ほろ酔い日記

 佐佐木幸綱のブログです

読み直し近代短歌史4  視点・視線の意識化(写生という方法) 正岡子規

2016年04月16日 | 評論
前回までに、「われ」と「個性」が近代短歌の重要なポイントであり、近代短歌史の基本的枠組となったことを見てきました。
そのあと、新しい短歌にとって何が大切なポイントになるのでしょう。

 「われ」とは何か。われとは「視点」なのだ。そう考えたのが正岡子規でした。「われ」は見ることによって世界と連接する。
そこで、世界と連接する方法をとことん考え抜くことで、子規は「写生」という「視線」のありようが、新しい短歌への基盤になりうる、そう考えました。
 「写生」とはつまり、「われ」という「視点」を世界の中心において、世界を遠近法でとらえる方法だ。子規はそう考え、そこに絶対的な信頼をおくことで、新しい短歌の方向をさぐろうとしたのでした。
 
 正岡子規は二十代はじめのころ、大学予備門時代からずっと俳句を作っていて、短歌に取り組みはじめるのはずっと後、三十代に入ってからでした。すなわち、明治31(1898)年以後のことです。
 子規は、明治31年2月から3月にかけて、新聞「日本」に評論「歌よみに与ふる書」を連載、並行して短歌「百中十首」を連載しはじめます。

 「百中十首」とは、子規作の短歌100首を選者に見せ、選者に選んでもらった10首を新聞に載せる。残り90首に新作10首を加えて再び100首とし、次の選者に10首を選んでもらうというもので、選者は11人でした。
 だれが選者だったのか。内藤鳴雪、河東碧梧桐、高浜虚子といった子規周辺の俳人たちがほとんどでした。中で、しかるべき歌人は佐佐木信綱ただ一人。あと「日本」新聞社社長の陸羯南が選者にはいっています。当時の子規には人脈がなく、また彼の眼鏡にかなう歌人もいなかったのだと思われます。
 「百中十首」に選ばれた短歌は、ここにあらためて取りあげるまでもない作でしたが、この時点で子規は、とにかく理論・実作両面で本気で短歌に取り組みはじめるわけです。そこでのポイントが「写生」でした。

 子規の短歌も評論も、その発表の場は、新聞「日本」でした。(前にあげた「百中十首」の選者に新聞「日本」の社長・陸羯南がいました。陸羯南が文学的経済的な面ともども子規の全面的な支援者でした)。
 新聞が発表の場だったことは、きわめて特殊なことでした。他の歌人たちがみな、短歌雑誌や文学雑誌、同人雑誌等を主要な発表の場としていたからです。

 新聞と雑誌では読者がちがいます。新聞「日本」は、欧化主義に反対して、ナショナリズムを標榜する新聞でしたから、短歌とはまったく無関係な人が主な読者でした。
 そしてスペースがちがいます。新聞の紙面という枠があるので、三十首、四十首は一度に載せられませんし、一首だけという訳にもゆきません。
 短歌を載せるならば、新聞紙面にふさわしい適当なボリュームが要求されます。そこで、毎回8首~10首セットで歌を発表することが基本になります。
 読者とスペース、この二つが子規の歌の方向を決めました。しぜん、8首から10首前後の連作が中心になります。

 「われは」8首、「ベースボールの歌」9首、「足たたば」8首等、有名な作を思い出していただければ、子規の歌の方向と、私が言う意味が分かっていただけるでしょう。
 まず古典和歌を知らない読者にも分かる題材、分かる表現が採用されます。たとえば、「ベースボールの歌」一連には、「久方のアメリカ人」などと枕詞が入っているものもありますが、まあ字が読める明治人ならだれでもが理解できるような九首です(この文の最後に、「ベースボールの歌」を引用しましょう)。ちなみに、野球は1チーム9人で9インニングのゲームなので、9首の連作になっています。子規独特のシャレですね。

