ヒマローグ

毎日の新聞記事からわが国の教育にまつわる思いを綴る。

学校不要論

2016-11-12 07:46:15 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「学校教育は無意味」11月7日
 作家高橋源一郎氏が、人生相談欄で、『いじめに学校が対応しない』という相談に答えていました。その中で高橋氏は、『学校になんか行かなくたってかまいません。本を読むのが好きなお孫さんなら、好きなだけ本を読ませてあげてください。つまらない授業を受けるよりはるかにためになるはずです』と述べていらっしゃいました。
 この記述を目にして考え込んでしまいました。これは、高橋氏自身の経験に基づく見解なのでしょうか。作家になられるくらいですから、高橋氏は文章というものに対して常任とは異なる感性をおもちだったのでしょう。ですから、高橋氏自身にとっては、読書が他の人に比べて高い価値、特別な意味をもっていた可能性は否定できません。でもそれは一般論にはならないはずです。
 それとも、何らかの機関や研究者による調査研究の結果に基づく見解なのでしょうか。私が不勉強でそうした研究について無知なのかもしれませんが、そうした研究報告を目にした記憶はありません。また、どのような研究方法を用いれば、そうした結論が導き出されるのか、想像もつきません。
 或いは考えたくないことですが、相談者が安心できるように、これといった根拠もなく慰め力づけるつもりで「学校に行かなくても平気」ということを強調した表現なのでしょうか。
 そもそも、相談者はいじめのことについては述べていますが、授業がつまらないとは言っていません。どうしてつまらない授業という表現が出てきたのかも分かりません。いじめにきちんと対応できないような教員であれば授業もつまらないはずだと決めつけてしまったのでしょうか。しかし、いじめ対応も知的好奇心を刺激する授業も、ともに教員にとって必要な能力ではありますが、いじめ対応は苦手だが授業は上手いという教員もいるのが現実です。もちろん、その逆も。
 私だけの感覚かもしれませんが、高橋氏の学校や教員に対するイメージは偏りがあるように思えてなりません。私はかなりの読書好きです。家の本棚には、1000冊を超える本が並んでいます。しかしそこには偏りがあります。音楽と美術、天文、化学、物理、数学関係の書籍はほとんどありません。最も多いのは日本史関係で、社会学や心理学の本がそれに続きます。小説類は、藤沢周平、阿刀田高、司馬遼太郎など10人に満たない特定の作者によるものが半数を占めています。
 小学校2年生の子供に好きな本を読ませれば、どうしても偏りが生じます。人生の晩秋期に当たる私とは違い、これからの人生を生き抜く基盤をつくらなければならない8歳の子供には、好き嫌いとは別に幅広く学び、知識を蓄えることが必要なはずです。学校の授業は、そうした必要に答える編成となっています。それでも読書の方が授業より望ましいのでしょうか。
 いじめに遭い、不登校に陥っている子供を無理矢理学校に行かせようとすることは、自殺という大きな悲劇に結びつきかねません。休む勇気も必要です。でも、学校での学びを否定するような発言は、やはり問題だと思います。学校での学び、学校の存在を肯定しながらも、休む権利も認めていくというのがあるべき姿勢だと考えます。

 

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