遊去のブログ

ギター&朗読の活動紹介でしたが、現在休止中。今は徒然草化しています。

「お茶会」

2017-04-30 07:57:01 | ぼやき・つぶやき・ひとりごと
 ある美術館で「桜」の写真展に合わせたセレモニーとして「お茶会」がありました。その後にはコンサートがあります。私はそちらを聴きたかったのですが、料金が「お茶会・演奏会セット」となっているのでお茶会の方にも出ることになりました。
 私は「セレモニー」というものが苦手です。こういうものはできるだけ避けて生きてきました。セレモニーでは決まった「手順」があり、その手順をよどみなくこなすことを期待されています。私は自分が、その意義を感じることのできない行為を行うことに抵抗を感じます。人がやるように真似をしてやれば済んでしまうことなのに、どういうわけかその前で立ち止まってしまうのです。実際には自分の番が回ってきたときには適当に流すしかないのですが、それで良かったのかどうか、どうしてこんなことをするのか…等々、後味の悪さが残ります。
 「抹茶」に初めて出会ったのは中学生の時でした。文化祭のときに「お茶会」のチケットをもらったのです。おそらくそういうサークルがあったのでしょう。「和菓子が出るよ」という言葉に釣られて友達とその部屋の前まで行くと入口には先に来た人が並んでいました。そこに「お茶」を終えた同級生が部屋から出て来ました。そして私に「お茶は苦いぞ!苦い、苦い!」と言い残して去って行きました。その一言は効きました。その言葉で私は動揺し、ためらい始めました。部屋の入口まではあと数人並んでいます。あそこを入ったらもう戻れないぞという気分が高まって入口の直前でついにUターンしてしまい、後には「和菓子」への未練が残ることになりました。
 今は家で時々お茶を点てています。その理由は簡単で、点てたお茶の「さ緑」色が好きだからです。あるとき、と言っても、父がまだ存命中で、30年も前のことですが、簡単なお茶の道具を持って父の隠居所に行ったことがあります。父は若い頃に「花」を長くやっていて、それに合わせて「お茶」も習っていたことがあるのです。それを知っていたのでお茶を点てたら喜ぶかなと思ったわけなのですが、途中でお茶用の和菓子屋へ立ち寄ってぎょっとしました。値段が倍くらいするのです。確かに、そこに並んでいる和菓子は食べてしまうのが惜しいような美しいものでした。怯む気持ちを抑えていくつか買うと、父の家に行き、茶を点てました。座卓の上に茶碗を置くと、父は胡坐をかいたまま茶碗を取ろうとしたので、正座した方がいいのではないかと私が言うと「そうか」と言って座り直しました。そしてお茶を飲もうとしたので「お菓子が先やろ」とまた私が言いました。父は「そうか」と言って茶碗を置くとお菓子を一口食べました。それから茶碗に手を伸ばしたので「お茶はお菓子を全部食べてからじゃないの?」と聞くと「そうかなあ」と言いながらお茶を一口飲みました。それから茶碗を置くとお菓子の残りを食べかけたので『やはりこれも有りなのかなあ』と思いました。
 実は私もそうなのです。外では聞きかじりの作法の知識に合わせますが、家ではお菓子を食べたり、お茶を飲んだりしながら楽しんでいます。実際、お菓子を食べればお茶が飲みたくなるし、お茶を飲めばお菓子が食べたくなるのです。初めは自由に楽しんでいたものに次第に形ができ「作法」としてまとめられていったのでしょう。
 今回は写真展の会場にパイプ椅子が並べられ、四面の壁に桜の写真のパネルがぐるりと展示されていました。そして最前列の椅子の前に3人掛けの折り畳み机が2つ置いてあり、そこでお茶を頂くようになっていました。お茶は正面の壁際で点てていて、そのお茶を着物姿の女性が机のところまで運ぶ形です。
 私が席に着いて机の上に引換券を置くとすぐに着物姿の女性が桜餅を運んできました。歳の頃は60前後か、そして桜餅を私の前に置くと「先にお菓子を食べてください」といいながら引換券を手に取って下がっていきました。
 そのとき目に留まったのはその女性の指先でした。爪に強烈な色のマニキュアが塗られていたのです。それから少ししてお茶が運ばれてきましたが、それが差し出されたときにも目についたのは爪先でした。お茶を飲み終えて私が茶碗を見ていると茶碗を引き取りに来たその女性は「○○です」と言いました。私が茶碗を置くと両手(?)を伸ばしてそれを引き取り、下がっていきました。着物よりも茶碗よりも爪先のマニキュアが私の目に残りました。
 私は以前から、「お茶」をする人たちがそのセレモニーの中にどのような楽しみを見い出しているのか気になっていました。それで「お茶」をする人に出会うとそれを聞きたいと思うのですが、不躾に「どこがおもしろいの?」とは聞けません。それで遠回しに尋ねてきたものの未だ要領を得た返答に出会ったことがありません。
 ずっと以前のことですが、クラシックギターコンサートのチラシを配っているとき、ある女性に「どんな服を着ていったらいいの」と聞かれたことがあります。そういうところに行ったことのない人はまずその服装から不安になるようです。逆にいうと、そういうときでもなかったら着る機会のない服もあるということです。つい最近、真珠のネックレスを見る機会がありました。ずらりと並んだ商品の横にある値段表を見て目を瞬きました。落ち着いて「0」の数を数えると6個あります。100~200万円でした。それまでこういう装飾品の値段を知らなかったのでその時にはこんな高価なものを身に付けていたら不安にならないかと思いました。今考えると、それらはそれなりの機会に身に付けるものなのでしょう。やはりパーティーのようなものでもないと箪笥の肥やしになってしまうことになります。
 華やかな着物も日常生活で着る機会はありません。茶席もその機会の一つかも知れないなと思いました。今回は「桜」と関連しての彩りかも知れませんが、華やかな着物の袖と茶碗を繋ぐ手の指先は桜色の爪がいいと思いました。いずれにせよ、私には、雑草の生えた庭や畑に小さなゴザを敷いて茶菓子を食べながら楽しむ「お茶」が合っているようです。
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客演します。

