続けることができず、どれもが途中で止まってしまっています。それが動き出したということはようやく機が熟したということでしょう。自分が人生でお世話になった人や物の話が中心ですが、それを書くことで自ずと精神的な身辺整理ができていくのではないかと思います。
 トイレ読書は今、ドストエフスキーになりました。ドストエフスキーは十代の終わりから数年間に亘って読みました。「魔の山」同様、読めば何かつかめるのではないかと思って読んだのです。その頃は、人生には答があると思っていたようです。それを先に知りたいということだったのかもしれません。それが青年期というものなのでしょうか。昔、「薬」として読んだものが、今は「小説」として読めるようになりました。長く生きるということにはいいこともあるなと思います。
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イチゴの日

2016-05-23 07:01:26 | 畑の話
 4月30日、ついにイチゴを取って食べました。と言っても、たったの2個です。小さいけれど甘く、確かにイチゴの味がしました。『なるほど』と思いました。イチゴは人気のあるはずです。
 これまでずっとイチゴには抵抗がありました。それは、一つには「少女趣味」的なイメージがあること、二つには「商品化」され過ぎていること、三つ目は栽培時の管理が極まっていること、などです。私は、どちらかというと自然に近い放任栽培的なものが好きなので、それは一般的なイチゴ栽培の対極に当たります。とはいえ、イチゴのあの可愛らしさが気にならないはずはありませんでした。
 昨年の秋、イチゴとの関わりができました。LEDを使ってイチゴを周年栽培する植物工場を始める計画があり、その相談役をしてほしいというのです。これこそまさに私の対極中の対極、しかもイチゴです。当然断るべきところですが、断れない事情がありました。一応、問題が発生したときや、専門的、技術的なことでわからないところが出てきた場合の相談相手に、ということなのです。自分はその方面のことは知らないといっても農学部の出身なら調べればわかるだろうといって聞いてくれません。仕方なく「わかる範囲で」と返事をしたのですが、1週間くらいして「大変なことになった」と気付きました。プロジェクトが動き出してから「知らない」では済みません。春から打診があったのでその方面の資料には目を通していたのですが、現場で発生する問題をそんな付け焼刃で解決できるわけがないという思いがひしひしと迫ってきました。
 図書館に行くとかなりの専門書がありました。それを借りて毎日、早朝2時間の勉強です。LED、植物工場、光の特性と光合成、植物の生理学、水耕栽培、イチゴの栽培技術、等々、つまり、範囲は工学、理学、農学に亘ります。ノートを取りながら、学生時代にこれだけ勉強していればなあと思いました。3カ月くらいすると現在の最先端技術の全容がほぼ見えてきました。そのあたりから吸収した知識をもとに考えることができるようになりました。半年を過ぎるころには自然のしくみが見えだしました。それまで自分は「気持ち」を中心に考えていたなと思いました。
 秋にホームセンターでイチゴの苗を買いました。買いに行ったのではなく、たまたま行ったら売っていたのです。5本買って庭に1本、畑に4本植えました。これが10月25日です。育つのかなあと思いましたが、枯れたようになりながらも中心から小さな葉を覗かせたときには『なかなかやるなあ』という印象で、その後は霜が降りても雪が降ってもマイペースという様子を見ていると何となく力強ささえ感じるようになりました。多年生植物だというし、もしかするとかなり野性的な力をもっているかもしれないという気がしました。
 このイチゴに実がなるとは思っていませんでした。きちんと管理をすれば実もなるでしょうが、無肥料では期待する方が野暮です。それでも春先になり、葉の成長に勢いがついてくると『もしかすると』という気持ちにもなります。そんなとき花房が出て蕾がつきました。1月25日です。ところが2月4日の日誌には「蕾と思ったものは蕾ではないようだ」とあり、2月8日には「イチゴ、やはり花だった」となっています。これが「不時出蕾」か、と思いました。まだ虫もいないから実りはしないだろうが、花の咲くことは確認できました。
 咲いた花に実がつきだしたことに気付いたのは4月14日でした。薄緑色をした小さな小さな実で、これが本当に大きくなるのだろうかという感じです。何しろ無肥料ですから期待はしていませんでしたが、これは実りそうだと思いました。少し大きくなって赤みが差し始めると一日で色づきます。もう少し様子を見ようとそのままにしておいたら先の方をナメクジに食べられてしまいました。実を取って洗い、ナメクジに食べられたところを取り除くと甘い香りがします。かじってみると確かにイチゴの味でした。
 今回のことで赤くなったら夕方には取らないとナメクジにやられてしまうことがわかりました。つまり、熟すと来るわけで、ナメクジは匂いか何かでそれが分かるのでしょう。そして、4月30日、ついにまともなイチゴが2個、取れました。一つはすぐ食べました。甘く、爽やかで、香りもよく、ふくよかな気分になりました。もう一つはスケッチブックに絵を描いて色鉛筆で彩色しましたが、あの赤色はとても描き表せません。いくつもいくつも描いたのですが、不思議なことにどうもイチゴらしくないのです。こんな単純な形なのにどうして描けないのだろうと思いました。イチゴを見るとイチゴです。絵を見ると、形はそのままなのですが、イチゴではないのです。何だろう、これは。そんなことをしているうちにイチゴの美しい赤色が少しくすんで艶が落ちているのに気付きました。これはいかんと思い、すぐに食べたのですが、味は少し落ちていました。なるほど。それからはさっと描いて、すぐ食べるようにしています。
