遊去のブログ

ギター&朗読の活動紹介でしたが、現在休止中。今は徒然草化しています。

歯を削る

2017-01-19 09:06:28 | ぼやき・つぶやき・ひとりごと
 歯に被せてある金属冠は何年かすると外れます。その時には歯科に行かなければならないので、そろそろかなと思うと気が重くなります。最近では歯の治療での痛みは殆どなくなりました。どういうわけなのか分かりませんが、これはありがたいことです。それにも拘らず、歯科の治療椅子に座ると体がこわばるのはどうしてでしょうか。背もたれが後ろに倒れると思わず手に力が入ります。
 こちらに引っ越してからというもの歯医者をどうするか、ずっと気になっていました。引っ越して1年目のときには遠くなってしまった以前の歯医者に行きました。だけどいつまでもそんなことをしているわけにはいきません。4年目に当たる一昨年の10月、久しぶりに歯に異状が出ました。ピーナッツを食べると1ヵ所に痛みが出るのです。仕方がない、歯医者を捜すか。
 すぐ近くに歯医者があることは知っていました。裏山の探検に行くときに偶然その前を通ったのですが、モダンな建物で、小さな美術館のような雰囲気がありました。しかし、歯医者は「腕」です。私はそのカフェレストラン風の様子から、逆に不安な気持ちになりました。数日間迷った結果、どこの歯医者に行くにしても建物を見て歯医者の「腕」が分かるわけではない、治療を受けてみなければ分からないと思い、結局、歩いて行けるその医院に行ってみることにしました。
 診断の結果は歯が欠けて小さな穴が開いているということでした。そこにピーナッツの砕けた粒が入ると痛むのだろうということでした。そこをセメントで埋めるか、根本的な治療をするか聞かれたので、とりあえずセメントで埋める方を選びました。そこで今度は技工士(?)がその処置をしてくれたのですが、セメントが固まるまでの間挟んだ詰め物をしっかり噛んでいるように言われたので私はそれに従いました。途中、顎が疲れてきて「しっかり」とはどのくらいの力なのだろうと考えいるとピーッと音がして時間がきました。技工士が「開けてください」と言ったので口を開けようとしたのですがくっついたような感じがして開けられません。力を入れて開けると違和感がありました。何か固い物があるのです。彼女にそういうと口の中を見て「あっ」と言いました。下の歯の被せ物がくっついて取れてしまったのです。私はそろそろそれが取れてもおかしくない時期だと思っていたので大して驚きもせず「またくっつけておいてください」と言ったのですが、彼女は蒼白な表情で治療室から飛び出してしまいました。よほどびっくりしたのでしょう。すぐに医師といっしょに戻ってきました。「これをくっつけるんですか?」と医師。見ると、これが歯かと思えるようなひどいものでした。それは以前に割れていたしまった歯で、それを接着剤でくっつけてその上に金属を被せてあったのです。その歯が被せ物ごと外れてしまったわけですが、現物を見るのは私も初めてでした。よくこんなものでこれまでもっていたものだと思いました。だけど今まで使えていたわけだからしばらくは使えるのではないかと思いました。できるだけ歯を抜きたくないというのが私の考えでした。今も何とかその歯を使っています。

 去年の12月、今回は別の歯の歯冠に穴が開いてしまいました。それの治療で歯冠を外すと中の歯はボロボロでした。私は抜くしかないと覚悟したのですが、医師は土台を作ってその上に被せることができると言います。いろんな手があるものだと思い、それをお願いしました。まず型を取り、それからそこを応急的に埋めてもらいました。一応解決の目処が立ったので私は喜んで家に帰りました。
 家に帰るとテーブルの上の「ういろう」が目に留まりました。これは昨日初めて作ったものですが半分残っていたのです。すぐ横に小さなフォークがあったのでそれを取ると「ういろう」に突き刺しました。それを口に持って行って食べるとガリッという音がしました。おかしい、石でも入っていたかと思って見てみると、かなしいことにフォークを噛んでしまったことが分かりました。小さなフォークが横になって前歯の間に挟まり、前歯の先端がほんの少し剥離するように欠けてしまったのです。
 仕方がないと思いましたが、唇の内側が痛みます。それは剥離したために歯の先がナイフのようになってしまったからでした。それにも拘らず唇はそこに触れようとするのです。そのうち歯先も丸くなるだろうと思い辛抱していましたが、翌日、鏡で唇の裏を見ると傷だらけになっていました。これはまずいと思いました。そう簡単には歯先は丸まりそうもありません。歯医者に行けばすぐに歯先を丸く削ってくれるだろうと思いましたが、フォークをかじったという説明をするのは嫌でした。そうなると自分で何とかするしかありません。納屋に行き、小さなヤスリを捜しました。確かにあったはずなのですが見つかりません。仕方なく30cm定規ほどの大きなヤスリで削ることにしました。
 母屋に帰り、机の上に鏡を置き、口の中に長いヤスリを差し込みました。これは金属を削るためのヤスリなので慎重に扱わなければなりません。やり直しはできないのです。失敗すれば今度は歯医者に行ってヤスリで歯を削ったと言わなければならなくなります。これは何としても避けたいところです。まず舌の先で歯の尖り具合を確かめます。そしてゴリゴリせずに、一方向に1回だけ軽くこすってみることにしました。鏡を見ながらヤスリを前歯に当てます。鏡に映る自分の姿は異様でした。人生にはいろんなことがあるものだ…などと思いながら全神経を集中してゆっくりヤスリを引きました。それから舌先で歯に触れてみます。削れていました。この分ならあと2回くらいでいいかなと思いました。軽く、軽く、ヤスリのゴリゴリする感触を感じながら引きました。舌先で確かめ、唇で触れてみました。OKです。思わずため息をつきました。こんなことにも実に達成感のあるものだということを知りました。しかし、これは歯医者には内緒にしておくつもりです。
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柿、熟す

2016-12-16 09:12:12 | 畑の話
 柿の木に巨大な実がなりました。蜂屋柿です。この家に引っ越してから植えたものですが、去年、初めて実がなりました。たった2つですが、実に存在感のある実でした。
 蜂屋柿は渋柿なので干し柿にして食べますが、大きくて肉厚です。その干し柿の堂々たる姿は知っていましたが、元の柿の実がどんなものかは考えたことがありませんでした。
 子供の頃、庭に大きな柿の木がありました。秋になるとたくさん実が成り、下から見ると青空に打ち上げられたオレンジ色の花火のようでした。その木も私が小学生のときに切られてしまい、思い出だけが心の中に残りました。『いつか柿の木のある家に住みたい』と思いながら何十年かが過ぎ、終の住処を探し始めると柿の木のある家に目が行く自分に気付きました。が、結局、柿の木のない家に住むことになったのでホームセンターで、禅寺丸、富有柿、蜂屋柿の苗木を3本買ってきて植えました。
 桃栗三年柿八年…というから実が成るのはずっと先のことだろうと思っていましたが、接ぎ木をしてあるためか、植えて3年目の去年には白い花が咲き、実が成りました。といっても蜂屋柿は2つだけです。しかしその成長には目を見張るものがありました。緑色の実がぐんぐん大きくなるのですが、私の持つ柿のイメージを超えても成長が止まりません。すぐ隣の富有柿も初めて7個ほど実を付けましたが、こちらは普通のサイズです。こちらと比べると蜂屋柿は異状に見えました。そして梨くらいの大きさになり、色付き始めました。人間の背丈くらいの木に大きな実が2つ。やはり異様です。実が2個しかならなかったからこんなに大きくなったのだろうと思いました。
 渋柿なので干し柿にするか、熟すまで待つかになりますが、せっかくなので一つは干し柿、もう一つは熟させることにしました。干し柿の方は軒先に紐で吊るすと「てるてる坊主」のようになりました。結果は、どのタイミングで食べるかが分からずうまく行きませんでした。熟した方は「明日だな」と思った翌日、みごとに鳥にやられてしまいました。そのつつき方からみるとヒヨドリでしょう。くちばしでつつかれた周りを避けて味をみると実にみごとな味でした。