2017-04-02 08:28:51 | コンサートの御案内
◆伊勢市クラシックギターを楽しむ会第68回例会
「ギターと語りと…」          
4月23日(日)14:00~15:30   
伊勢市福祉健康センター1F 日常生活訓練室
演奏者;遊去(客演/ギターと語り)、広垣 進(ギター)
演目;谷川の小さな川原のコンサート(遊去/ギターと朗読)
   「リュート組曲第3番」より前奏曲(バッハ)
   埴生の宿(ビショップ)
   花(滝廉太郎~広垣 進編)…etc.
参加費800円 *共通前売券(700円)が使えます。
※会員は無料! … 会場設営、受付等お願いします …
⇒ 一部を「いせ市民活動センター災害復興支援プロジェクト」に寄託
主催;伊勢市クラシックギターを楽しむ会  
   http://blog.goo.ne.jp/ise-guitar
後援;広垣 進ギター教室  
【問】広垣 進 090-5618-4463 sh72j@yahoo.co.jp
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 今回の演目の「谷川の小さな川原のコンサート」は実話に基づいた話で、蛙が出て来ます。この出来事は2002年6月に「山のコンサート」というタイトルで「遊去の部屋」に載せました。だからこの出来事自体はそれ以前ということになります。一昨年の夏にギター朗読用の作品として作り直したのですが、音楽の方がどうも気に入らず、そのまま寝かせてありました。
 今回、広垣進氏から客演の依頼を受け、何をやろうかと考えていたところ、この話を作ったことを思い出しました。久しぶりに見てみたら前に行き詰ったところはすぐに解決してしまいました。「寝かせる」ことにも意味のあることを実感しました。
 この作品が約30分、その前後に何曲か合わせて全体で45分くらいになり、コンサートの前半を受け持ちます。後半は広垣進氏の演奏です。
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「遊去の話」を作りました。

2017-03-09 09:03:46 | ぼやき・つぶやき・ひとりごと
 3月1日に「遊去の話 http://blog.goo.ne.jp/yukyo-hanashi 」を準備しました。こちらは過去の出来事について書く予定で、数年前に閉鎖された「遊去の部屋」と「遊来遊去の雑記帳」からも少しずつ載せていきます。「遊去のブログ」の方は現在進行形で記します。
 こういうものを自分で取るのは初めてでした。「遊去の部屋」も「遊来遊去の雑記帳」、そしてこの「遊去のブログ」も、すべて知人が準備してくれたものでした。今回、過去の出来事についての話や過去に書いたものを載せるための枠が欲しいと思ったのですが、このブログの中に<カテゴリー>として分けて入れるより新しいものを別に作った方がいいだろうと思いました。
 実は、これは数年前から考えていたことでした。どういう形にするのがいいか、すでに原稿がたくさんあるので目次が欲しいなあと考えているうちに何年も経ってしまったのです。だけど実際のところは新しいブログの枠をどうやって取ればいいか分からなかったことが最大の理由でしょう。
 ようやく重い腰を上げて取り掛かるとすぐに取得できました。簡単でした。それで最初に「コロちゃん<出会い>」を入れてみると画面に文字が表示されたのでうまく行ったことが確認できました。ただ画面がまぶしくて読みにくいように思ったのですがどうやって調整すればいいのか分かりません。<テンプレート>というのがあったな思い、そこを見ると画像がたくさん出て来ました。マウスを動かして画像の上に持っていくと「矢印」が「手」のマークに変わったのでクリックしてみました。そうしたら画面がパッと変わり、下の方に『プレビューをしています』という表示が出ました。なるほど、こちらの方が読みやすいと思ったのですが、そこから後が分かりません。この画面が出たままでそこから先に進めないのです。この日は結局、ここまででした。
 「遊去の話」は動き出したものの、以前に書いたものをそのまま載せるだけというのには何か不満がありました。2日の朝、フトンの中で<コメント>を加えることを思いつきました。そうすれば構成が立体的になるのではないかと思ったのです。しかし、すでに投稿した記事を直す方法が分かりません。編集画面でいろいろいじっているうちに何とかやり方を見つけました。これで随分気持ちが楽になりました。これまではメールと同じで「出したら終わり」だったのです。
 修正はできるようになりましたが画面は依然として見にくいままです。2日もプレビュー画面から抜けることはできませんでした。そして3日の朝、フトンの中でぼんやり考えているときに画像の下のタイトルの前に小さな○があったことを思い出しました。その中に「・」を入れるのではないかという考えが頭に浮かびました。これは、まさに正解でした。これだけのことが分からないのです。これが現実なのですね。
 先日、友人の家で飲み会をしました。終わり頃に「おにぎり」を渡されました。私は海苔の取り出し方が分かりませんでした。友人が「最初にこれ、次にこうする」と順序を教えてくれました。そのとき別の友人が「今の時代におにぎりの食べ方を知らない人間がいるとはなあ」と呟きました。おにぎりが必要なときには自分で作るので<買う>ということありません。だけど私も2度や3度はこのようなおにぎりを食べたことはあるのです。おそらく、そのときにも海苔の取り出し方を教えてもらったのでしょう。見ると、おにぎりの包みには①、②、…と作業の順序が記されていました。『なるほど』とそれを読みながら感心しました。
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「モデルにする」ということ

2017-02-28 09:24:18 | ぼやき・つぶやき・ひとりごと
 先日、モームの「月と六ペンス」を読みました。これは2度目です。最初は学生時代で、講義中に先生がこの本の話をされ「60ページくらいまではおもしろくないが、そこを過ぎるとおもしろくて、おもしろくて…」というようなことでした。確か、一般教養の芸術論だったか、美術論だったか、とにかくその方面の講義だったのでゴーギャンとの関連での話だったかもしれません。
 この話を聞いたとき私は奇妙なことを思いました。「60ページくらいまではおもしろくない」というのはどういうことだろうか。先生の話では、そこまでは苦痛だというのです。そのとき私は思いました。『60ページ以降、おもしろくできるだけの書く力があるのなら最初からおもしろく書くことなんか何でもないはずだ。もしかすると、60ページまで辛抱強く耐えた読者だけにその後のおもしろさをプレゼントするということではないだろうか。』
 こうなると「どのくらいおもしろくないか」が気になります。60ページまであと何ページ、何ページ…と、それを楽しみに読んで行きましたが、どういうわけかそんなにおもしろくないとも思えません。確かに、小説の初めは登場人物の人間関係や状況の説明が多いのでそれらがなかなか頭に入らず退屈することも多いのですが、ある程度それは仕方のないことだと思っているせいか、「60ページ」はすぐにやってきました。そこからはまさに先生の話の通りでした。
 今回、この本を読み返す前に覚えていたことは、「おもしろかった」、「ゴーギャンをモデルにしている」ということだけで、内容については全くと言ってもいいほど覚えていませんでした。そして、ゴーギャンについては「傲慢でとんでもないひどい人間」という印象を持ちました。
 40年ぶりにこの本を読み返しながら思ったことは、小説というのはここまで忘れるものか、ということでした。少なくとも「文」を読んでいるときは初めて読むのと変わりません。そして、その後は「受けた印象」だけが残っていくのです。これは怖いなと思いました。今回、読了後、ゴーギャンという人物が気になりました。小説の中で「ゴーギャン」という名前は出て来ません。だけど「ゴーギャンをモデルにした小説」ということが頭にあるので主人公をゴーギャンに置き換えて読んでしまいます。初めて読んだときには私も若かったので気付かなかったのですが、今回は「おかしい」と思いました。それで読了後、図書館に行き、画集を数冊借りて解説を中心に読んでみました。その結果、実際とは相当違うということが分かりました。
 伝記ではないとわかっていても「モデルにした」と言われるとどうしてもイメージを重ねてしまいます。また、ドラマでも映画でも実在の人物を扱う場合、事実に基づいて作っていても、その内容は作者の作り上げたイメージです。だけど見る方はそうは考えません。わかっていても、そこに描かれたイメージを事実と感じてしまいます。忠臣蔵での「吉良上野介」も役柄であって真相ではありません。悪役を演じた俳優が町中で石を投げられたという話を聞いたこともあります。わかっていてもそういう傾向があるなら「モデルにした」と公表することには配慮が必要な気がします。ゴーギャンの研究資料を読む人に比べて「月と六ペンス」を読む人は圧倒的に多いわけで、私の場合のように40年間も誤解していたということもあるわけですから。
 とはいえ、そんなことを言ったら何も書けなくなってしまいます。ここはやはり読者の「良識」に頼るしかないでしょう。が、それよりも情報操作の渦の中で暮らさなければならないこの時代には「どのように良識を鍛えるか」ということの方が課題になるかもしれません。
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たっぷり眠る