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「納豆汁」

2016-04-30 08:24:26 | ぼやき・つぶやき・ひとりごと
 納豆汁、確かに、こういうものは存在しますが、今回はそれとは違います。ようやく食べ終えて、ほっと吐息をついたところです。そもそもの始まりは去年、いや、もっと前かもしれません。数年前から時々「納豆」を作っていたのですが、突然、飽きがやって来たのです。
 なぜかは知りませんが、私は「手作り」のものに惹かれます。食品もその一つで、特に長い歴史を持つ発酵食品は自分でも作ります。ただ、できたものを試食するときには躊躇することがよくありますが、それは無理もないことです。色やにおいは食欲をそそるものではないし、それより食べても大丈夫かどうかが気にかかります。腹を壊すくらいなら大したことはありませんが、ひどいときには3日くらいの絶食は覚悟しなければなりません。犬がいたときにはとりあえず、犬が食べるかどうか様子を見るという手もありましたが、今はほんの少し自分で食べて様子を見るしかありません。
 数年前に稲わらの納豆菌で納豆を作ることを思い立ち、本を見て調べました。そのとき、まず、稲わらを煮沸することを知ったのです。『何だ、これは!』煮沸するということは100℃で沸騰するということです。それまで私は、煮沸すれば細菌は死ぬと思っていました。だから殺菌するときは煮沸するのでしょう。ところが、納豆菌は煮沸しても死なないというのです。納豆菌は高温になって環境が悪くなると胞子のカプセルを作り、そこに命の種を預けるのです。そのカプセルは100℃でも耐えられます。そして、環境が良くなるとその胞子が発芽して、ほかの微生物がいない環境で一気に増殖するのだそうです。
 『何という凄いやつ。そんなやつかこんな身近なところにいるとはなあ。』ただ、殺菌したいときはどうするのか。120℃で殺菌できるようですが、普通の圧力鍋ではとてもそんな温度にはできません。納豆菌が有害な微生物じゃなくて良かったと思いました。こんな相手を敵に回していたら人類も大変なことになっていたはずです。
 そんなわけで「稲わら納豆」はできました。ですが、市販の納豆と比べると、糸の引き方も弱く、味も特にいいとは思えませんでした。しかも、「手作り」という感動も日が経つにつれて次第に薄れてきます。そして、何度か作っては食べることを繰り返した後、弁当箱一杯くらいの納豆を作ったところでピタッと食べる気がしなくなりました。
 それから1年か2年くらい、その納豆は冷蔵庫の奥でじっとしていました。私もそれのあることすら忘れてしまうくらいで、ちらっと目に入ったとき「何とかしないと」と思うだけです。結局はずっとそのままで年月が経っていったのですが、弁当箱分の体積はかなり場所を取ります。それでついに今回それを処分することに決めました。
 「処分」という言葉は便利です。口にするのをためらうようなことをするときにはこの言葉が重宝するようです。同じことをするのに言葉の使い方で気持ちが楽になったりするのは不思議で、奇妙なことだと思いますが、責任感を希薄にする働きのあることは問題です。
 弁当箱のフタを開けると納豆は干からびてカラカラになっていました。カビは生えていません。さすがだなあと思いました。だけど、火は通したいので、油で炒めることにしました。それから味付けに塩と酒を加えると今度は納豆がどろどろになって味噌状化しました。考えてみれば納豆も味噌も原料は同じ大豆です。が、こちらの場合は強烈な臭いがあるので、これは後々尾を引くなと思いました。
 仕方がないので煮詰めて佃煮風にすることにしました。出来上がった納豆風味の佃煮、弁当箱一杯分。食べられないことはないのですが、塩分が多いので一度の食事で減る量は僅かです。これでは食べ終わるまでにどれだけかかるかわかりません。数日後、一気に解決するには汁か鍋にするしかないという結論になりました。そこで納豆汁となったわけですが、これがうまくないのです。いろいろな具を入れたのですが、特にワカメは良くなかった。温めるとだんだん溶け出して汁の泥沼化に貢献するばかりです。他の野菜や肉もそれぞれの味がばらばらで全体としてのまとまりがありません。しかし食べられないことはないだけに始末が悪い。しかも、火を通すたびにどろどろ度は上がっていきます。結局、量が減っていくことだけが喜びで、どうしてこんなことになってしまったのかと自問自答を繰り返すばかりです。食べ終えたときにはある種の達成感すらありました。
 今、納豆汁からは解放されました。しかし、このままでは納豆の顔に泥を塗っただけになってしまいます。少し休んで、また納豆を作るつもりです。何があっても「一休み」の効果は絶大ですから。
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体力調べ

2016-04-08 11:20:39 | 野山の雑記帳
 何年ぶりかで近くの山に登ってきました。30歳になった頃からよく登ってきた山です。今は家から車で10分くらいになりましたが、前の家からは車で30分以上かかります。初めてこの山に登った時は、夏で、登り口まで自転車で行きました。昔は体力があったんだなあと思います。国土地理院の地図を見ながら最後の山村まで行き、そこで村の人に登り口を尋ねると、そんな格好で登るのかと言われました。短パンにサンダル姿だったからですが、着替えは持っているというと安心したようで、丁寧に教えてくれました。そして、「マムシが多いから気をつけてな」と言われました。