 渋柿が食べられることを私が知ったのは15年くらい前のことです。それまでは、渋柿と言えば子供の頃の恨みしかありませんでした。ただ秋の青空を背景にたわわに実る柿の木のある景色は好きでした。まさに郷愁を誘う風物です。そんな渋柿の木が、前に住んでいた家の窓の横に生えてきたのです。私が種を捨てたのでしょう。その木はすくすく育ち、ついに屋根の高さを越えました。そして秋にはたくさんの実を付け季節を演出するようになりました。ところが渋柿ですからそのままでは食べられません。そこで干し柿にしてみたのですがかちかちになってしまい、おいしくないのです。干し柿には干し柿用の品種があるのかなと思いました。仕方がないのでずっと見て楽しむだけにしていたのですが、あるとき熟した柿を鳥が食べにくることに気付きました。鳥が来るのなら食べられるのではないかと思い、鳥のつついたものを少し食べてみました。そのときの驚きは半端ではありませんでした。その甘さたるや、甘柿の熟したものと比べても格段で、しかも上品です。それ以来、木の高いところは鳥、低いところは私というように食べ分けてきましたが、この暮らしも引っ越しによって終わることになりました。

 今年、柿の木は一回り大きくなりました。ちょうど小学生から中学生になった感じです。そして蜂屋柿は30個ほど実を付けました。そしてその実は去年と同じく巨大でした。こんなにたくさん成っても、この実の巨大さでは木がもたないのではないかと思いました。それとも途中で実を落としてしまうのだろうか。いくつかの実は落ちたものの、最終的には30個くらいが残ったので半分は干し柿にし、残りは木で熟させて食べることにしました。
 富有柿の方は、こちらはこちらですごいことになりました。実の数は無数です。とても数えられません。どこにこれほどの体力があるのだろうかと思いました。こちらは甘柿なのでどんどん食べていきますが、食べても食べても減りません。味は熟す直前がいいのですが、一気に熟されても困るので早めから食べ始めています。その実の甘さは日毎に増していきます。しかし、熟す前のかたい実をかじるときの食感に柿らしさを味わうところもあるのでどの辺りで取るかが微妙です。
 禅寺丸はあまりよくありません。蜂屋と富有は敷地に植えたのですが、禅寺丸だけはすぐ横の畑の方に植えました。そのせいかどうかは分かりませんがこちらは背も低く実も少ししか成りませんでした。しかもその殆どは途中で落ちてしまいました。かろうじて残った1個も、他の枝に引っ掛かるような形になっていたためで落ちるに落ちられなかったのです。そしてそのまま熟しましたが味はよくありませんでした。しかし禅寺丸は甘柿の最初の種ということなので心を惹かれます。
 さて、蜂屋柿の巨大さをどう伝えるかということになるとやはり重量がいいでしょう。量ってみました。300~500gありました。最大のものは520gです。大きさはリンゴより大きいくらいで、いかにも横綱という風格があります。比較のために富有柿の方も量ってみました。こちらは115~180gでした。しかし全重量では富有柿の方が勝っています。しかもその種が立派です。『柿の種』の細長い形とはまるで違い、丸いボタンのような形をしています。それなのに『柿の種』を食べているとそれが実際の柿の種の形に思えてくるから不思議です。
 今回その謎が解けました。熟した蜂屋柿を食べていると種が出て来ました。それがスリムな『柿の種』のような形をしているのです。この取り合わせのアンバランスは何だろうと思いました。大きな体の横綱が小さなフォークでショートケーキを食べているような場面を連想してしまいます。おそらく『柿の種』をデザインした人は蜂屋柿の干し柿を食べていたのです。そのとき出てきた種の形が『柿の種』になったのではないか。あるいは蜂屋柿の産地で育った人かもしれません。というのは熟した実は産地でしか食べられないし、産地ならその一帯は蜂屋柿だらけだろうし、そうなると熟柿にせよ、干し柿にせよ、そこから出てくる種は細長い形のものになるからです。つまり、その地域の人にとってはそれが柿の種の形になるわけです。
 今、柿の木には実が一つずつ付いています。大きな蜂屋柿と普通サイズの富有柿です。柿の木はすっかり葉を落として、12月の寒空に色付いた実が一つ。木守りです。全部取ってしまいたい気持ちを抑えて残しました。ここに日本人の自然に対する向かい方をみることができるように思いました。来年もよく実ってくれますように!
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外で「ボン!」

2016-10-30 06:22:04 | ぼやき・つぶやき・ひとりごと
 10月1日、土曜の朝のことでした。私がキッチンにいると7時5分頃に外で「ボン」という大きな音がしました。車が何かにぶつかったような音です。外に出ると何もありません。おかしいなあと思いながら家に入ると何か変です。私は二階を見に行きました。何も変わりはありません。下に降りるとしーんとしています。おかしい。音がしない。さっきまでラジオで朝のニュースを聞いていたのです。見ると電気が消えています。停電でした。
 その日は小雨が降っていて何となく薄暗い感じでしたが、外に出て近所の家を見ても電気の付いている様子はありません。うちの前の街路灯は消えていましたが少し離れたところのものは着いています。明るくなってきたので自動的に消えたのか、それとも停電のために消えているのかはわかりません。停電は自分のところだけなのか、それともこの辺り全体なのかを確かめる必要がありますが、土曜の朝なので静まり返っていて、結局、停電しているのかどうかは周りを見てもわかりませんでした。
 中部電力に聞くしかないと思いました。電話を掛けようとして気付きました。「ケーブルプラス電話」に切り替えたので停電のときには使えないのです。携帯電話を持っていないので公衆電話を使うしかありません。小銭があるか財布をみると何枚かあったのですが、それで足るだろうかと不安になりました。そのときテレフォンカードがあることを思い出したのです。最後に使ったのはいつだろうか。10年前どころではないでしょう。果たして動くのか。今の公衆電話で使えるのだろうか。いい機会だから試してみようと思いました。
 電力会社に電話をするにも電話番号を調べる必要があります。電気使用量の検針票があったことを思い出しました。それを持って、傘をさし、電話ボックスに向かいました。それはバス停の横にあるのですが、バス停では高校生らしい女の子が一人、バスを待っていました。いまどき電話ボックスに入る私を見てどう思ったでしょうか。しかも、ボックスの中で電話機をいじくっている私を見て不審に思ったかもしれません。実はどこにカードを入れるのか分からなかったのです。それはすぐに見当がついたものの今度はどちら向きに入れるのか確かめなければなりません。確か、カードの隅にマークが付いていたなと思ったものの暗くてよく見えません。そこへバスがやって来て女高生は行ってしまったので落ち着いて操作をする環境が整いました。
 電話はすぐ担当者に通じました。実は通じる前、「ただ今、大変混み合っています…」というようなメッセージから始まるのではないかと冷や冷やしていたのです。そんなことをしていたらテレフォンカードの料金が足りるかどうか心配でした。とりあえずその点はクリアーしたのですが、最初に聞かれたのは客番号でした。「何、それ」と思いました。検針票を持っているというと、そのどこに記されているか説明してくれました。それが終わると次は本人確認です。ようやく本題に入ると「停電はお宅だけですか、それとも付近全体ですか」と聞かれました。状況を説明して「わからない」と答えました。調べてくれた結果、この付近で停電の情報は入っていないとのことでした。今日復旧工事をするが時間はわからないといいます。この電話は名古屋で受けていて、今からそちらの地域に連絡して順番に対応していくので、とのことでした。電話を切るとテレフォンカードが出て来ました。まだ使えたんだなと頼もしく感じました。
 家に帰ると、さて、電子レンジもダメ、シャワートイレもダメ、ラジオも聞けない。冷蔵庫も開けると温度が上がってしまうので開けられません。一気に原始生活に戻ったような気分でした。ただガスは使えるので湯は沸かせます。とりあえずコーヒーでも入れるかと思っていると玄関の戸が開き、「中部電力です!」という声が聞こえました。30分くらいしか経っていないのに速いなと思いました。玄関にいくと作業服を着た人が立っていて、説明をしようとすると「もうわかりました」といいます。外に出ると「あそこ」と言って指差しました。よく見ると電柱から家に引き込んでいる線が裂けているのです。「餅は餅屋」だなあと思いました。その人は携帯で連絡を取り、工事用の車両を呼びました。
 30分ほどすると梯子車が到着しました。4隅にシャフトを降ろして車を道路に固定すると道は完全に塞がってしまいました。バケットに作業員が乗り、上がっていきます。作業に1時間ほどかかりましたが、その間に他の車が来なかったのは幸いでした。
 作業終了後、私は気になっていたことを尋ねました。「作業中、電気は切れるのですか?」その返事は「切れません。切ると周りも停電になるので電気が流れた状態で作業します。」ということでした。そのとき雨は止んでいたのですが、聞くと雨の中でも作業をするとのことでした。感電しないように手袋を履いているが、時には腕辺りまでビリビリくることがあると言っていました。すごい仕事だなと思いました。実際、世の中には無数の仕事があって、それらは何らかの関係を持ちながらつながり合って社会を構成しているのでしょう。自分もその中の一つのはずですが、殆どぶら下がっているだけのような状態だなと思いました。
 それにしてもどうしてこんなことが起こったのか気になりました。そのことを尋ねると、この前の台風で何かが飛んできて当たったのではないかということでした。今回の台風では伊勢地区だけでこのような事故が37件あったそうです。今回は応急処置で、後日電線全体を張り替えるということでした。
 ところで、どうして「ボン」と鳴ったのか。これは破裂音でしょう。とすると電線の被覆材が破れたときに出た音ではないかと思いました。あの丈夫な被覆材が破れるには相当な圧力が必要でしょう。それでちょっとその仮説を立ててみました。
 「電線の被覆材は長い年月の間にかなり劣化していた。そこへ台風の風で激しく揺すぶられるか、飛んできた物が当たったかで傷がついた。そこから雨水が毛管現象のように染み込み、漏電が始まる。それによって発生した熱が水を蒸発させ、被覆材の下で圧力を生じる。その圧力が逆に水の侵入口を塞ぎ、密閉状態になる。既に侵入していた水はどんどん水蒸気に変わり、圧力は上がり続ける。そして、ついに被覆材がその圧力に耐えきれず爆発した。この時刻が7時5分である。」
 どんなものでもいつかは壊れるのだからこれは仕方のないことでしょう。考えてみれば朝になってから停電したのはラッキーでした。しかも交通量の少ない土曜の朝であったことも幸いしました。とりあえずほっとしましたが、この件で今の暮らしがどれだけ電気に依存しているかを実感しました。これは依存しすぎだと思いました。食糧自給率と同じように高くなりすぎると危険です。エネルギーを分散するというのも一つの手ですが、基本はやはりエネルギーの使用量を少なくすることでしょう。それは結局、環境負荷を減らすことにもなるわけだから、そのような暮らし方を工夫するということ自体を楽しむ、というあたりがいいかなと思いました。
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ギター朗読作品の発表会