2017-02-10 08:46:28 | ぼやき・つぶやき・ひとりごと
 動物学の本を読んでいて「睡眠」についての考え方を変えることにました。動物にとっても眠ることはとても大切で、必要な眠りをどのように確保するかということは切実な問題だということが分かったのです。動物は人間のように連続して眠るわけには行きません。野生動物は多くの場合、常に命の危険に晒されているので睡眠はこま切れに取っているようなのです。ぐっすり眠ることのできるのはライオンと人間くらいだということでした。その眠りを妨げると生理的にも障害が出てくるそうです。
 そんなことは当たり前で誰でも知っていることでありながら、実際には睡眠時間を削って短くする方に価値を見出します。私が学生のときには「四合五落」などと言われたこともありました。大学に合格するには5時間も眠っていてはいけないという意味ですが、こういうところにも「眠り」を軽視する風潮があるようです。
 私は眠さには極めて弱く、眠くなったらどんなところでも眠ります。それだけに平気で徹夜をする人や短い睡眠時間でやっている人にはとてもかなわないと思うところがありました。そういうわけで7時間眠ることには罪悪感があり、許せる最大が6時間30分というところでしたが、ただ目覚まし時計は使わず、自分のリズムで目を覚まします。人はそれぞれ体質も違うのだから自分に合わせて生活すればいいだけのことなのにそれがなかなかできないのです。
 動物がブツ切りでも積極的に睡眠を取ろうとしている姿を考えることで自分もたっぷり眠ってみようかと思い始めました。といっても自然に目が覚めてくるのでそんなに長い時間は眠れません。せいぜい7時間から7時間半くらいです。8時間眠ると腰が痛くなります。が、うとうとしながら目が覚めて、眠ければまた眠ってもいいようにすると夢を見る時間が多くなりました。セピア色の世界から目覚めても30分くらいは布団の中で考え事をしています。そうしているうちに昼間の時間の質が良くなっているように感じ始めました。物事がどんどん解決していくのです。そして何よりなのは一日中気分が快適だということです。
 何をするにも、考えるにもすっきりしない気分で取り組むのと快適な気分で取り組むのとでは結果は相当違ってきます。単純作業なら能率が上がらないくらいでそれほどの違いはないかもしれませんが、創作の場合には気分が快適じゃないと肝心なところでの根気が続きません。たっぷり眠るようにしてから、中断していた話やそれと合わせる作曲・編曲が再び動き出しました。そうなると気分はさらに良くなってきます。
 やはり眠りには大切な役割があるように思います。その生物が正常な営みを続けるために必要な処理のうちで、眠っているときにしかできないものがあるのだと考えています。その反応はたくさんの種類の酵素による連係プレーなのでその人が持っている酵素の量によっても効率は違ってきます。それを4時間でできる人もいれば9時間かかる人もいるということですが、自分に合わせるにはたっぷり眠ればいいということでしょう。といっても世の中に合わせるとなると難しい面はありますが、「眠り」を中心に生活を組み立てるということはできるのではないかと思います。
 前に落語で「ソバ食い名人(?)」の話を聞いたことがあります。ざるそばを食べるときは箸でそばを摘み、垂れ下がった先の方に少しだけつゆをつけて、それから一気に音を立てて食べるというのが「通」の食べ方だというのです。つゆをたっぷり浸けるのはそばの味が分からないもののやることで邪道だということでした。ソバ食いの名人とは「通」のやり方で如何にもうまそうにそばを食べる人のことです。あの人ほどうまそうにソバを食う人はいない、ソバの味の分かる人だともてはやされたその人が死ぬ間際に言った言葉が「一度でいいからつゆをたっぷり浸けてソバを食べたかった」というものです。
 私も死ぬ間際になって「たっぷり眠りたかった」などと言わなくていいように生きたいと思います。
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歯を削る