 これは効きました。一瞬、止めようかと思いました。その頃はまだあまり低い山には慣れていなかったからでした。「登山」というと、一般的には、ある程度の高さのある山が対象で、普通は「登山道」があります。高い山は、それなりの危険はあるものの基本的には「安全」が確保できるように整備されています。ただし、それは「コースから離れなければ」の話ですが。
 それに比べると、低い山では意外に危険がいっぱいです。500~1000mくらいの山では特に注意が必要です。道があっても山仕事の道で、どこに行くのか分からないし、たいていは森になっていて見通しが利かないので、磁石を持っていても自分がどこにいるか確かめられないことが殆どです。道のないところを進むときには通ったところを覚えておかなければならないのですが、同じ地域の山の中にはそっくりな場所がかなり多く、よく騙されてしまうので、初めから迷うことは勘定に入れておかなければなりません。
 今回の山は730mくらいあり、30年くらい前に初めて登ったときには道はかなり荒れていました。それは単純に人があまり登らなかったからですが、15年くらい前、中腹あたりに林道が通り、そこから登れるようになったのでかなり登山者が増えました。といっても、それは新登り口から頂上までだけで、旧登り口からは誰も登らなくなったため荒れ放題の有様です。5,6年前に登った時には、夏場は、ここは登れないなと思いました。今回は体力を調べるためだったので、春先でもあり、下から登ることにしました。
 すごい荒れようでした。道はなくなっていました。少し登ると鹿避けネットが出て来ました。植林した木を守るためですが、これは10年くらい前に張られたものです。その向こう側は自然林だったのですが、伐採され、そこに植えた杉を鹿の食害から守るためにネットが張られたのです。その杉はかなり大きくなっていました。『この辺に樅の巨木があったはずだが』とネット沿いに登っていると先の方に茶色いものが見えました。どうもネットに絡まっているようです。動きません。死んでいるのか、弱っているのか。狐か、と思いましたが、そばまでいくと犬でした。死んでいました。首輪はないので野犬でしょう。あまりにも無残な姿だったので『帰りに外してやるから』と言って先に進みました。
 中腹の林道に着くと、上の方から話し声が聞こえてきました。新登り口の駐車場に車が一台止めてあったのでこれだなと思いました。すぐに若い女性二人が降りてきて、私の前まで来ると「あっ!」と言って立ち止まりました。「どこかで会ったかなあ」と私が言うと、3秒くらいして「間違いました!」と答えました。5,6年前、ここにあった「クマ出没、注意!」の看板はどうなったのか知らないか尋ねると、今日が初めてとのことでした。それは大きな立派な看板で、クマの絵が描いてありました。誰が設置したのかわかりません。役場にも尋ねたのですが、役場ではないとのことでした。ただ、一時、そのような噂が流れたことはあるそうです。
 頂上まで行き、時刻は遅かったのですが、少し先まで足を延ばしました。というのは、その先に「風の岩」と私が勝手に名付けた場所があったからです。岩の上に立つとヒヤッとするような場所ですが、なかなかいい所です。すぐに頂上まで引き返し、勢いがつかないように注意しながら下山しました。足を傷めるのは下りです。今日はそれを調べるために登ったのですが、案の定、途中で膝に痛みが出て来ました。やはり、無理はできないなと思いました。
 注意しながら下り、犬のところに着くとザックを降ろし、ナイフを出しました。よくこれだけ絡まったものだと思いました。網を切るのを最小限にとどめたいからですが、なかなか外れません。そうしているうちに死ぬ前の犬の気持ちが伝わってきました。どれだけ苦しんだことか。もがいて傷つき、流れた血が乾いてかさぶたになっています。最後は水が飲めずに死んだのでしょう。死臭がするし、死後1週間くらいではないかと思います。網はナイフで切ろうとしてもなかなか切れません。ようやく外すと地面に寝かせ、恨みを残すなよ、と言い聞かせました。そして、山を下り始めたら膝の痛みがまったく感じられません。私もかなり気が昂っていたようです。5,6年も登ってないこの山に、この1週間くらい急に登ってみようと思い始めたのですが、もしかすると、この犬が「外してくれ!」と言って私を呼んだのかもしれないというような気がしました。
 数m歩いたところで私は唖然として立ち止まりました。目の前には真っ黒になった樅の巨木がありました。根元から少し上の皮をチェーンソーでぐるっと一周切られています。こうすると木は養分の通り道を断ち切れ、枯れるのです。幹回りが大人二人では抱えられそうもない巨木に、それほど邪魔になっているとも思えないのに、こんなことすることはないだろうと思いました。悲しくなりました。この山を下りてきたときはいつもこの木に挨拶をしていたのです。登るときにはこの辺りで犬の方に目が行ったので気付かなかったのでしょう。この木もこんな自分の姿を見られたくはないでしょう。もうここに来るのは止めようと思いました。木のそばに行き、最後の挨拶を済ますと山を下りました。
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リフォームは大変だ!