2016-10-07 10:15:52 | コンサートの御案内
         <遊去> ギター朗読作品発表会
   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
    日時 2016年10月29日(土)14:00~15:00
         「その船は夜明けとともに訪れる」

        2016年11月26日(土)14:00~15:00
         「こんな夢を見た」

        場所 丸二ホテル 一階ロビー
           伊勢市御園町高向633-1
           Tel. 0596-27-3338

              参加費 無料
     定員  30人 先着順   (事前申し込みは不要)
   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 「ギター朗読コンサート」は2011年3月の東北大震災を期に活動を中止しました。その被害があまりにも甚大で、復興の目処も立たないような状況の中ではこのような個人的なコンサート活動は躊躇せざるを得ない気分になりました。それで、この機会にこれまでの活動の意味を整理してみようと思ったのです。
 1年が経ち、2年が経ち、…。そのうちに年齢のせいもあって指や手に故障が出やすくなってきました。コンサートをするには膨大な練習量が必要です。体が長時間のそのトレーニングに耐えられなくなって来ていることを感じるようになりました。これまでですら思うようにできなかったのに、これではまともな演奏はできないと思ったのでコンサート活動は終了することに決めました。
 その後もいくつか<ギター朗読作品>を書いていますが、それらは発表を前提としていないので「作ること」を楽しんでいる感じです。最終的には録音して完成と考えているのですが、これがどれだけ練習してもOKとは行かないのです。特にネックは音楽でした。どう弾いても頭の中で描いているようにはなりません。これまで何を練習してきたのだろうと思いました。取り組み方に問題のあったことを痛感します。
 今年の7月、ギター関係の知り合いに<ある会合>に誘われました。その人の家で「特にテーマを決めずに月に一度、詩や音楽の話をしたり、碁や将棋をしている」というもので、メンバーは二人です。もう一人は詩人ということでその人の出版した詩集をどっさり入れた紙袋を渡されました。
 日時の連絡を受けたので出掛けて行きました。その日は<雑談>をしていたのですが、2,3日後、ふと、未発表になっている「その船は夜明けとともに…」を聞いてもらったらどういう反応をするだろうかと思いました。この話は太平洋戦争終了直後に、進駐軍の一員として日本にやってきた外国人が見た日本のある風習について書いたものを元にしています。
 その経緯は知り合いの外国人が私のところに本のコピーを送ってきたことに始まります。彼はその本を読んだのですがその「風習」のところを理解できないようで、私にどういうことなのか説明してくれと言ってきたのです。その風習のことは私も知りませんでした。日本にそんな風習があったのかと思いました。そして今ではその風習も消え去ってしまったようなのです。日本が経済的に豊かになるに伴って姿を消していった風習は数知れずあることでしょう。それは今の若い世代の日本人にはその心象風景の存在しないことを意味します。<心>を残すことはできないまでも<記録>だけでも残したいと思いました。それでそれを元に作ったのが「その船は…」です。これは2009年10月に出来上がっていたのですが、その内容は自分には貴重に感じられたものの他の人にとってはどうなのか分かりませんでした。それでそのままになっていたのですが、この機会に他の人にとっても意味があるかどうか試してみようと思い、原稿を捜し出して練習を始めました。
 1ヶ月ほど練習すると形がほぼ見えてきました。練習を重ねるうちに『これは発表した方がいい』と思うようになりました。8月には<会合>はなかったのでまだ未発表のままですが、「10月15日号広報いせ」の原稿締切が8月末だったので10月に<発表会>をすることに決めました。
 「こんな夢を…」は2009年8月に発表しています。これはあるコンサートで弾く予定の数曲を登場させる舞台として書いたものです。酒の肴を盛り付ける<器>のようなつもりでした。コンサートが終わった後ずっと忘れていたのですが、今回「その船は…」の原稿を捜しているときに思い出しました。改めて見てみると思っていたよりも自分らしさが出ているのでもう一度発表してみようかなと思いました。
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伊勢ギター講習会2016を聴講して

2016-09-10 08:16:22 | ぼやき・つぶやき・ひとりごと
 8月23日から3日間、伊勢でギター講習会がありました。講師はマルシン・ディラ、パク・キュヒ、熊谷俊之、トマ・チャバの4人です。私はギターは弾くものの、自分の好きな曲を自分なりに楽しんでいるだけなので、特に最近のギター界については殆ど知りません。今回の講師4人はいずれも若手・中堅で国際的に活躍している人たちだと聞いたのですが、私は誰も知りませんでした。ただ、パク・キュヒ氏だけはFM放送の「キラクラ」に出演して生演奏をされたのでそのときに放送を聴いたことがあります。が、それだけでは知っているうちに入らないでしょう。
 私は「聴講」をしたのですが、このようなところに顔を出すのは初めてのことでした。ギターを勉強する人はこういうことをしているのかと思いました。レッスンを受ける生徒の弾く曲は、私が『弾けるわけがない』と思って取り組むことさえしなかったものが多く、それを目の前で、苦も無くとはいかないが、見事に弾きこなしているのを見ると唖然としないわけにはいきません。練習すればここまでできるのかと感心しました。とりわけ左手の動きに特徴のある人にレッスン終了後、どのくらい練習しているのか尋ねてみました。この人の左手はプログラムされた自動機械のような動きをしていたのですが、「5時間くらい」ということでした。自営業だと言っていましたが、仕事をしながら5時間の練習時間を作り出すということは殆どすべてをギターに費やしているといってもいいでしょう。楽器というのは魔物だなと思いました。とはいうものの5時間くらいの練習なら私も普通にしてきています。自分でしているときは何とも思わないのですが他人の口からそれを聞くとどうも二の句が継げません。でも、どんな楽器でもプロを目指す人なら8~10時間の練習は当たり前のことだし、一般的な仕事なら2時間残業は日常的で、誰でもそのくらいは働くのだから普通のことなのですが、…。