2017-01-19 09:06:28 | ぼやき・つぶやき・ひとりごと
 歯に被せてある金属冠は何年かすると外れます。その時には歯科に行かなければならないので、そろそろかなと思うと気が重くなります。最近では歯の治療での痛みは殆どなくなりました。どういうわけなのか分かりませんが、これはありがたいことです。それにも拘らず、歯科の治療椅子に座ると体がこわばるのはどうしてでしょうか。背もたれが後ろに倒れると思わず手に力が入ります。
 こちらに引っ越してからというもの歯医者をどうするか、ずっと気になっていました。引っ越して1年目のときには遠くなってしまった以前の歯医者に行きました。だけどいつまでもそんなことをしているわけにはいきません。4年目に当たる一昨年の10月、久しぶりに歯に異状が出ました。ピーナッツを食べると1ヵ所に痛みが出るのです。仕方がない、歯医者を捜すか。
 すぐ近くに歯医者があることは知っていました。裏山の探検に行くときに偶然その前を通ったのですが、モダンな建物で、小さな美術館のような雰囲気がありました。しかし、歯医者は「腕」です。私はそのカフェレストラン風の様子から、逆に不安な気持ちになりました。数日間迷った結果、どこの歯医者に行くにしても建物を見て歯医者の「腕」が分かるわけではない、治療を受けてみなければ分からないと思い、結局、歩いて行けるその医院に行ってみることにしました。
 診断の結果は歯が欠けて小さな穴が開いているということでした。そこにピーナッツの砕けた粒が入ると痛むのだろうということでした。そこをセメントで埋めるか、根本的な治療をするか聞かれたので、とりあえずセメントで埋める方を選びました。そこで今度は技工士(?)がその処置をしてくれたのですが、セメントが固まるまでの間挟んだ詰め物をしっかり噛んでいるように言われたので私はそれに従いました。途中、顎が疲れてきて「しっかり」とはどのくらいの力なのだろうと考えいるとピーッと音がして時間がきました。技工士が「開けてください」と言ったので口を開けようとしたのですがくっついたような感じがして開けられません。力を入れて開けると違和感がありました。何か固い物があるのです。彼女にそういうと口の中を見て「あっ」と言いました。下の歯の被せ物がくっついて取れてしまったのです。私はそろそろそれが取れてもおかしくない時期だと思っていたので大して驚きもせず「またくっつけておいてください」と言ったのですが、彼女は蒼白な表情で治療室から飛び出してしまいました。よほどびっくりしたのでしょう。すぐに医師といっしょに戻ってきました。「これをくっつけるんですか?」と医師。見ると、これが歯かと思えるようなひどいものでした。それは以前に割れていたしまった歯で、それを接着剤でくっつけてその上に金属を被せてあったのです。その歯が被せ物ごと外れてしまったわけですが、現物を見るのは私も初めてでした。よくこんなものでこれまでもっていたものだと思いました。だけど今まで使えていたわけだからしばらくは使えるのではないかと思いました。できるだけ歯を抜きたくないというのが私の考えでした。今も何とかその歯を使っています。

 去年の12月、今回は別の歯の歯冠に穴が開いてしまいました。それの治療で歯冠を外すと中の歯はボロボロでした。私は抜くしかないと覚悟したのですが、医師は土台を作ってその上に被せることができると言います。いろんな手があるものだと思い、それをお願いしました。まず型を取り、それからそこを応急的に埋めてもらいました。一応解決の目処が立ったので私は喜んで家に帰りました。
 家に帰るとテーブルの上の「ういろう」が目に留まりました。これは昨日初めて作ったものですが半分残っていたのです。すぐ横に小さなフォークがあったのでそれを取ると「ういろう」に突き刺しました。それを口に持って行って食べるとガリッという音がしました。おかしい、石でも入っていたかと思って見てみると、かなしいことにフォークを噛んでしまったことが分かりました。小さなフォークが横になって前歯の間に挟まり、前歯の先端がほんの少し剥離するように欠けてしまったのです。
 仕方がないと思いましたが、唇の内側が痛みます。それは剥離したために歯の先がナイフのようになってしまったからでした。それにも拘らず唇はそこに触れようとするのです。そのうち歯先も丸くなるだろうと思い辛抱していましたが、翌日、鏡で唇の裏を見ると傷だらけになっていました。これはまずいと思いました。そう簡単には歯先は丸まりそうもありません。歯医者に行けばすぐに歯先を丸く削ってくれるだろうと思いましたが、フォークをかじったという説明をするのは嫌でした。そうなると自分で何とかするしかありません。納屋に行き、小さなヤスリを捜しました。確かにあったはずなのですが見つかりません。仕方なく30cm定規ほどの大きなヤスリで削ることにしました。
 母屋に帰り、机の上に鏡を置き、口の中に長いヤスリを差し込みました。これは金属を削るためのヤスリなので慎重に扱わなければなりません。やり直しはできないのです。失敗すれば今度は歯医者に行ってヤスリで歯を削ったと言わなければならなくなります。これは何としても避けたいところです。まず舌の先で歯の尖り具合を確かめます。そしてゴリゴリせずに、一方向に1回だけ軽くこすってみることにしました。鏡を見ながらヤスリを前歯に当てます。鏡に映る自分の姿は異様でした。人生にはいろんなことがあるものだ…などと思いながら全神経を集中してゆっくりヤスリを引きました。それから舌先で歯に触れてみます。削れていました。この分ならあと2回くらいでいいかなと思いました。軽く、軽く、ヤスリのゴリゴリする感触を感じながら引きました。舌先で確かめ、唇で触れてみました。OKです。思わずため息をつきました。こんなことにも実に達成感のあるものだということを知りました。しかし、これは歯医者には内緒にしておくつもりです。
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柿、熟す

2016-12-16 09:12:12 | 畑の話
 柿の木に巨大な実がなりました。蜂屋柿です。この家に引っ越してから植えたものですが、去年、初めて実がなりました。たった2つですが、実に存在感のある実でした。
 蜂屋柿は渋柿なので干し柿にして食べますが、大きくて肉厚です。その干し柿の堂々たる姿は知っていましたが、元の柿の実がどんなものかは考えたことがありませんでした。
 子供の頃、庭に大きな柿の木がありました。秋になるとたくさん実が成り、下から見ると青空に打ち上げられたオレンジ色の花火のようでした。その木も私が小学生のときに切られてしまい、思い出だけが心の中に残りました。『いつか柿の木のある家に住みたい』と思いながら何十年かが過ぎ、終の住処を探し始めると柿の木のある家に目が行く自分に気付きました。が、結局、柿の木のない家に住むことになったのでホームセンターで、禅寺丸、富有柿、蜂屋柿の苗木を3本買ってきて植えました。
 桃栗三年柿八年…というから実が成るのはずっと先のことだろうと思っていましたが、接ぎ木をしてあるためか、植えて3年目の去年には白い花が咲き、実が成りました。といっても蜂屋柿は2つだけです。しかしその成長には目を見張るものがありました。緑色の実がぐんぐん大きくなるのですが、私の持つ柿のイメージを超えても成長が止まりません。すぐ隣の富有柿も初めて7個ほど実を付けましたが、こちらは普通のサイズです。こちらと比べると蜂屋柿は異状に見えました。そして梨くらいの大きさになり、色付き始めました。人間の背丈くらいの木に大きな実が2つ。やはり異様です。実が2個しかならなかったからこんなに大きくなったのだろうと思いました。
 渋柿なので干し柿にするか、熟すまで待つかになりますが、せっかくなので一つは干し柿、もう一つは熟させることにしました。干し柿の方は軒先に紐で吊るすと「てるてる坊主」のようになりました。結果は、どのタイミングで食べるかが分からずうまく行きませんでした。熟した方は「明日だな」と思った翌日、みごとに鳥にやられてしまいました。そのつつき方からみるとヒヨドリでしょう。くちばしでつつかれた周りを避けて味をみると実にみごとな味でした。