2016-03-15 08:48:15 | ぼやき・つぶやき・ひとりごと
 今回のリフォームでは風呂とトイレがメインでした。それに伴って給湯器も電気からガスに替えます。給湯器にはそれまで井戸水を使っていたのですが、ガス給湯器の場合は水道水じゃないとだめだということで配管も新しくすることにしました。湯は台所でも使うので、つまり、水回り全部のやり替えになります。今後のことを考えれば、大変でも、今やっておくのが一番だと考えました。
 去年の11月からその打ち合わせが始まりました。まずは給湯器です。1ヶ月ほど前から電気給湯器に異変が出ていたのでこれを一番先にするのはよかったのですが、見積書を見ると「壁掛け型」となっていました。これは「据え置き型」の方がいいだろうと思いました。ガス給湯器を設置するには専用の配管が必要になるのでボンベを設置しているJAの担当者に来てもらって話を聞くと、給湯器は法律でプロパンガスのボンベから2m以上離さなくはいけないことになっているといいます。確かめて良かったと思いました。そのとき「壁掛け型」の話をすると、この壁では強度が足りないといいます。そこで納入業者にその話をすると、もう品物が来ていて返品できないというので、仕方なく補強をして設置することにしました。
 ガス給湯器からの配管を台所に入れようとしたとき、その位置に雨戸の戸袋があってうまく行きません。そこで、とりあえずこれまでの配管につないで使うことにしました。春になり暖かくなってから全部まとめてやり直そうということですが、本当にできるのか不安がありました。難しいものを先送りしても易しくなることはありませんから。
 12月2日、ユニットバスの納入業者と風呂の打ち合わせ。5日に風呂場解体。私は簡単なことだと思っていましたが、風呂場の床を破るのは1日がかりでした。いや、「1日でできた」というべきです。それは電動ハンマーを使ったからですが、兄貴は自分の家の風呂を破ったときには鏨(タガネ)とハンマーでやったので1週間かかったと言っていました。その経験から、今回は知り合いの会社で電動ハンマーを借りてきてくれたのでしたが、それでもコンクリートを割るのは大変です。こんなに硬いものとは知りませんでした。
 生まれて初めて電動ハンマーを使いました。ダダダダーッとやれば床はバリバリッと破れるものと思っていましたが、全然です。1時間もすると、もう重くて抱えていることすらできなくなりました。しかも、風呂場は一度リフォームしてあり、古い床の上にさらに新しい床が作ってありました。つまり、床が二重になっていたのです。一重でも大変なのに、もうトホホの気分です。機械を使えば何でも簡単にできると思ってしまう傾向がありますが、これ以来、道路工事でダダダダーッとアスファルトを破っているのを見ると大変だなあと思うようになりました。
 夜になって気付いたのですが、台所も居間もあらゆるものの上に砂埃が積もっていました。この日、家の中の各部屋の戸は開けたままにしていたのです。砂埃は2階にまで上がっていました。電動ハンマーを使うと粉塵が出ることを知らなかったのです。掃除機で吸うと目詰まりするし、雑巾で拭くと墨流しのように塗り付けたような状態になります。これでは床に磨き砂を撒いたようなもので、上を歩けば床は傷だらけになります。おかげで掃除も1日がかりになりました。
 庭には割った瓦礫が山積みになっています。こんなに出るのか、どうする、これ。結局、処分場を捜し、有料で廃棄しました。約200㎏ありました。処分場で話を聞くと、それは砕石業者に出し、粉砕して、また道路建設などの材料として使うそうです。それを聞いてほっとしたのですが、あとで、処分場は砕石業者に瓦礫を有料で出すのか、それとも有料で引き取ってもらうのかが気になりました。
 翌、6日、コンクリートで床作り。こんなにいるのかと思うほどセメントと砂と砂利がいります。それをスコップで練っては入れ、練っては入れで、またもやへとへとです。その晩、銭湯に行ってたっぷりの湯に浸かっていると、つい、だらだらしていたくなり、長い時間、泡のぶくぶくの中にいたら気分が悪くなってきました。これはいかんと思って上がったのですが、落ち着くまでには少々時間がかかりました。おまけに帰りの車を運転中には眠くなってくるし、何でもほどほどにしておかないといけないものだなと思いました。