 初日はマルシン・ディラ氏のワークショップから始まりました。講習会の前に「ワークショップって何?」と関係者に尋ねると、「ギターや音楽についてのその人の想いを話したりする時間」とのことでした。とにかくカタカナの言葉はよくわからないものが多いので困ります。
 ディラ氏の話は「メトロノームを使うな」というところから始まりました。私は『また奇妙なことを言うな』と思って聞いていましたが、途中で通訳の人が「メトロノームを使い過ぎるなというようなことですね…」と補足されたのでその意味がだんだん分かってきました。
 ディラ氏のこの後のレッスンを聴講してわかったのですが、氏が話の対象としている人のレベルは極めて高く、テーマは「音楽性をどのようにして創り出すか」ということなのです。私は殆どそれ以前のレベルなので『おかしなことを言うなあ』と思ったのです。数十年前のギター好きの世界では、音楽の基礎訓練を受けていない人が多く、「風呂場で浪花節を唸る」式の客観性の欠如した演奏がよくありました。本人は悦に入っているのですが、作曲者が聴いたら「どこかで聞いたことがあるような気がするが思い出せない」とでも言いそうです。ソロだけで弾いているとどうしてもこの傾向が強くなります。それを本人に伝えるのに一番いいのがメトロノームです。最初はメトロノームが速くなったり遅くなったりするように思うので奇妙な感じがしますが、これを徹底的に訓練することで客観的なテンポ感が得られます。ただ、この段階では「音楽的」ではありません。英語を直訳して日本語にしたようなものです。次には原文の持つニュアンスが伝わるような日本語に意訳しなければなりませんが、ディラ氏の話はこの段階でのことでした。確かに、基本的なトレーニングはここまでで、ここから先は手探りになります。その一つが「誇張してみる」ことだというのが氏の主張です。
 『なるほど』と思いましたが、問題はその「程度」です。いくら誇張しようとしても常識的な力が働いて小さな誇張しかできないのです。ディラ氏のレッスンを実際に聴き、ここまでやるかという底抜けのスケールの大きさを見て眼から鱗が落ちました。

 パク・キュヒ氏を見て最初に驚いたのは彼女の手の大きさでした。こんなに小さな手でどうしてギターが弾けるのかと思いました。しかもその指の細いこと。ポッキーよりは太いものの鉛筆くらいのものでしょう。40年ほど前に、ある演奏家がTVで「細い指では太い音は出ない」と話すのを聞きました。確かにそうだろうなという気がするのでそれ以来ずっとそう思っていました。太く柔らかい音を出すにはウインナソーセージくらいの太さの指が必要で、フランクフルトくらいになると音はいいが指が弦の間に入らなくなるから弾きにくくなるだろうというように考えていました。ところがこの日、レッスン中に出す彼女の音を聴いて、これは自分の思い込みで、技術的な問題であったのだと知りました。ただ単純に練習した場合、実際のところ、太い指の方が太く豊かな音を出すのは容易でしょう。細い指でしっかりした音を出すには相当の工夫が要ったのではないかと思いました。
 パク氏のレッスンでは「アルハンブラ宮殿の思い出」が続出しました。アルハンブラ、アルハンブラ、また、アルハンブラ…。私も最初は、やはりアルハンブラを弾きたい人は多いんだなあと思っていました。が、それにしても多すぎるのではないかと思いました。それで、最終日に、最後にアルハンブラのレッスンを終えた人に「どうしてこんなにアルハンブラが多いんだろう」と呟いたところ、「パクさんだからじゃないですか」という返事が返ってきました。私はそれまで彼女がトレモロのきれいなことで知られていることを知らなかったのです。
 私はこれまで、生で「これこそトレモロ」という演奏を聴いたことが殆どありませんでした。一流と言われている人でさえ「何、これ」と思ったことが何度もあります。それで結局、長い間『きれいなトレモロ』というのは実際には無理なのだと思っていました。ただ最近は若い人の中にトレモロをきれいに弾く人が出てきているように感じていました。それで、もしかするとできるかもしれないと思って自分でいろいろ工夫しながらやってみるのですがやはり難があります。そんなとき、パク氏が今回のワークショップで「トレモロは爪が長いとむずかしい」という話をされたのです。私はそれまでトレモロは爪が長くないときれいな音が出ないと思い込んでいたのでした。が、この一言で目が覚めました。確かに、これまでにも爪を短く削り過ぎたことがあり、そのときに「これでも大丈夫だな」と思ったことは何度もあります。それにも拘らず、爪は長い方がいい音がすると信じていたためにその短い爪で工夫してみるという機会を逸していたのでした。
トレモロで私が一番気になるのは<カシャカシャする音>が入ることでした。それは弦が爪に当たる音でした。この音が出ないようにするには弦がまず指頭に当たりそれから爪に行くようにすればいいのですが、実はこれ、ギターの弾き方の基本です。ところがトレモロになると突然これが難しくなります。その理由は爪が長いためだとは気付きませんでした。今、自分の指に合った爪の短さを探っています。今回、彼女の弾くトレモロを聴いて『きれいなトレモロ』は存在するのだということを確信しました。

 熊谷俊之氏は生徒の演奏するピアソラの曲を聴き終えたとき、一呼吸おいて「そんなに弾けて、いったい何を聴きたいの?」と呟きました。私も本当にそうだと思いました。それから氏は、ピアソラの曲を弾くとき自分が考えること、注意することを説明していったのですが、「グルーブ感」の話に移ったときにギターを持ち、低音で四分音符を弾き始めました。私はまさにこれだなと思いました。ただ四分音符を弾いているだけなのにどうしてこんなに動物的な何かが蠢く感覚、鼓動や拍動の気分が出るのか不思議でした。今も何故だかわかりません。
 ピアソラの音楽には深いところに何か得体の知れない不気味な生き物がいて、音楽が始まるとそれが動き出すような感じが私はします。それがピアソラの「グルーブ感」なのでしょう。難曲を弾きこなす生徒の演奏にはそれが感じられませんでした。動物的な匂いがしないというのはこの人の個性ではないかと思いましたが、その人がピアソラに惹かれるというのはおもしろいです。

 トマ・チャバ氏は一番の若手です。まだ講習会で生徒を教えるのには慣れていないようで、相手の演奏の問題点を見つけるのにひたすら集中している感じでした。生徒の指使いを見ては自分でも試しながら、楽譜も見て、そして少し考えてから提案して、…。体力があるなあと思いました。私も若いときには今よりも体力はあったはずですが、物事に対してこのように熱心な取り組みをしてきただろうかと思いました。
 氏は短いフレーズを弾くときにもそのフレーズの持つニュアンスを香り立たせるようでした。私はこれを「集中力」と言うんだなと思いました。これまで演奏に<集中>するということがどうもよく掴めなかったのです。それでいろいろな人に演奏中に何を考えているか尋ねてきたのですが、どうも『なるほど』と思うように捉えることができませんでした。今、<集中する>ということは、そのフレーズなり、曲なりに対して自分の持つニュアンスをしっかり保持ということなのかなと思い始めています。
 考えてみれば当たり前のことですが、私にはこれが極めて難しいのです。私の場合、演奏を始めると同時に全く関係のない事柄が頭の中で展開し始めます。最初は自分でもこのことに気付いてないことが多く、その間は演奏に支障はありません。ところが、自分で、何でこんなことを考えているんだと気付いたとたん、何もかもがギクシャクしてくるのです。今は、朗読をしながらギターを弾くということに取り組んでいるので、「よそ事」の部分が「朗読」になっているため全体として手(or頭)が一杯になっている感じで気は楽です。が、これだけの<集中力>を発揮することは難しいでしょう。

 今回の講習会ではレッスンの1単位が50分、その間の休憩が5分でした。講師の人は連続で次々とレッスンをしていきます。午前中は3人ですが、午後は5~6人です。1階と2階の2か所で2人の講師がレッスンをしていたので上に行ったり下に行ったりしていましたが、それでも3人のレッスンを聴けば、私はもうへとへとでした。だけど聴いていくうちにこういう話は二度と聞けないのではないかという気がしてきて耐えていました。そのうちに冷房のため体が冷えておかしくなってきました。私はクーラーを使いません。それで体が夏の暑さに適応しているのです。Tシャツ・短パンだったのですが、昼食のため家に帰った時にGパンにはき替え、長袖のシャツを持ってまた会場に出かけました。
 2日目はガラコンサートの直前まで講習を聴いてしまったため夕食を取ることができませんでした。コンサートが終わるまで我慢するつもりだったのですが、受付のところで何か食べるものはないか聞いたところパンがあるよというので二個もらって食べました。やはり空腹でコンサートを聴くのはつらいです。それでパンを買っていけば昼食に帰らなくてもいいことに気付き、3日目は一日中聴講しましたが、私はもう疲労困憊というところでした。それなのに講師の人たちは疲れも見せずレッスンを続けています。やはり一流の人間は体力があるんだなあと思いました。というより、人並み優れた体力と精神力がなければ人並み以上の業を身に付けることはできないのでしょう。しかもその上に才能や運に恵まれなければ第一線で活躍することなどおぼつかないでしょう。一流としてこの世界で生き続けていくのは並大抵のことではないだろうなと思いました。ですが、お蔭で私は多くのことを学べるわけだから、やはり、分野によらず、能力のある人は応援するのがいいだろうと思いました。
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不思議な山 鷲嶺(シュウレイ)