 渋柿が食べられることを私が知ったのは15年くらい前のことです。それまでは、渋柿と言えば子供の頃の恨みしかありませんでした。ただ秋の青空を背景にたわわに実る柿の木のある景色は好きでした。まさに郷愁を誘う風物です。そんな渋柿の木が、前に住んでいた家の窓の横に生えてきたのです。私が種を捨てたのでしょう。その木はすくすく育ち、ついに屋根の高さを越えました。そして秋にはたくさんの実を付け季節を演出するようになりました。ところが渋柿ですからそのままでは食べられません。そこで干し柿にしてみたのですがかちかちになってしまい、おいしくないのです。干し柿には干し柿用の品種があるのかなと思いました。仕方がないのでずっと見て楽しむだけにしていたのですが、あるとき熟した柿を鳥が食べにくることに気付きました。鳥が来るのなら食べられるのではないかと思い、鳥のつついたものを少し食べてみました。そのときの驚きは半端ではありませんでした。その甘さたるや、甘柿の熟したものと比べても格段で、しかも上品です。それ以来、木の高いところは鳥、低いところは私というように食べ分けてきましたが、この暮らしも引っ越しによって終わることになりました。

 今年、柿の木は一回り大きくなりました。ちょうど小学生から中学生になった感じです。そして蜂屋柿は30個ほど実を付けました。そしてその実は去年と同じく巨大でした。こんなにたくさん成っても、この実の巨大さでは木がもたないのではないかと思いました。それとも途中で実を落としてしまうのだろうか。いくつかの実は落ちたものの、最終的には30個くらいが残ったので半分は干し柿にし、残りは木で熟させて食べることにしました。
 富有柿の方は、こちらはこちらですごいことになりました。実の数は無数です。とても数えられません。どこにこれほどの体力があるのだろうかと思いました。こちらは甘柿なのでどんどん食べていきますが、食べても食べても減りません。味は熟す直前がいいのですが、一気に熟されても困るので早めから食べ始めています。その実の甘さは日毎に増していきます。しかし、熟す前のかたい実をかじるときの食感に柿らしさを味わうところもあるのでどの辺りで取るかが微妙です。
 禅寺丸はあまりよくありません。蜂屋と富有は敷地に植えたのですが、禅寺丸だけはすぐ横の畑の方に植えました。そのせいかどうかは分かりませんがこちらは背も低く実も少ししか成りませんでした。しかもその殆どは途中で落ちてしまいました。かろうじて残った1個も、他の枝に引っ掛かるような形になっていたためで落ちるに落ちられなかったのです。そしてそのまま熟しましたが味はよくありませんでした。しかし禅寺丸は甘柿の最初の種ということなので心を惹かれます。
 さて、蜂屋柿の巨大さをどう伝えるかということになるとやはり重量がいいでしょう。量ってみました。300~500gありました。最大のものは520gです。大きさはリンゴより大きいくらいで、いかにも横綱という風格があります。比較のために富有柿の方も量ってみました。こちらは115~180gでした。しかし全重量では富有柿の方が勝っています。しかもその種が立派です。『柿の種』の細長い形とはまるで違い、丸いボタンのような形をしています。それなのに『柿の種』を食べているとそれが実際の柿の種の形に思えてくるから不思議です。
 今回その謎が解けました。熟した蜂屋柿を食べていると種が出て来ました。それがスリムな『柿の種』のような形をしているのです。この取り合わせのアンバランスは何だろうと思いました。大きな体の横綱が小さなフォークでショートケーキを食べているような場面を連想してしまいます。おそらく『柿の種』をデザインした人は蜂屋柿の干し柿を食べていたのです。そのとき出てきた種の形が『柿の種』になったのではないか。あるいは蜂屋柿の産地で育った人かもしれません。というのは熟した実は産地でしか食べられないし、産地ならその一帯は蜂屋柿だらけだろうし、そうなると熟柿にせよ、干し柿にせよ、そこから出てくる種は細長い形のものになるからです。つまり、その地域の人にとってはそれが柿の種の形になるわけです。
 今、柿の木には実が一つずつ付いています。大きな蜂屋柿と普通サイズの富有柿です。柿の木はすっかり葉を落として、12月の寒空に色付いた実が一つ。木守りです。全部取ってしまいたい気持ちを抑えて残しました。ここに日本人の自然に対する向かい方をみることができるように思いました。来年もよく実ってくれますように!
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外で「ボン!」