 ガス給湯器に切り替えて一段落したと思ったのですが、すぐにあちこちおかしくなってきました。水が漏れ始めたのです。井戸水はポンプで汲み上げているのですが、ポンプの圧力は水道より弱(低)いのです。ガス給湯器に切り替えたときから、水圧が水道のものになりました。40年近く使ってきた配管は劣化していて、特に継ぎ目の部分の接着剤は効き目がなくなっていました。圧力が高くなると同時に水が漏れ出し、ついに栓が吹き飛ぶところが出て来ました。というのは、配管をやり替えるのにこれまでの配管がどうなっているか調べるために土を掘っていったのです。
 「何だ、こりゃ!」、姿を現した配管は蟻の巣か、プレーリードッグの地下通路のように入り組んで、まるで迷路のような状態です。どうしてこうなのか、実は、この家の前の持ち主は水道屋でした。それで必要に応じて、その都度、自分で付け加えたり、切ったり止めたりしていったのでしょう。迷路はその結果でした。どれがどうなっているか調べなければならないので配管は埋戻さず、そのままにしておきました。
 配管が劣化していても上に土の圧力がかかっている間は何とか保っていたのですが、土の重量による圧力がなくなったとたん、継ぎ目の部分がゆるみ始めたのだろうと思います。その上、朝には氷が張るようになってきていたので、昼と夜の温度差も災いしたのでしょう。おかしくなるたびに水道の元栓を止めては応急処置の繰り返しで、やはり、今、水回りの配管をやり直すという判断は正しかったことがわかりました。
 ユニットバスの出入り口は、設置するとき、洗面所の床の上に乗ることになります。そうなると、その部分はもう動かすことができません。そこで、その前に洗面所の床も張り替えることにしました。
 床をはがすと木組みの風呂に面した部分がかなり腐って土のようになっていました。洗面化粧台の後ろの配管の辺りの板も腐っていて、ここで水が漏れていたこともわかりました。これまで、水を使っていないのにポンプが回り出すということが日常的にあったので、どこかで水が漏れているなと思っていましたが、調べようがなかったのです。ホームセンターに材料を買いに行ってその日のうちに床を張り替えることができました。大きなムカデが2匹出てきて、ここに巣のあったこともわかりました。
 14日の夜、7時にユニットバスの納入業者が風呂の床の具合を確認に来ました。17日が設置予定です。洗面所に入るなり「あ~~~~~っ!」と叫べました。「低い、低い~~」と言いながら図面を出し、メジャーで測り出しました。『測るまでもない』という雰囲気ですが、どのくらいダメか、どう手を打てばいいかを考えているようでした。「5cm低い、5cm…。言い方が悪かったのかなあ」見ている私の方が気の毒になるような有り様でした。しかし、私は不思議でなりませんでした。打ち合わせのとき、兄貴と二人で図面を見ながら細かい寸法まで話をしていたのです。私は、当然、兄貴は全部わかっているものと思っていたので余計な口は挟まない方がいいと思い、二人の話を聞いていました。
 ユニットバスには6つの足があって、その6本の足で床に立つようになっています。
「足は高さの調節、できるんやろ?」「はい、できます」
横で、その会話を聞いていて不安な感じがしたのを覚えています。どうしてそんなことを聞くのかと思ったのです。ユニットバスのことを全部知っていたら聞くはずがないのです。そして、私の勘は的中しました。兄貴は、ユニットバスの足の長さが10cmくらいあるのを知っていたので、10cmくらいは調節できると思い込んでいたのです。それで、床のコンクリート面を図面の位置より5cm低くしたのです。ところが、足は10cmくらいあるものの、その調節範囲は±2cmだったのです。結局、厚さ5cmの煉瓦を足の下に置くことにしました。それだけではありません。6本足の着く位置も違っていました。私にはさっぱり訳が分からないのですが、兄貴は図面を見ながら何度も何度も確認していました。それなのにどうして10cm近くもずれるのか。足の立つ位置はきれいな平面になっていないときちんと煉瓦を置くこともできません。結局、その日のうちにセメントを練って足場の位置を大きく、広く盛り上げ、きちんとした平面にやり直すことになりました。
 「9時、9時、9時、…」私はそればかり考えながら一人で作業をしていました。風呂に入るためには9時に家を出なければなりません。7時過ぎに始めたセメント補修は3時間かかり、とうとう風呂には入れませんでした。この寒い時期に風呂に入れなかったらぐっすり眠れないじゃないかと悲しい気分になりました。仕方なく、いつものように少し純米酒を飲み、布団に入ると意外にもすぐに眠ってしまいました。