2016-08-27 08:20:08 | ぼやき・つぶやき・ひとりごと
 梅雨入り直前、近くの山に登りました。登り口まで今の家から車で15分くらいです。その山には水穴(鍾乳洞)があって、50年前、つまり私が中学生だったときに探検したことがあります。そのときは自転車ですが、道は舗装されていないし、今の家のところまで来るだけでも40分はかかるので全体では1時間半くらいかかったはずです。懐中電灯と釣り用のリールの糸を持って、仲間5,6人で行ったのですが、誰がそこへ行く道を知っていたのか、誰が行こうと言い出したのか分かりません。今考えると危ないことをしているなと思いますが、そういうことをしながら危険に対する感覚をつかんでいったのでしょう。
 今回は、50年前の記憶を辿りながら車で走っていました。今は国土地理院の地図を持っていますが、当時はそんなものはありません。やはり誰かが知っていたのでしょう。途中の集落から登山口に向かう分岐点に記憶がありました。確かここを曲がったなと思ったのですが、確認のためにすぐそばの家で声を掛けました。2,3度呼ぶと中から老人が出てきたので水穴に行く道はここを曲がるのだったか尋ねました。老人は「そうだ」と答えました。私が、水穴から上に登る道はあるか尋ねたところ「獣道しかない」とのことでした。
 『おかしいな』と思いました。というのは山頂への道はあると聞いていたからです。それで誰も登らないのかと尋ねたところ、「たまにあるが、そのときには村の若い者が案内する」ということでした。「あるといっても年に一度あるかないかで、このところはずっとない」そうで、道はわからないだろう言われました。何か奇怪な問答だなと思いましたが、途中まででも様子を見てきますと言ってその家を出ました。
 車で登山口まで行くと木の枝の杖が何本か置いてありました。1時53分、出発です。山道を歩いて20分くらいで水穴に着きました。『ああ、ここだったか』と思いましたが、意外に入口が小さいのです。50年前のことを思い出しました。水穴の入口は立って歩ける高さがあるのですが、数m先は急に小さな洞穴になっていて這わないと入れません。どういうわけか、そういうときはいつも私が先頭にされました。腹這いになって穴に頭を入れたところで懐中電灯を前に向けると目の前30cmのところに巨大な蛇がいるのです。「わっ!」と叫んで私は反射的に体を引きました。その瞬間、目の前に星が出ました。穴の天井で後頭部をまともに打ったのです。腹這いのまま頭の痛みに耐えました。少し治まってきたのでもう一度懐中電灯で前を照らしてよく見るとそこにいたのは大きなガマガエルでした。相手がガマガエルだとわかるとむらむらと腹が立ってきました。しかし、これから探検です。そんなときに他の生きものを傷めつけたりしたくなかったので懐中電灯の先でガマガエルを押しました。するとガマガエルはようやく重い腰を上げ、仕方がないというふうに横の方に移動しました。
 そこを抜けると天井は高くなっていて立って歩けます。少し進むと下が泥のようになってきました。懐中電灯をひょいと天井に向けるとその瞬間に狂乱状態になりました。無数のコウモリが叫び声(?)を上げて飛び立ったのです。天井にはびっしりとコウモリがぶら下がっています。下の泥はそのコウモリの糞でした。
 気持ちのいいものではありませんでしたが、もう入ってしまったのだから進むしかありません。しばらくすると一人が帰ると言い出しました。用事があって夕方までに帰らなければ叱られるということなので一人で先に帰らせました。他の者はそのまま進みました。水穴の中には池や滝もあると聞いていたので、とにかく行けなくなるところまで行こうということでした。しばらくすると前の方から音が聞こえてきました。誰か先に入っていたのかと思ったのですが、前の闇の中から現れたのは、何と、さっき一人で先に帰ったはずの仲間でした。
 私たちは入口のところにリールの糸を結んで、その糸を垂らしながら進んでいました。彼が先に帰るときにはその糸を辿って帰って行ったのです。それなのにどうして前からやって来るのか。話を聞いてみるとリールの糸は途中で切れていたというのです。私たちはすぐに引き返しました。やはり糸は切れていました。糸がなければ迷路を抜け出すことはできません。私は、もしかすると、下の泥の中には前に入った人の糸が残っているかも知れないと思いました。泥はコウモリの糞ですがそんなことを言っている場合ではありません。泥の中に深く手を入れて横に探ると何本も紐が出て来ました。それを辿って水穴を出ることができたのです。
 今考えると、リールの糸は岩の角で擦れたために切れたのでしょう。糸が切れることがあるなどとは全く考えませんでした。先に帰った友人は、リールの糸を軽く握りながら歩いていたのでしょう。そうすると手から突然、糸の感触が消えたのです。手から離れたリールの糸は下に落ちるでしょうが、懐中電灯の光では泥の上に落ちた透明な糸を見つけることは出来ないでしょう。この段階で彼は方向感覚を失っていたはずです。つまり、彼はこっちだろうと勝手に思い込んで進んでいただけなのです。そして再び私たちに出会った。これは偶然です。もしここで出会わなかったらどうなったでしょうか。水穴から出た私たちがおかしいと気付くのは登山口まで戻ったときでしょう。先に帰ったはずの友人の自転車がそこにあるはずだからです。それを見てどう考えるでしょうか。夕暮れの迫るなか、大変なことになったと思います。
 私は50年前の出来事を思い返しながら水穴の入口を眺めていました。こんなに小さかったのかと思いました。当時の私の体が今より小さかったためだと思いますが、よく入る気になったものです。その日は懐中電灯を持っていなかったので奥の小さな入口は確認できませんでした。それに今日の目的は水穴ではありません。その先です。確かに、山道は水穴まででした。そこから先は痕跡だけです。予定では水穴から直登して尾根に出て、そこから尾根伝いに主稜に出るつもりでしたが、先の方にテープらしきものが見えたので、とりあえずそれに従って登ってみることにしました。
 所々にある目印は2,3種類。それらはこのあたりの山でよく見るもので、ここにも来ているなと思ったのですが、かなり古いものでした。他に荷造り用の青いテープもありました。こちらは新しいと思いましたが、尾根に出るまでしかありませんでした。道は斜めに無理やり登っているという感じで獣も嫌がりそうな道(?)でした。尾根まで出るとそこから先は楽々です。しばらくすると主稜の尾根に出ました。こちらにははっきりとした道があり、鷲嶺に行く道とはこれのことだったのかと思いました。分岐点に自分だけにわかる印をつけて主稜を急ぎました。
 いくつかピークを越えると岩が多くなり頂上の近いことを思わせます。宮本武蔵もここを登ったのだろうかと思いました。それにしてもここでどんな修行をしたのでしょうか。事実かどうかわかりませんが「宮本武蔵はここで修業をした」という話が残っています。しかし、どんな修行をしたかはわかりません。山道を歩いたからといって剣術がうまくなるわけではないでしょう。足腰を鍛えるためならそんな場所はどこにでもあります。となるとやはり精神修養かなと思いました。
 「袴腰山」は鷲嶺の別名です。鷲嶺の頂上は台形になっているのでその形からきているのでしょう。道はゆるやかに登って平らな頂上に着きます。「平ら」というのは非常に危険です。こういうところでは道がわからなくなりやすいのです。私は頂上の直前で道を少し外れて登っていました。前方に石積みが見えたのでそちらに行くと「袴腰山」とあり、すぐそばに「入山禁止・火の用心 神宮司庁」という立札がありました。こんな山の真ん中に「入山禁止」とは奇妙だなと思いました。入山禁止なら山の入口に書くべきだし、ここが境界ならどっちの方に入ってはいけないのかを示さなくては意味がありません。
 すこし離れて道標のようなものが見えたのでそこに行くと道があり、小さく「展望岩まで○分」と記されています(○分は1分か3分だったと思いますが忘れました)。あとで分かったのですがこれが正規の道でした。私は横からこの道に出たので、この道は別コースの道だと思ったのです。それで展望岩だけ確かめようとその道を下りました。すぐに目印があり横の方に岩が見えました。岩からの眺めは南の方角でした。私は北を向いていると思っていたので地図を出して確かめました。この辺りで方向感覚がおかしくなっているなと感じました。でもせっかくですから岩の上で一休み。お茶を飲み、パンを食べました。ザックの中の荷物を確認して出発。立札のところまで戻り、そこから平らな頂上を北に向かいました。北側の景色の見えるところがあるはずだと思っていたのでそれを捜しにいったのです。
 50m(?)くらい進むと数mの高さの岩場があってそこで頂上は終わります。上に登っても展望はありません。北側に伊勢湾が見えることを期待していたのですが残念です。しかし、どこかに少しでも見えるところがないか探してみようと思いました。岩場を降りて頂上を下りかけましたが、すぐにこれはだめだと思い引き返しました。岩場の下まで戻ると東に緩やかの尾根があったのでそちらの様子を見ることにしました。岩場の下を回ってその尾根を進むと立札がありました。「展望岩まで○分」、実はこれ、頂上の南側にあった立札でした。私は東に進んでいるつもりだったので、これを見たときこの山にはあちこちに似たような展望岩があるようだと思いました。一応確かめておこうとそちらへ行きました。すぐに岩があり、道から岩の上に何かあるのが見えました。車のキーのようでした。誰かが落としていったなと思ったのですがそばに行ってみると見覚えがあります。自分のキーでした。ぞぉーとしました。さっき休憩したときに落としたようなのです。もしここにキーがなければここは「東の尾根」の岩だと思ったことでしょう。東の尾根と思って歩いていたところは実は平らな頂上でした。東の尾根を見てみようと思わなければ「展望岩」にもう一度行くことはなかったでしょう。
 信じられない気持ちでした。キーはザックの外のポケットに入れてありました。そこには時計と地図と磁石が入っています。地図をしまうとき、そこに車のキーが入っていることを確認しているのです。それなのにキーは岩の上に落ちていた。そして、勘違いして、また勘違いして、その結果、もう一度その岩のところに戻ってきてキーを見つけたのです。こんなことはあり得ないと思いました。何か霊的な力でも働いているのではないかと思いたくなりました。
 もう一度立札のところまで戻って最初に自分の登ってきた跡を辿ろうとしたのですがどうもよく分かりません。あちこち探っているうちにさっきの展望岩の横の道が本来の登山道かもしれないと思い始めました。慎重にその道を下ると見覚えのある岩場に出ました。もう4時を回っていたので急いで山を下りました。主稜の尾根から水穴のある尾根に入ると目印は非常に少なくなります。どこで尾根を降りるかを見極めなければなりません。この辺りの山ではこれが難しいのです。あちこちにそっくりな地形があるのでまちがいやすく、一度下るともう一度戻るにはかなりの体力を消耗します。下降点を確かめて尾根を離れました。ほとんど斜面を滑り降りるような下りです。とても道とはいえません。よくこんなところを登って来たなと思いました。水穴に着いたのが16時56分。そのまま下り登山口の車に着いたのは17時17分でした。何とか明るいうち戻れました。
 心配しているといけないと思って、来るときに道を尋ねた家に寄りました。声を掛けるとまたさっきの老人が現れました。やはり、私のことが気になっていたようでした。途中の道のことなどを少し話すうちに老人は自分のことを語り出しました。自分は吉野の行者(山伏)で、今は78歳だということでした。そして奥に入ると名刺を持ってきて1枚くれました。そしてまた遊びにきてくれといいます。その時にはここに電話してくれればいい。5時頃ならもう起きているので朝はどんなに早くてもいい。午前中は山仕事に行くので午後の方がいい…。
 私は半信半疑でした。引っ越しの挨拶状に「近くに来たときにはぜひお立ち寄りください」式の話ではないかと思いながら聞いていたのですが、内容があまりに事細かなので不思議な気持ちになりました。今も本気なのかどうかわかりません。私としては民俗学的な昔の暮らしの話が聞ければ嬉しいのですが…。どうしたものかという気持ちです。
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記憶変調