 明治33(1900)年1月、子規は「日本」に「叙事文」と題する評論を連載して、写生文を提唱するのですが、短歌の方でも意識的に写生を行いはじめます。
この時期、子規はすでに歩行不能、寝たきりでしたから、写生する対象は限られていました。室内および寝たままで見える庭の風景だけでした。
 高浜虚子が、子規のこうした生活を思いやって、当時はまだ珍しかったガラスを障子に入れてくれます。寒い冬でも障子を閉めたまま庭が見えるようになったので、子規の喜びようはたいへんなものでした。

冬ごもる病の床のガラス戸の曇りぬぐへば足袋干せる見ゆ
窓の外の虫さへ見ゆるビードロのガラスの板は神業なるらし
  
 子規の大喜びのさまがよくわかります。引用した2首をふくむ13首の「ガラス窓」という歌を作るのですが、13首中の10首に「見る」という語が使われています。「見る」ことにいかに興味をもっていたかが分かりますね。
 ほかに見るものがないわけですから、物干し竿に干してある「足袋」だって興味の対象として見ています。うたっています。短歌史の中で、これは足袋をうたった最初の短歌だと思います。

 見なれている庭の光景をどう新鮮に見るか。寝たきりの子規にとってこれは見る楽しみであると同時に、文学の問題でもあったのです。寝たきりの「われ」が世界とどう連接するか。
「われ」が世界の中心だと意識したとき、その「視点」からの遠近法はどうなるもか。その実践版です。

 次にあげる「五月二十一日雨中庭前の松を見て作る」(10首のうち3首を引用)は、子規が自覚的意識的に写生の実践に踏み出したことを示す、記念碑的な大切な一連だと私は見ています。

松の葉の葉毎に結ぶ白露の置きてはこぼれのぼれては置く
松の葉の葉さきを細み置く露のたまりもあへず白玉散るも
庭中の松の葉におく白露の今か落ちんと見れども落ちず
  
 この一連は、とにかくそれ(雨中の松)だけを見ることに徹しています。めぐりの何かも出てきません。音も出てきません。庭という限られた視野の中で、さらに視野をしぼって、望遠レンズでクローズアップするように、細い松葉とそこをつたう雨滴だけを執拗に写生しています。「われとは視点なのだ」に徹しています。

 古典和歌では。「松」は「待つ」の掛詞、「常磐の松」として「不変」「めでたさ」の象徴とされました。ここではちがいます。ただただ見る対象です。子規は、こういうエクササイズを重ねることで、「われとは視点なのだ」をつきつめ、「写生」という「視線」のあり方を方法化してゆくのです。

 子規の死後、子規の弟子たちが雑誌「アカネ」「馬酔木」を刊行。そして、1908年(明41年)に「アララギ」を創刊します。「写生」を旗印にした「アララギ」が、大正・昭和前期の近代短歌史の中で大きな力をもったことはご存じのとおりです。伊藤左千夫、長塚節、斎藤茂吉、島木赤彦、土屋文明……等々、かつての国語教科書にずらっと出てきた有力歌人を輩出しました。
 その結社雑誌「アララギ」は、1997年(平成9)、満90年をもって廃刊します。
 「アララギ」は廃刊されましたが、その流れを汲む、佐藤佐太郎、近藤芳美、高安国世等が、それぞれの結社雑誌を起こして今日にいたっていることはご存じの通りです。

 最後に、「ベースボールの歌」9首を引用しておきましょう。だいたいでも野球を知っている人ならば、理解できるように作られている点に注目してください。

久方のアメリカ人のはじめにしバースボールは見れど飽かぬかも
国人(くにびと)ととつ国人とうちきそふベースボールは見ればゆゝしも
若人のすなる遊びはさはにあれどベースボールに如(し)く者はあらじ
九つの人九つのあらそひにベースボールの今日も暮れけり
今やかの三つのベースに人満ちてそゞろに胸のうちさわぐかな
九つの人九つの場をしめてバースボールの始まらんとす
うちはづす球キヤツチヤーの手に在りてベースを人の行きぞわづらふ
うちあぐるボールは高く雲に入りて又落ち来る人の手の中に
なかなかにうちあげたるは危かり草行く球のとゞまらなくに


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