 朝になるといつもと何も変わりません。風呂に入らなくても疲れが残っているわけでもなさそうです。考えてみれば、子供の頃は風呂を毎日焚くということはなかったし、学生の頃は銭湯代がなくなることもありました。風呂に毎日入れるようになったのは風呂のある家に住むことができるようになってからで、20代後半からです。今回の一件で、風呂に毎日入れるということは、それだけですごいゼイタクなことなのだとわかりました。しかし、夜の待ち遠しいことといったらありません。夕方になると飛んで行って、誰もいない銭湯に浸かりながら、砂漠の民が日本の銭湯の溢れるような湯を見たらきっと腰を抜かすだろうと考えていました。
 17日! 7時半に業者到着、ついにユニットバスの組み立て・設置工事開始。みるみる作業は進み、午後3時半には作業終了。さすがに本職は違うなと思いました。今晩は風呂に入れると思っていたのですが、最後の説明で接着剤が乾いていないので明日からにしてほしいと言われ、最後の銭湯に行きました。
 今、風呂は快適です。風呂に浸かりながらよく考えます。私自身はかなりいい加減な人間ですが、その私が今回のリフォームの進捗過程を見ていて、こんな行き当たりばったりなやり方で風呂場は完成するのだろうかと思いました。ただ、だめならまたやり直せばいいだけで、銭湯に通う期間がさらに延びるだけのことですから、その腹積もりはしていました。大筋の計画はあっても、進むに従い次々に問題が発生し、行き違いがあったりして、どれを取っても、1日ずれたら大変面倒なことになることばかりです。それにも拘らず、すべてすれすれで解決して、何とか風呂場はできました。その風呂に浸かりながら思うことは、人生も、また、そんなものだな、ということです。
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銭湯めぐり

2016-02-05 12:52:57 | ぼやき・つぶやき・ひとりごと
 風呂を作り直すことになりました。それは水が出にくくなってきたからですが、その傾向はこの家に引っ越した時からありました。少し気にはなったものの使えないほどではなかったのでそのまま使うことにしたのです。ところが、蛇口から出る水は年々細くなってくるようで、やがて手を打たなくてはならなくなることは明らかでしたが、ただ、変化が4年をかけてゆるやかに起こっているので手を打つべき時期がなかなかつかめないのです。確かに、シャワーは初めから殆どシャワーの体をなしていないし、洗い場の蛇口の水もちょろちょろで、洗面器に水を溜めるのにも長い時間がかかります。浴槽の蛇口からはかなりの勢いで湯が出ましたが、ただ、水の方の勢いが弱いので、浴槽に湯を張るにも湯の勢いを抑えるしかありません。深夜電力利用の給湯器では温水は80℃なので、水が出ないと湯の勢いを抑えるしかないのです。
 4年前はもう少し勢いがあったと思うのですが、そんな状態ですからシャワーはずっと使っていませんでした。前の家もシャワーはなかったので気にならなかったのですが、去年の夏頃だったか、シャワーを出してみたら、すごい勢いで出たのです。これはいいと思ったのも束の間で、30秒後にはピタリと止まってしまいました。そこで、まずは、サーモ水栓を外し、分解してみましたが、どこも詰まってはいないようでした。ここでないということは配管を調べなくてはなりません。水栓の取り付け部を外すと管の口には赤い鉄さびが詰まっています。これを取ればいいだろうと思いましたが、カチカチでドライバーなどを使って奮闘しましたが、口のところは少し広げられたものの、その奥の直角に曲がった部分より先は手の打ちようがありません。その先は詰まっていないことを願うばかりです。器具を組み立てテストしましたが全く変化はありませんでした。しかし、一瞬とはいえ勢いよくシャワーが出たからには出る能力はあるはずです。その思いを捨て難く、考えられる限りのことを試しましたが結局はだめでした。一瞬とはいえ、どうして勢いよく出たのか、その理由は今もってわかりません。
 いずれにせよ、配管を替えるには壁を破らなければなりません。それなら風呂を作り直した方がいいだろうということになりました。どちらかというと嫌いだったのですが、時代の流れからユニットバスにすることにしました。