2016-07-22 08:16:17 | ぼやき・つぶやき・ひとりごと
 さすがにおかしいと思いました。ここまで思い違うということはありうるのか。それとも年を取ってくればこのくらいのことは当たり前のことなのか。案外、年を取るということはこういうことなのかもしれません。
 先日、運動靴を買いに行きました。「運動靴」なんて言葉、今も使うのでしょうか。ランニングシューズと言った方がよくわかるかもしれません。山登りに使うためですが、いつからか日帰り登山のときには登山靴ではなく運動靴を履くようになりました。荷物の重いときには底の厚い頑丈な登山靴が必要ですが、軽装のときは運動靴の方が便利です。
 運動靴のサイズは26cmでした。平地のときはこれで問題はありませんが、山では下るときにつま先が靴に当たって痛みが出て来ます。これは単純に体重のために足先が前にずれるだけのことですが、靴ではこれは致命的です。前から知っていましたが我慢していました。今回も山を下りながら何とかならないか考えていて、靴のサイズを大きくしてみようと思いました。もちろん、こんなことはこれまでに何度も考えましたが、靴の場合には「足に合ったサイズ」が大切だと聞いていたので、大きすぎるとごそごそして使いものにならなくなるのではという気が強くしていたのでした。ただ、今回その気になったのはつま先の痛みがひどくなってきたのと、この数年、何でも試してみるようになってきたことがあります。
 そう思い始めるとすぐにも試したくなります。といっても町に出たときじゃないと買えないので4,5日あとになってしまいました。当然、そのときには靴のことはすっかり忘れています。別のものを買ってすぐ帰ろうとしたのですが、何となく気持ちがすっきりせずホームセンターの中をぶらぶらしているとパッと靴のことを思い出しました。
 27cmの靴を持ってレジに行くとそこで「サイズは大丈夫ですか」と言われました。一瞬、靴のサイズと私の背丈を見て言ったのかという気がしましたが、相手は単にマニュアルに沿って尋ねているだけでしょう。私の体の中には昔の感覚がいつまでも残っていて、つい相手の言葉に対応しそうになってしまいます。それにしても、レジで働く人も品物によってマニュアルが違うわけだから、いったいどれだけ覚えなければならないのだろうか、たいへんだなぁと思いました。自分の中では昔のように話した方がいい気がして、頭の中で、『本当のサイズは<26.5cm>なのだけど、坂道を下るときにはつま先が当たって痛むので一回り大きい27cmを試すことにしたのです』と説明しておきました。
 家に帰ってこれまでの靴をみると「26cm」でした。何、これ。自分の靴のサイズまで思い違いするようになったのか。これは効きました。当然のことながら、自分でも、何もかもがこれまでとは違ってきていることには気づいています。その一つとして簡単な暗算ができなくなりました。特に引き算です。実際のところ、筆算は問題なくできるので計算の論理は壊れていないのですが、どうも複数個の数字を同時に保持することが難しくなってきているようです。しかし、自分の靴のサイズを間違えるとは。
 日常生活の一つひとつは記憶している多くの数値をもとに無意識のうちに行われていきます。これでは早晩おかしくなる。これがモウロクの始まりだなと思いました。
 いずれにせよ、<少し大きい>靴には違いないので試してみることにしました。平地でも違和感はありません。これまでサイズにこだわり過ぎていたのかもしれないと思いました。すぐ近くに90mほどの山があるので登ってみました。登りは問題ありません。問題は下りです。やはり靴の作りが柔らかいので体重のために前にずれます。だけど足首のひもをしっかり締めれば何とかなりそうです。
 いろいろ試しているうちに、40年前、初めて登山靴を買ったとき、つま先が当たるといけないということで27cmにしたことを思い出しました。ただ、登山靴の場合には毛糸の靴下を、厚手、薄手の2枚履きました。その分を見込んだ<27cm用>だったのか、それを見込んで27cmにしたのかはわかりませんが、つま先が当たらないことを確認したことだけは覚えています。
 そのうちに、運動靴の場合、以前は<26.5cm>を履いていた時期があったような気がしてきました。若いときには26.5cmを履いていて、あるとき26cmを履いてみたらそれでも問題なかったのでそれから26cmに切り替えたのではなかったかと思います。それでモウロクが始まった今、記憶の混乱が起きているのかもしれません。今後、このような思い違いはどんどん増えることでしょう。60代でこれですから70代、80代の人はどうしているのだろうかと思いました。
 とりあえず、<物>を少しずつ減らしていかなければと思います。カセットテープやビデオテープだけでも全部聴こうとすれば何年かかるかわかりません。実はこの作業、すでに始めていたのですが内容をチェックしたもので捨てることのできたものはありません。捨てられたのは、チェック中に切れたり、からまったりしたものだけです。テープの劣化が進んでいるようで、これは誤算でした。しかし、この誤算のおかげで少しは荷物が減りそうです。
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「魔の山」を読む

