ヒマローグ

毎日の新聞記事からわが国の教育にまつわる思いを綴る。

小さな総論賛成、各論反対

2017-07-16 08:05:46 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「限度はどこまで」7月11日
 読者投稿欄に、国東市在住A氏の『モノは大切、でも限度も』というタイトルの投稿が掲載されました。小5の孫が6cmの鉛筆を使っていたことに気付いたA氏は、『鉛筆やノートなどは使いきったものを見せないと、新しく買ってくれなかった』というご自分の母親の話をして聞かせ、『物は大切にしなければならない』と話す一方、『それでも限度というものがある。こんなに短いと使いづらいはず。新しいのを下ろそう』と説いたのだそうです。
 そうです。ものには限度があるのです。では、その「限度」は誰が判断するのでしょうか。A氏のケースでは、孫娘、その両親、A氏という3者が判断の当事者です。孫娘は6cmは、まだ使うべきと考えていたのでしょう。両親の判断はよく分かりませんが、今どき珍しくきちんとした躾をしている親ですから、子供の状況にも目配りをしていると思われます。おそらく6cmはまだ使えると考えていたと推察できます。この両者の判断を、A氏が覆したのです。それも、両親には無断で、祖父という権威を使って半ば強制的に。
 孫と祖父の日常的な些細な出来事について、何を大袈裟に分析しているのだ、と思われる方が多いかと思いますが、これは家族(おそらく仲の良い)の間だからこそ、とるに足らない小さな事件で済みますが、A氏の代わりに担任教員を置いてみたとき、問題はとても複雑になります。
 家庭の基準と学校・教員の基準が異なる場合、どのように調整を図るか、という問題になるのです。学校と家庭が対立する場合、大きく分けて4つのパターンがあります。まず、事実の有無に関する認識が食い違う場合です。例えば、カンニングしたか否かというケースです。
 次に、ある事実に関する解釈が食い違うケースです。子供の言動については確認できていても、それが単なる悪ふざけかいじめか、解釈が分かれるというようなケースです。また、教育方針が違うというケースもあります。勉強は塾でさせるので、学校では余計なことはさせず休ませてください、という保護者の主張がこれに当たります。
 そして最後に、基本方針では一致しているのに、判断の基準点が微妙にずれているというケースです。投稿のケースがこれに当たります。ものを大切に、という基本方針は一致していても、では具体的に鉛筆の替え時は何cmのときか、という点で見方が分かれ、結果として子供への接し方、助言の仕方が違ってしまうというケースです。
 教員をしていて一番多く経験するのが、この4番目なのです。考えてみれば当たり前の話です。事実関係やその解釈が問われるのは、何か事件が発生したときですし、本音はともかく建前では、良識ある大人として保護者と教員は、子育てについてある程度共通の価値観を共有しているものだからです。
 ですから、家庭と学校という2つの場における細かな判断基準点の調整というのが、対保護者において、実は大切になってくるのです。もっとも、多くの保護者は自分と担任の微妙なずれについては、違和感を感じてもそれを露わにすることはほとんどありません。しかし、このずれを放置したまま、いくつものずれを重ねていくと、保護者から不満を抱かれることになってしまいます。保護者が感じている小さな違和感に敏感になり、子供が混乱しないように留意しつつ、学校では学校の基準を、家庭では家庭の基準をという棲み分けを進めることが求められるのです。

 

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