2016-10-30 06:22:04 | ぼやき・つぶやき・ひとりごと
 10月1日、土曜の朝のことでした。私がキッチンにいると7時5分頃に外で「ボン」という大きな音がしました。車が何かにぶつかったような音です。外に出ると何もありません。おかしいなあと思いながら家に入ると何か変です。私は二階を見に行きました。何も変わりはありません。下に降りるとしーんとしています。おかしい。音がしない。さっきまでラジオで朝のニュースを聞いていたのです。見ると電気が消えています。停電でした。
 その日は小雨が降っていて何となく薄暗い感じでしたが、外に出て近所の家を見ても電気の付いている様子はありません。うちの前の街路灯は消えていましたが少し離れたところのものは着いています。明るくなってきたので自動的に消えたのか、それとも停電のために消えているのかはわかりません。停電は自分のところだけなのか、それともこの辺り全体なのかを確かめる必要がありますが、土曜の朝なので静まり返っていて、結局、停電しているのかどうかは周りを見てもわかりませんでした。
 中部電力に聞くしかないと思いました。電話を掛けようとして気付きました。「ケーブルプラス電話」に切り替えたので停電のときには使えないのです。携帯電話を持っていないので公衆電話を使うしかありません。小銭があるか財布をみると何枚かあったのですが、それで足るだろうかと不安になりました。そのときテレフォンカードがあることを思い出したのです。最後に使ったのはいつだろうか。10年前どころではないでしょう。果たして動くのか。今の公衆電話で使えるのだろうか。いい機会だから試してみようと思いました。
 電力会社に電話をするにも電話番号を調べる必要があります。電気使用量の検針票があったことを思い出しました。それを持って、傘をさし、電話ボックスに向かいました。それはバス停の横にあるのですが、バス停では高校生らしい女の子が一人、バスを待っていました。いまどき電話ボックスに入る私を見てどう思ったでしょうか。しかも、ボックスの中で電話機をいじくっている私を見て不審に思ったかもしれません。実はどこにカードを入れるのか分からなかったのです。それはすぐに見当がついたものの今度はどちら向きに入れるのか確かめなければなりません。確か、カードの隅にマークが付いていたなと思ったものの暗くてよく見えません。そこへバスがやって来て女高生は行ってしまったので落ち着いて操作をする環境が整いました。
 電話はすぐ担当者に通じました。実は通じる前、「ただ今、大変混み合っています…」というようなメッセージから始まるのではないかと冷や冷やしていたのです。そんなことをしていたらテレフォンカードの料金が足りるかどうか心配でした。とりあえずその点はクリアーしたのですが、最初に聞かれたのは客番号でした。「何、それ」と思いました。検針票を持っているというと、そのどこに記されているか説明してくれました。それが終わると次は本人確認です。ようやく本題に入ると「停電はお宅だけですか、それとも付近全体ですか」と聞かれました。状況を説明して「わからない」と答えました。調べてくれた結果、この付近で停電の情報は入っていないとのことでした。今日復旧工事をするが時間はわからないといいます。この電話は名古屋で受けていて、今からそちらの地域に連絡して順番に対応していくので、とのことでした。電話を切るとテレフォンカードが出て来ました。まだ使えたんだなと頼もしく感じました。
 家に帰ると、さて、電子レンジもダメ、シャワートイレもダメ、ラジオも聞けない。冷蔵庫も開けると温度が上がってしまうので開けられません。一気に原始生活に戻ったような気分でした。ただガスは使えるので湯は沸かせます。とりあえずコーヒーでも入れるかと思っていると玄関の戸が開き、「中部電力です!」という声が聞こえました。30分くらいしか経っていないのに速いなと思いました。玄関にいくと作業服を着た人が立っていて、説明をしようとすると「もうわかりました」といいます。外に出ると「あそこ」と言って指差しました。よく見ると電柱から家に引き込んでいる線が裂けているのです。「餅は餅屋」だなあと思いました。その人は携帯で連絡を取り、工事用の車両を呼びました。
 30分ほどすると梯子車が到着しました。4隅にシャフトを降ろして車を道路に固定すると道は完全に塞がってしまいました。バケットに作業員が乗り、上がっていきます。作業に1時間ほどかかりましたが、その間に他の車が来なかったのは幸いでした。
 作業終了後、私は気になっていたことを尋ねました。「作業中、電気は切れるのですか?」その返事は「切れません。切ると周りも停電になるので電気が流れた状態で作業します。」ということでした。そのとき雨は止んでいたのですが、聞くと雨の中でも作業をするとのことでした。感電しないように手袋を履いているが、時には腕辺りまでビリビリくることがあると言っていました。すごい仕事だなと思いました。実際、世の中には無数の仕事があって、それらは何らかの関係を持ちながらつながり合って社会を構成しているのでしょう。自分もその中の一つのはずですが、殆どぶら下がっているだけのような状態だなと思いました。
 それにしてもどうしてこんなことが起こったのか気になりました。そのことを尋ねると、この前の台風で何かが飛んできて当たったのではないかということでした。今回の台風では伊勢地区だけでこのような事故が37件あったそうです。今回は応急処置で、後日電線全体を張り替えるということでした。
 ところで、どうして「ボン」と鳴ったのか。これは破裂音でしょう。とすると電線の被覆材が破れたときに出た音ではないかと思いました。あの丈夫な被覆材が破れるには相当な圧力が必要でしょう。それでちょっとその仮説を立ててみました。
 「電線の被覆材は長い年月の間にかなり劣化していた。そこへ台風の風で激しく揺すぶられるか、飛んできた物が当たったかで傷がついた。そこから雨水が毛管現象のように染み込み、漏電が始まる。それによって発生した熱が水を蒸発させ、被覆材の下で圧力を生じる。その圧力が逆に水の侵入口を塞ぎ、密閉状態になる。既に侵入していた水はどんどん水蒸気に変わり、圧力は上がり続ける。そして、ついに被覆材がその圧力に耐えきれず爆発した。この時刻が7時5分である。」
 どんなものでもいつかは壊れるのだからこれは仕方のないことでしょう。考えてみれば朝になってから停電したのはラッキーでした。しかも交通量の少ない土曜の朝であったことも幸いしました。とりあえずほっとしましたが、この件で今の暮らしがどれだけ電気に依存しているかを実感しました。これは依存しすぎだと思いました。食糧自給率と同じように高くなりすぎると危険です。エネルギーを分散するというのも一つの手ですが、基本はやはりエネルギーの使用量を少なくすることでしょう。それは結局、環境負荷を減らすことにもなるわけだから、そのような暮らし方を工夫するということ自体を楽しむ、というあたりがいいかなと思いました。
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ギター朗読作品の発表会

2016-10-07 10:15:52 | コンサートの御案内
         <遊去> ギター朗読作品発表会
   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
    日時 2016年10月29日(土)14:00~15:00
         「その船は夜明けとともに訪れる」