2016-06-19 08:30:46 | ぼやき・つぶやき・ひとりごと
 トーマス・マンの「魔の山」は40年くらいうちの本棚にあります。岩波文庫で全4冊。学生時代に古本屋の棚で見かけて買いました。何かで、北杜夫氏がトーマス・マンに惚れ込んでいるという話を聞いたのですが、聞き違いかもしれません。トーマス・マンという名前はそのとき初めて知りました。北杜夫氏の小説は読んでいなかったのですが、「どくとるマンボウ」で氏の名前だけは知っていました。そんな有名な人に影響を与えるトーマス・マンとはどんな人だろうと思っていたときに、たまたまこの本を見かけたのでした。帯には「マン中期の代表作であるこの大長編は、“ファウスト”、“ツアラツストラ”と並んでドイツが世界に送った偉大なる人生の書といえよう」と書かれています。そのころの私は人生をどう生きればいいかを模索していたので、これを読めば何かつかめるかも知れないと思いました。
 40年も前のことなのでよく覚えていませんが、長い説明が多く、ごく日常的な会話が延々と続くばかりで全くおもしろくありません。「サナトリウム」って何だろうと思いました。私にとっては異世界の話で、勝手が違うという印象でした。この先に何か意味のあることがあるのだろうかと思いました。言いたいことがあるならもっと手っ取り早く言ってくれという気分でいらいらしてきます。こんなペースにはとても付き合っていられないと思い、中断しました。
 その本を再び読み始めたのは去年です。きっかけは村上春樹著の「ノルウェーの森」を読んだことでした。ノーベル賞の発表が近づいてくるとよく村上春樹氏の名前が出て来ます。私は氏の作品を読んだことはありませんでしたが、ただ外国人がよく「村上春樹」の名前を口にすることは聞いていました。それで学校の図書館に行ったとき、村上春樹の作品を読んでみたいのだけれど…という話をすると、紹介してくれたのが「ノルウェーの森」でした。
 数ページ読んで気付きました。外国文学の翻訳を読んでいるみたいです。『な~るほど』と思いました。この人は英語かフランス語か、とにかく外国語で考えているなと思いました。それを翻訳する形で日本語にしているのではないかという気がします。それで外国人にとっては読みやすいのでしょう。
 1ヶ月間借りられるので2度読みました。おもしろかったからではありません。それまで自分の気付いていなかった世界のあることをこの小説で知ったからです。「心の病」というものがあることは知っていましたが、これまではそれを「外から見る形」で知っていただけだったということが分かりました。それを内側から眺めたら外の世界がどのように見えるかということは考えたこともありませんでした。そういうことだったのか思いました。
 この小説の中に、主人公が「魔の山」を読みふける場面が出て来ます。「魔の山」に関しては、私には<読みふける>などということは考えられませんでした。自転車で長く緩い坂道を漕ぎ上っているときのように次第に息切れがしてきて、いつ止めようかとそのタイミングばかりを探っている感じだったので、<読みふける>という表現に自分が何か大切な物を忘れてきたのではないかという気がしてきたのです。それで40年ぶりに「魔の山」を本棚から取り出しました。
 読み始めてすぐに40年前の気分を思い出しました。だいたい「魔」という文字が問題です。全部読んだ後ならどうしてこのようなタイトルを付けたかの意味もわかりますが、タイトルに引かれてこの本を手に取り読み始めた人にとっては、いつまで経っても「魔」の出てこないこの小説は「やってられない」という気分が募るばかりです。
 私は、4年ほど前から市の図書館を利用するようになりました。それまでは学校の図書館を利用していたので多少融通が利きます。市の図書館を利用するようになって「返却期限」というものの持つもう一つの意味を知るようになりました。その日になるとその本は家から消えることになるので、おもしろくなくても、よくわからなくても、とにかくその日までに隅から隅まで目を通すようになったのです。そのおかげでどんな本でも必ず読み通すようになったのですが、それでも今回は勝手が違いました。膨大な文字、それはまさに活字の海です。こんなにたくさんの言葉を使って語っているにも拘らず、私の心に響いてくるものはあまりありません。文章は文法的には成立していますが、その意味を、あえて立ち止まって解釈してみても、図式としては捉えられますが、それには実感が伴いません。気分は空虚になるばかりです。膨大な言葉の無駄遣い、そんな言葉が心の中を駆け巡ります。私も時間を無駄にしたくないという気持ちが募り、ついに2冊目の途中で本を開けなくなりました。

 今年の1月の半ばから浄化槽の工事が始まりました。そして2月に入りトイレが洋式になりました。私は洋式トイレは苦手です。これまでの人生の中で数回しか使ったことがありません。それで、使い方を知らない道具を渡された時のようにどうしていいかわかりませんでした。まだ残っている感じがしてすっきりしないのです。『仕方がない、出るまで待つか』ということで本を持ち込むことにしました。
 幸いにして今回の工事でトイレに不潔感はなくなりました。とはいえ、大切な本をトイレに持ち込むことはためらわれます。そこで候補に挙がったのが読みかけのままになっていた「魔の山」でした。
短い時間でも毎日読むことには意味があったのだと初めて知りました。というのは、以前、ある高校で1限目の授業の前に、10分間、「読書の時間」を作っていたのですが、そのとき私は、こんな短い時間で、ぶつ切りで読んでも…、と思ったのです。読書の習慣をつけさせるということだろうと思いましたが、そのときには「毎日」ということの威力に気付きませんでした。
 トイレ読書で「魔の山」は再び動き出しました。しかし、おもしろくはありません。喜びはただ一つ、ページが進んでいくことだけです。それなら止めたらいいようなものですが、最後までそうなのかは終わりまで目を通さなければわかりません。興味を引かれた箇所もいくつかはあります。主人公のハンス・カストルプが、死を間近に控えた患者のところに花を届けるという活動を始めたところもその一つです。一種異様な印象を受けました。確かに、青年期ならそういうことを思いつき、そこに意味を見出すこともありうることでしょう。作者のマンは、この出来事をハンスの精神的な成長過程に必要なことと考えて挟んだのか、それとも、ふと思いついて挟んだのか、もしこの場面がなければ小説あるいはハンス青年の色調が変化してしまうのか、そのあたりのことはわかりませんが、自分の青年期の「ふわふわした気分」を思い出しました。
 セテムブリーニ氏とナフタ氏の論争もそうです。両氏はありったけの用語を駆使して議論を展開します。ハンス青年は2人の論争を聞きながら時々口を挟みますが、私はそれを読みながら、工科大学を終えたばかりの青年に、怒涛のようにぶつかり合い、溢れ渦巻く言葉の流れが理解できるものだろうかと思いました。しかし、考えてみれば自分もそうだったかもしれません。難解なものが立派に見えて、そんな言葉を使いこなせるようになりたいと思ったときがあったのですから。今はそれが青年期なのかもしれないと思います。
 セテムブリーニ=ナフタ論争の結末は意外でした。これは私にもさすがにショックでした。だけど『なるほど』と納得できるものでもありました。そして、すぐにすべては第一次大戦に飲み込まれていって物語は終わり、私の「魔の山」も終わりました。
 読み終えて思いました。最初に読みかけた青年期では、たとえ最後まで読んだとしても、そのときの私にはこの小説を受け止めるだけの力はなかったでしょう。だから中断したのです。今も、この小説が、帯に書かれているような「偉大なる人生の書」であるかどうかわかりません。ただ、40年間、ちらちらと気になりながら、今、機会を得て読むことになったということには味があると思います。日記をみると、この本を読み終えたのは4月5日でした。そして、5月1日には「リンの話」を書き出しています。リンは私が最初に飼った犬の名前ですが、この話を書くということは自分の人生を整理する作業を始めることでもあるからです。これまで何度もやろうとしたのですが、書き出しても続けることができず、どれもが途中で止まってしまっています。それが動き出したということはようやく機が熟したということでしょう。自分が人生でお世話になった人や物の話が中心ですが、それを書くことで自ずと精神的な身辺整理ができていくのではないかと思います。
 トイレ読書は今、ドストエフスキーになりました。ドストエフスキーは十代の終わりから数年間に亘って読みました。「魔の山」同様、読めば何かつかめるのではないかと思って読んだのです。その頃は、人生には答があると思っていたようです。それを先に知りたいということだったのかもしれません。それが青年期というものなのでしょうか。昔、「薬」として読んだものが、今は「小説」として読めるようになりました。長く生きるということにはいいこともあるなと思います。
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イチゴの日