 兄の会社で安く仕入れられるということで、組み立て以外は自分でやることにしました。兄は自分の家のも自分でやっているので私は手伝いをするだけですが、かなり簡単に考えていました。最初に、今の風呂の天井を破ると聞いたときにはギョッとしました。そんなことして大丈夫なのかと思ったのです。換気扇を付けるので保守するためには天井はない方がいいというのです。私は、天井は鉄板を張ってあると思っていたので、それを破るくらいなら換気扇は要らないと思いました。ところがユニットバスは換気扇を取り付ける仕様になっているため、こちらには工場で穴を開けられたものが来るということが分かりました。納入業者に、穴を開けないでほしいというと、すでに発注してあるのでもう遅いといいます。そこでメーカーに連絡を取って確認してもらったところまだ大丈夫だということがわかりました。ところが、そのとき納入業者との話し合いの中で天井はプラスチックの板だということが分かり、たいていの家ではその隙間から水蒸気が漏れて木組みはボロボロになっているということを知ったのです。それで結局、天井を破り、換気扇も付けることにしたのですが、家に帰って天井に触ってみるとやはり鉄板ではないようでした。家が「軽量鉄骨」ということと、天井の色から私が勝手に薄い鉄板だと思い込んでいただけのことでした。
 工事中、風呂はなくなります。その間、どうするか。銭湯へ行くということになりますが、家の風呂に慣れている私には少し抵抗がありました。それに銭湯がどこにあるのかも知りません。そこで考えたのが、今の風呂の浴槽を庭に持って行って露天風呂を作るということでした。給湯器からホースで湯を引けばいいと簡単に考えていました。まだ11月の初めのことだったので、これで解決すると思ったのですが、それから気温はぐんぐん下がりはじめ、ついに初霜が降りました。これはだめだと私も悟りました。
 インターネットで銭湯を捜すと伊勢市内に6か所あり、小俣町に市の経営するものが一つあることがわかりました。車で20分くらいかかりますが仕方がありません。土日を利用して工事をするので風呂ができるまでに10日程かかります。いろいろ考えているうちに「銭湯めぐり」を思いつきました。こういうときでもなかったら銭湯に行くことはないわけだから、ある意味、これはいい機会です。それぞれの定休日を調べ、銭湯めぐりの計画を立てました。
 40年前のことを思い出して、洗面器に石鹸、タオルに着替えを持って行ったのですが、今はプラスチックの四角いカゴのような銭湯グッズがあり、私は何か場違いなところに来た気がしました。タイムマシンで40年をタイムスリップした気分です。意外にも銭湯はかなり混んでいて、家に風呂があるのにわざわざ銭湯に来ているようでした。以前は、家に風呂がないから銭湯に行ったのです。こういう変わり方もあるのかと思いました。確かに、浴槽には湯があふれています。泡もぶくぶく出ているし、ビリビリする浴槽もありました。漏電していると思ったのですが、実は電気風呂でした。
 湯船につかりながら浴場の様子を眺めていると昔とはずいぶん違うなと思いました。それは体形です。極端に肥満した人がかなり多いのです。これでは家の小さな風呂に入るのは苦しいでしょう。これが今の日本の姿かと思いました。背中一杯に入れ墨をした人もいました。今もこういう人はいるんですね。ということは彫士もいるわけで、経済的に成り立つのだろうかと思いました。また、ある銭湯では英語の説明書きがありました。外国人に銭湯のマナーを説明するためのものですが、その英文を読んでみると、通じるかどうか怪しいものもありました。だけど、これも国際化のあらわれでしょう。番台にいる人に、外国人は来るのか尋ねたところ、来ないとのことでした。仮に、来たとしても最初は銭湯を知っている人に連れてきてもらうだろうから、その人からマナーも教えてもらうことになるでしょう。実際、それが自然ですね。
 10日ほど銭湯に通い、銭湯が賑わっていることを知って嬉しく思いました。銭湯はさびれているものと思い込んでいたからです。確かに、多くの銭湯が廃業したことは事実ですが、今営業しているところは大丈夫なようで、今後も長く続けて行ってほしいと思います。銭湯は、これは日本の生活文化的遺産ですから、これからは私も時々銭湯に行こうと思います。
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コンニャクを作るぞ!