        2016年11月26日(土)14:00~15:00
         「こんな夢を見た」

        場所 丸二ホテル 一階ロビー
           伊勢市御園町高向633-1
           Tel. 0596-27-3338

              参加費 無料
     定員  30人 先着順   (事前申し込みは不要)
   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 「ギター朗読コンサート」は2011年3月の東北大震災を期に活動を中止しました。その被害があまりにも甚大で、復興の目処も立たないような状況の中ではこのような個人的なコンサート活動は躊躇せざるを得ない気分になりました。それで、この機会にこれまでの活動の意味を整理してみようと思ったのです。
 1年が経ち、2年が経ち、…。そのうちに年齢のせいもあって指や手に故障が出やすくなってきました。コンサートをするには膨大な練習量が必要です。体が長時間のそのトレーニングに耐えられなくなって来ていることを感じるようになりました。これまでですら思うようにできなかったのに、これではまともな演奏はできないと思ったのでコンサート活動は終了することに決めました。
 その後もいくつか<ギター朗読作品>を書いていますが、それらは発表を前提としていないので「作ること」を楽しんでいる感じです。最終的には録音して完成と考えているのですが、これがどれだけ練習してもOKとは行かないのです。特にネックは音楽でした。どう弾いても頭の中で描いているようにはなりません。これまで何を練習してきたのだろうと思いました。取り組み方に問題のあったことを痛感します。
 今年の7月、ギター関係の知り合いに<ある会合>に誘われました。その人の家で「特にテーマを決めずに月に一度、詩や音楽の話をしたり、碁や将棋をしている」というもので、メンバーは二人です。もう一人は詩人ということでその人の出版した詩集をどっさり入れた紙袋を渡されました。
 日時の連絡を受けたので出掛けて行きました。その日は<雑談>をしていたのですが、2,3日後、ふと、未発表になっている「その船は夜明けとともに…」を聞いてもらったらどういう反応をするだろうかと思いました。この話は太平洋戦争終了直後に、進駐軍の一員として日本にやってきた外国人が見た日本のある風習について書いたものを元にしています。
 その経緯は知り合いの外国人が私のところに本のコピーを送ってきたことに始まります。彼はその本を読んだのですがその「風習」のところを理解できないようで、私にどういうことなのか説明してくれと言ってきたのです。その風習のことは私も知りませんでした。日本にそんな風習があったのかと思いました。そして今ではその風習も消え去ってしまったようなのです。日本が経済的に豊かになるに伴って姿を消していった風習は数知れずあることでしょう。それは今の若い世代の日本人にはその心象風景の存在しないことを意味します。<心>を残すことはできないまでも<記録>だけでも残したいと思いました。それでそれを元に作ったのが「その船は…」です。これは2009年10月に出来上がっていたのですが、その内容は自分には貴重に感じられたものの他の人にとってはどうなのか分かりませんでした。それでそのままになっていたのですが、この機会に他の人にとっても意味があるかどうか試してみようと思い、原稿を捜し出して練習を始めました。
 1ヶ月ほど練習すると形がほぼ見えてきました。練習を重ねるうちに『これは発表した方がいい』と思うようになりました。8月には<会合>はなかったのでまだ未発表のままですが、「10月15日号広報いせ」の原稿締切が8月末だったので10月に<発表会>をすることに決めました。
 「こんな夢を…」は2009年8月に発表しています。これはあるコンサートで弾く予定の数曲を登場させる舞台として書いたものです。酒の肴を盛り付ける<器>のようなつもりでした。コンサートが終わった後ずっと忘れていたのですが、今回「その船は…」の原稿を捜しているときに思い出しました。改めて見てみると思っていたよりも自分らしさが出ているのでもう一度発表してみようかなと思いました。
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伊勢ギター講習会2016を聴講して

2016-09-10 08:16:22 | ぼやき・つぶやき・ひとりごと
 8月23日から3日間、伊勢でギター講習会がありました。講師はマルシン・ディラ、パク・キュヒ、熊谷俊之、トマ・チャバの4人です。私はギターは弾くものの、自分の好きな曲を自分なりに楽しんでいるだけなので、特に最近のギター界については殆ど知りません。今回の講師4人はいずれも若手・中堅で国際的に活躍している人たちだと聞いたのですが、私は誰も知りませんでした。ただ、パク・キュヒ氏だけはFM放送の「キラクラ」に出演して生演奏をされたのでそのときに放送を聴いたことがあります。が、それだけでは知っているうちに入らないでしょう。
 私は「聴講」をしたのですが、このようなところに顔を出すのは初めてのことでした。ギターを勉強する人はこういうことをしているのかと思いました。レッスンを受ける生徒の弾く曲は、私が『弾けるわけがない』と思って取り組むことさえしなかったものが多く、それを目の前で、苦も無くとはいかないが、見事に弾きこなしているのを見ると唖然としないわけにはいきません。練習すればここまでできるのかと感心しました。とりわけ左手の動きに特徴のある人にレッスン終了後、どのくらい練習しているのか尋ねてみました。この人の左手はプログラムされた自動機械のような動きをしていたのですが、「5時間くらい」ということでした。自営業だと言っていましたが、仕事をしながら5時間の練習時間を作り出すということは殆どすべてをギターに費やしているといってもいいでしょう。楽器というのは魔物だなと思いました。とはいうものの5時間くらいの練習なら私も普通にしてきています。自分でしているときは何とも思わないのですが他人の口からそれを聞くとどうも二の句が継げません。でも、どんな楽器でもプロを目指す人なら8~10時間の練習は当たり前のことだし、一般的な仕事なら2時間残業は日常的で、誰でもそのくらいは働くのだから普通のことなのですが、…。

 初日はマルシン・ディラ氏のワークショップから始まりました。講習会の前に「ワークショップって何?」と関係者に尋ねると、「ギターや音楽についてのその人の想いを話したりする時間」とのことでした。とにかくカタカナの言葉はよくわからないものが多いので困ります。
 ディラ氏の話は「メトロノームを使うな」というところから始まりました。私は『また奇妙なことを言うな』と思って聞いていましたが、途中で通訳の人が「メトロノームを使い過ぎるなというようなことですね…」と補足されたのでその意味がだんだん分かってきました。
 ディラ氏のこの後のレッスンを聴講してわかったのですが、氏が話の対象としている人のレベルは極めて高く、テーマは「音楽性をどのようにして創り出すか」ということなのです。私は殆どそれ以前のレベルなので『おかしなことを言うなあ』と思ったのです。数十年前のギター好きの世界では、音楽の基礎訓練を受けていない人が多く、「風呂場で浪花節を唸る」式の客観性の欠如した演奏がよくありました。本人は悦に入っているのですが、作曲者が聴いたら「どこかで聞いたことがあるような気がするが思い出せない」とでも言いそうです。ソロだけで弾いているとどうしてもこの傾向が強くなります。それを本人に伝えるのに一番いいのがメトロノームです。最初はメトロノームが速くなったり遅くなったりするように思うので奇妙な感じがしますが、これを徹底的に訓練することで客観的なテンポ感が得られます。ただ、この段階では「音楽的」ではありません。英語を直訳して日本語にしたようなものです。次には原文の持つニュアンスが伝わるような日本語に意訳しなければなりませんが、ディラ氏の話はこの段階でのことでした。確かに、基本的なトレーニングはここまでで、ここから先は手探りになります。その一つが「誇張してみる」ことだというのが氏の主張です。
 『なるほど』と思いましたが、問題はその「程度」です。いくら誇張しようとしても常識的な力が働いて小さな誇張しかできないのです。ディラ氏のレッスンを実際に聴き、ここまでやるかという底抜けのスケールの大きさを見て眼から鱗が落ちました。