2016-05-23 07:01:26 | 畑の話
 4月30日、ついにイチゴを取って食べました。と言っても、たったの2個です。小さいけれど甘く、確かにイチゴの味がしました。『なるほど』と思いました。イチゴは人気のあるはずです。
 これまでずっとイチゴには抵抗がありました。それは、一つには「少女趣味」的なイメージがあること、二つには「商品化」され過ぎていること、三つ目は栽培時の管理が極まっていること、などです。私は、どちらかというと自然に近い放任栽培的なものが好きなので、それは一般的なイチゴ栽培の対極に当たります。とはいえ、イチゴのあの可愛らしさが気にならないはずはありませんでした。
 昨年の秋、イチゴとの関わりができました。LEDを使ってイチゴを周年栽培する植物工場を始める計画があり、その相談役をしてほしいというのです。これこそまさに私の対極中の対極、しかもイチゴです。当然断るべきところですが、断れない事情がありました。一応、問題が発生したときや、専門的、技術的なことでわからないところが出てきた場合の相談相手に、ということなのです。自分はその方面のことは知らないといっても農学部の出身なら調べればわかるだろうといって聞いてくれません。仕方なく「わかる範囲で」と返事をしたのですが、1週間くらいして「大変なことになった」と気付きました。プロジェクトが動き出してから「知らない」では済みません。春から打診があったのでその方面の資料には目を通していたのですが、現場で発生する問題をそんな付け焼刃で解決できるわけがないという思いがひしひしと迫ってきました。
 図書館に行くとかなりの専門書がありました。それを借りて毎日、早朝2時間の勉強です。LED、植物工場、光の特性と光合成、植物の生理学、水耕栽培、イチゴの栽培技術、等々、つまり、範囲は工学、理学、農学に亘ります。ノートを取りながら、学生時代にこれだけ勉強していればなあと思いました。3カ月くらいすると現在の最先端技術の全容がほぼ見えてきました。そのあたりから吸収した知識をもとに考えることができるようになりました。半年を過ぎるころには自然のしくみが見えだしました。それまで自分は「気持ち」を中心に考えていたなと思いました。
 秋にホームセンターでイチゴの苗を買いました。買いに行ったのではなく、たまたま行ったら売っていたのです。5本買って庭に1本、畑に4本植えました。これが10月25日です。育つのかなあと思いましたが、枯れたようになりながらも中心から小さな葉を覗かせたときには『なかなかやるなあ』という印象で、その後は霜が降りても雪が降ってもマイペースという様子を見ていると何となく力強ささえ感じるようになりました。多年生植物だというし、もしかするとかなり野性的な力をもっているかもしれないという気がしました。
 このイチゴに実がなるとは思っていませんでした。きちんと管理をすれば実もなるでしょうが、無肥料では期待する方が野暮です。それでも春先になり、葉の成長に勢いがついてくると『もしかすると』という気持ちにもなります。そんなとき花房が出て蕾がつきました。1月25日です。ところが2月4日の日誌には「蕾と思ったものは蕾ではないようだ」とあり、2月8日には「イチゴ、やはり花だった」となっています。これが「不時出蕾」か、と思いました。まだ虫もいないから実りはしないだろうが、花の咲くことは確認できました。
 咲いた花に実がつきだしたことに気付いたのは4月14日でした。薄緑色をした小さな小さな実で、これが本当に大きくなるのだろうかという感じです。何しろ無肥料ですから期待はしていませんでしたが、これは実りそうだと思いました。少し大きくなって赤みが差し始めると一日で色づきます。もう少し様子を見ようとそのままにしておいたら先の方をナメクジに食べられてしまいました。実を取って洗い、ナメクジに食べられたところを取り除くと甘い香りがします。かじってみると確かにイチゴの味でした。
 今回のことで赤くなったら夕方には取らないとナメクジにやられてしまうことがわかりました。つまり、熟すと来るわけで、ナメクジは匂いか何かでそれが分かるのでしょう。そして、4月30日、ついにまともなイチゴが2個、取れました。一つはすぐ食べました。甘く、爽やかで、香りもよく、ふくよかな気分になりました。もう一つはスケッチブックに絵を描いて色鉛筆で彩色しましたが、あの赤色はとても描き表せません。いくつもいくつも描いたのですが、不思議なことにどうもイチゴらしくないのです。こんな単純な形なのにどうして描けないのだろうと思いました。イチゴを見るとイチゴです。絵を見ると、形はそのままなのですが、イチゴではないのです。何だろう、これは。そんなことをしているうちにイチゴの美しい赤色が少しくすんで艶が落ちているのに気付きました。これはいかんと思い、すぐに食べたのですが、味は少し落ちていました。なるほど。それからはさっと描いて、すぐ食べるようにしています。
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「納豆汁」

2016-04-30 08:24:26 | ぼやき・つぶやき・ひとりごと
 納豆汁、確かに、こういうものは存在しますが、今回はそれとは違います。ようやく食べ終えて、ほっと吐息をついたところです。そもそもの始まりは去年、いや、もっと前かもしれません。数年前から時々「納豆」を作っていたのですが、突然、飽きがやって来たのです。
 なぜかは知りませんが、私は「手作り」のものに惹かれます。食品もその一つで、特に長い歴史を持つ発酵食品は自分でも作ります。ただ、できたものを試食するときには躊躇することがよくありますが、それは無理もないことです。色やにおいは食欲をそそるものではないし、それより食べても大丈夫かどうかが気にかかります。腹を壊すくらいなら大したことはありませんが、ひどいときには3日くらいの絶食は覚悟しなければなりません。犬がいたときにはとりあえず、犬が食べるかどうか様子を見るという手もありましたが、今はほんの少し自分で食べて様子を見るしかありません。
 数年前に稲わらの納豆菌で納豆を作ることを思い立ち、本を見て調べました。そのとき、まず、稲わらを煮沸することを知ったのです。『何だ、これは!』煮沸するということは100℃で沸騰するということです。それまで私は、煮沸すれば細菌は死ぬと思っていました。だから殺菌するときは煮沸するのでしょう。ところが、納豆菌は煮沸しても死なないというのです。納豆菌は高温になって環境が悪くなると胞子のカプセルを作り、そこに命の種を預けるのです。そのカプセルは100℃でも耐えられます。そして、環境が良くなるとその胞子が発芽して、ほかの微生物がいない環境で一気に増殖するのだそうです。
 『何という凄いやつ。そんなやつかこんな身近なところにいるとはなあ。』ただ、殺菌したいときはどうするのか。120℃で殺菌できるようですが、普通の圧力鍋ではとてもそんな温度にはできません。納豆菌が有害な微生物じゃなくて良かったと思いました。こんな相手を敵に回していたら人類も大変なことになっていたはずです。
 そんなわけで「稲わら納豆」はできました。ですが、市販の納豆と比べると、糸の引き方も弱く、味も特にいいとは思えませんでした。しかも、「手作り」という感動も日が経つにつれて次第に薄れてきます。そして、何度か作っては食べることを繰り返した後、弁当箱一杯くらいの納豆を作ったところでピタッと食べる気がしなくなりました。
 それから1年か2年くらい、その納豆は冷蔵庫の奥でじっとしていました。私もそれのあることすら忘れてしまうくらいで、ちらっと目に入ったとき「何とかしないと」と思うだけです。結局はずっとそのままで年月が経っていったのですが、弁当箱分の体積はかなり場所を取ります。それでついに今回それを処分することに決めました。
 「処分」という言葉は便利です。口にするのをためらうようなことをするときにはこの言葉が重宝するようです。同じことをするのに言葉の使い方で気持ちが楽になったりするのは不思議で、奇妙なことだと思いますが、責任感を希薄にする働きのあることは問題です。
 弁当箱のフタを開けると納豆は干からびてカラカラになっていました。カビは生えていません。さすがだなあと思いました。だけど、火は通したいので、油で炒めることにしました。それから味付けに塩と酒を加えると今度は納豆がどろどろになって味噌状化しました。考えてみれば納豆も味噌も原料は同じ大豆です。が、こちらの場合は強烈な臭いがあるので、これは後々尾を引くなと思いました。
 仕方がないので煮詰めて佃煮風にすることにしました。出来上がった納豆風味の佃煮、弁当箱一杯分。食べられないことはないのですが、塩分が多いので一度の食事で減る量は僅かです。これでは食べ終わるまでにどれだけかかるかわかりません。数日後、一気に解決するには汁か鍋にするしかないという結論になりました。そこで納豆汁となったわけですが、これがうまくないのです。いろいろな具を入れたのですが、特にワカメは良くなかった。温めるとだんだん溶け出して汁の泥沼化に貢献するばかりです。他の野菜や肉もそれぞれの味がばらばらで全体としてのまとまりがありません。しかし食べられないことはないだけに始末が悪い。しかも、火を通すたびにどろどろ度は上がっていきます。結局、量が減っていくことだけが喜びで、どうしてこんなことになってしまったのかと自問自答を繰り返すばかりです。食べ終えたときにはある種の達成感すらありました。
 今、納豆汁からは解放されました。しかし、このままでは納豆の顔に泥を塗っただけになってしまいます。少し休んで、また納豆を作るつもりです。何があっても「一休み」の効果は絶大ですから。
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