2015-12-17 10:42:49 | ぼやき・つぶやき・ひとりごと
 ついにコンニャクの刺身を食べました。40年以上前に「コンニャクの刺身」というものがあると聞いて以来、ずっと気になっていたのです。そのとき私はまだ十代の終わり頃で、聞いた印象としては気味悪さが先行し、食べてみたいとは思いませんでした。ただ、誰が考えたのか、「刺身」と「コンニャク」という異質な結び付きが妙に気になったことを覚えています。その後、何十年かして、時々「コンニャクの刺身」という言葉を耳にするようになりました。「コンニャクの刺身はうまいらしい」、「あれは絶品だ」、「フグ刺しみたい」等々…、それを聞くに及んで私の中で「コンニャクの刺身」についての捉え方が変化し出しました。もしかすると「掘り出し物」かもしれないという気分が醸成し始めたのです。
 10年ほど前に、市の広報でコンニャク作り体験会の記事を見つけました。そこにも「作りたてのコンニャクはうまい…」というような解説がついていて、すぐにも申し込もうと思ったのですが、予定の調節に数日かかってしまいました。市の広報部に電話したところすでに満員ということで最初のチャンスを逸することになってしまったのです。キャンセル待ちのリストに載せてもらったものの連絡はなく、ただ悔しさだけが残りました。
 4年前、ここに引っ越してきたとき近くの畑でコンニャクを掘り上げているところに行き会いました。そのとき掘り出した生子(きご、1年目の芽で植えれば将来コンニャク芋になる)をいくつかもらいました。翌年の春に半信半疑で植えたのですが、だめだったかと諦めた頃に地面からピンク色の槍のようなものが突き出してきたのです。やはりコンニャクは変わり者だなと思いました。3,4年後にはコンニャクが作れるかもしれないと思ったのですが、その時に消石灰(水酸化カルシウム)を混ぜるというし、そんなことして食べられるのかなあとあまり気乗りはしませんでした。でも、まあ、食べられるのは数年先のことだから、考えるのはまたそのときにすればいいと思いました。
 2年後の秋、コンニャク畑をイノシシに荒らされました。すぐそばにサツマイモと山芋をつくっていたので、そこが襲撃されたのですが、そのときコンニャク芋も掘り返されたのでした。これで終わりかと思ったのですが、今年の晩春、地面からピンク色の槍が突き出したのです。いくつかは土の中に残っていたのでした。秋になって、今年はコンニャクを作ってみようか、それともまだ早すぎるかと迷っていたとき、たまたま図書館に「植物工場」関連の資料を調べにいったのですが、そこで偶然「絶品 手作りコンニャク」という本を見つけたのです。何というタイミング!これはもう作るしかないと思いました。
 これは稲わらの灰を使うもので、いかにも手作りという感じです。熟読し手順をノートに書き出して準備をしました。まず稲わらが必要です。友人に電話をし、事情を話して稲わらを分けてもらうことになりました。ところが彼は話をよく聞いておらず、畑に野積みにしてある腐りかけの稲わらを軽トラックの荷台に積んで家に帰ってきたのです。すると、それを見た奥さんが、「コンニャクを作るのにそんな汚い稲わらを持って行ってどうすんの。」と言われてやっと気が付いたようで、納屋からきれいな稲わらを出し、うちに持ってきてくれました。せっかく積んだからといって汚い稲わらも置いていきました。こんな稲わら、どうしようかと思いましたが、たまたま別の件で役立つことになりました。
 畑のコンニャクの葉はまだ枯れ切っておらず、枯れて茎が倒れるまでの1週間を一日千秋の思いで待ちました。最初に枯れたコンニャク芋を一つ掘り出し、まずそれで実験です。河原へ行って一斗缶の中で稲わらを焼いて灰にしました。それに分量の水を加えて灰汁を作ります。ゴム手袋をしてコンニャク芋の皮を剥き、灰汁の中でおろし金を使ってすりおろします。それを半日靜置するとプリンのように固まりました。夜になってしまったので火を通すのは翌日にしました。一回目は小さな鍋で湯を沸かし、固まるかどうか実験します。本によると最初が難しいということなので慎重にやりました。温度計で測りながらプリン状の塊を一つ入れてみました。10分くらいしてうまく行ったかと思った直後、部分的に溶け出すように見えました。1時間以上加熱して、結果は、一部は溶けだしたものの何とかコンニャクらしきものになりました。それを水に晒して数時間、ようやく刺身作りにかかります。その本によると刺身にはへぎ(そぎ)作りと平作りと書いてあるので両方試してみることにしました。
 いよいよ試食です。頭の中を「コンニャクは絶品だ、うまいぞ、フグ刺しみたい…」の言葉が駆け巡ります。醤油をつけて一口目、何かよく分かりません。期待感が先行してうまいのか、それほどでもないのか、判断がつかないのです。しかし、確かに、魚の刺身の食感はあります。味は醤油の味なので「うまい」というべきなのか分からないのですが、二切れ、三切れと試すうちに、これが本当にコンニャクかという気持ちが強くなりました。考えてみれば、魚の刺身は筋肉で、筋肉もコンニャクも、物理化学的にはプリン状の「ゲル」という状態なので食感が似ていても不思議はないのです。それからは、うまい、うん、うまい、確かにうまい、まちがいない、これはうまい、うまいぞ!と一気に絶品街道を駆け上りました。
 次は大きな鍋を用意し、本茹でにかかります。数時間加熱を続けるので、これはガスを相当使います。コスト面からしょっちゅうするわけにはいかないことが分かりました。今月のガス代は跳ね上がっているかもしれません。「コンニャク祭り」として年中行事にするのが妥当なところでしょうか。
 作ったコンニャクを知り合いや職場に持っていきました。やはり好評でした。全部なくなってしまったので次を作ろうと畑に行ってコンニャク芋を掘り出すとどれもまだ小さく、来年用だなというものばかりです。もう一度食べたい気分はありましたが、案外、こういう終わり方がいいのかもしれません。どんなうまいものでもたらふく食べれば飽きが来るし、もう一口食べたいというところで終わるのが好印象を残すことになるのでしょう。ということで次の絶品コンニャクは来年までお預けです。
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