 パク・キュヒ氏を見て最初に驚いたのは彼女の手の大きさでした。こんなに小さな手でどうしてギターが弾けるのかと思いました。しかもその指の細いこと。ポッキーよりは太いものの鉛筆くらいのものでしょう。40年ほど前に、ある演奏家がTVで「細い指では太い音は出ない」と話すのを聞きました。確かにそうだろうなという気がするのでそれ以来ずっとそう思っていました。太く柔らかい音を出すにはウインナソーセージくらいの太さの指が必要で、フランクフルトくらいになると音はいいが指が弦の間に入らなくなるから弾きにくくなるだろうというように考えていました。ところがこの日、レッスン中に出す彼女の音を聴いて、これは自分の思い込みで、技術的な問題であったのだと知りました。ただ単純に練習した場合、実際のところ、太い指の方が太く豊かな音を出すのは容易でしょう。細い指でしっかりした音を出すには相当の工夫が要ったのではないかと思いました。
 パク氏のレッスンでは「アルハンブラ宮殿の思い出」が続出しました。アルハンブラ、アルハンブラ、また、アルハンブラ…。私も最初は、やはりアルハンブラを弾きたい人は多いんだなあと思っていました。が、それにしても多すぎるのではないかと思いました。それで、最終日に、最後にアルハンブラのレッスンを終えた人に「どうしてこんなにアルハンブラが多いんだろう」と呟いたところ、「パクさんだからじゃないですか」という返事が返ってきました。私はそれまで彼女がトレモロのきれいなことで知られていることを知らなかったのです。
 私はこれまで、生で「これこそトレモロ」という演奏を聴いたことが殆どありませんでした。一流と言われている人でさえ「何、これ」と思ったことが何度もあります。それで結局、長い間『きれいなトレモロ』というのは実際には無理なのだと思っていました。ただ最近は若い人の中にトレモロをきれいに弾く人が出てきているように感じていました。それで、もしかするとできるかもしれないと思って自分でいろいろ工夫しながらやってみるのですがやはり難があります。そんなとき、パク氏が今回のワークショップで「トレモロは爪が長いとむずかしい」という話をされたのです。私はそれまでトレモロは爪が長くないときれいな音が出ないと思い込んでいたのでした。が、この一言で目が覚めました。確かに、これまでにも爪を短く削り過ぎたことがあり、そのときに「これでも大丈夫だな」と思ったことは何度もあります。それにも拘らず、爪は長い方がいい音がすると信じていたためにその短い爪で工夫してみるという機会を逸していたのでした。
トレモロで私が一番気になるのは<カシャカシャする音>が入ることでした。それは弦が爪に当たる音でした。この音が出ないようにするには弦がまず指頭に当たりそれから爪に行くようにすればいいのですが、実はこれ、ギターの弾き方の基本です。ところがトレモロになると突然これが難しくなります。その理由は爪が長いためだとは気付きませんでした。今、自分の指に合った爪の短さを探っています。今回、彼女の弾くトレモロを聴いて『きれいなトレモロ』は存在するのだということを確信しました。

 熊谷俊之氏は生徒の演奏するピアソラの曲を聴き終えたとき、一呼吸おいて「そんなに弾けて、いったい何を聴きたいの?」と呟きました。私も本当にそうだと思いました。それから氏は、ピアソラの曲を弾くとき自分が考えること、注意することを説明していったのですが、「グルーブ感」の話に移ったときにギターを持ち、低音で四分音符を弾き始めました。私はまさにこれだなと思いました。ただ四分音符を弾いているだけなのにどうしてこんなに動物的な何かが蠢く感覚、鼓動や拍動の気分が出るのか不思議でした。今も何故だかわかりません。
 ピアソラの音楽には深いところに何か得体の知れない不気味な生き物がいて、音楽が始まるとそれが動き出すような感じが私はします。それがピアソラの「グルーブ感」なのでしょう。難曲を弾きこなす生徒の演奏にはそれが感じられませんでした。動物的な匂いがしないというのはこの人の個性ではないかと思いましたが、その人がピアソラに惹かれるというのはおもしろいです。

 トマ・チャバ氏は一番の若手です。まだ講習会で生徒を教えるのには慣れていないようで、相手の演奏の問題点を見つけるのにひたすら集中している感じでした。生徒の指使いを見ては自分でも試しながら、楽譜も見て、そして少し考えてから提案して、…。体力があるなあと思いました。私も若いときには今よりも体力はあったはずですが、物事に対してこのように熱心な取り組みをしてきただろうかと思いました。
 氏は短いフレーズを弾くときにもそのフレーズの持つニュアンスを香り立たせるようでした。私はこれを「集中力」と言うんだなと思いました。これまで演奏に<集中>するということがどうもよく掴めなかったのです。それでいろいろな人に演奏中に何を考えているか尋ねてきたのですが、どうも『なるほど』と思うように捉えることができませんでした。今、<集中する>ということは、そのフレーズなり、曲なりに対して自分の持つニュアンスをしっかり保持ということなのかなと思い始めています。
 考えてみれば当たり前のことですが、私にはこれが極めて難しいのです。私の場合、演奏を始めると同時に全く関係のない事柄が頭の中で展開し始めます。最初は自分でもこのことに気付いてないことが多く、その間は演奏に支障はありません。ところが、自分で、何でこんなことを考えているんだと気付いたとたん、何もかもがギクシャクしてくるのです。今は、朗読をしながらギターを弾くということに取り組んでいるので、「よそ事」の部分が「朗読」になっているため全体として手(or頭)が一杯になっている感じで気は楽です。が、これだけの<集中力>を発揮することは難しいでしょう。

 今回の講習会ではレッスンの1単位が50分、その間の休憩が5分でした。講師の人は連続で次々とレッスンをしていきます。午前中は3人ですが、午後は5~6人です。1階と2階の2か所で2人の講師がレッスンをしていたので上に行ったり下に行ったりしていましたが、それでも3人のレッスンを聴けば、私はもうへとへとでした。だけど聴いていくうちにこういう話は二度と聞けないのではないかという気がしてきて耐えていました。そのうちに冷房のため体が冷えておかしくなってきました。私はクーラーを使いません。それで体が夏の暑さに適応しているのです。Tシャツ・短パンだったのですが、昼食のため家に帰った時にGパンにはき替え、長袖のシャツを持ってまた会場に出かけました。
 2日目はガラコンサートの直前まで講習を聴いてしまったため夕食を取ることができませんでした。コンサートが終わるまで我慢するつもりだったのですが、受付のところで何か食べるものはないか聞いたところパンがあるよというので二個もらって食べました。やはり空腹でコンサートを聴くのはつらいです。それでパンを買っていけば昼食に帰らなくてもいいことに気付き、3日目は一日中聴講しましたが、私はもう疲労困憊というところでした。それなのに講師の人たちは疲れも見せずレッスンを続けています。やはり一流の人間は体力があるんだなあと思いました。というより、人並み優れた体力と精神力がなければ人並み以上の業を身に付けることはできないのでしょう。しかもその上に才能や運に恵まれなければ第一線で活躍することなどおぼつかないでしょう。一流としてこの世界で生き続けていくのは並大抵のことではないだろうなと思いました。ですが、お蔭で私は多くのことを学べるわけだから、やはり、分野によらず、能力のある人は応援するのがいいだろうと思いました。
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