ヒマローグ

毎日の新聞記事からわが国の教育にまつわる思いを綴る。

古典教育と歴史教育

2017-04-19 08:01:21 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「古典と歴史」4月10日
 東京学芸大教授石井正己氏が、『名著の真意問い採択を 小学校からの古典教材』という表題でコラムを書かれていました。その中で石井氏は、枕草子を取り上げ、『小学校で、「春はあけぼの」の形式にならって作文を書き、中学校になって、その内容を把握するのである。このプロセスには、基礎より応用が先になる転倒がある』と『古典教材の系統化がなされていない』問題点を指摘なさっています。
 また、『子供たちは「春はあけぼの」を、高等学校でも学習する可能性がある。またか、とうんざりする子供もいるはずだ。古典は何度読んでもいい、とする意見もあろうが、これではあまりにも無責任ではないか』とも批判されています。さらに、『「はるはあけぼの。」という季節観自体、「古今和歌集」以来の美意識にはないものだった。それを十分知ったうえで「春はあけぼの。」と断言したところに斬新さがあった。そうした文学史に対する認識がなければこの一文を読み解いたとは言えない。この段は、単純に見えて、意外に難しい』という指摘もなさっています。
 引用が長くなってしまいました。でも、今回はどうしてもこの引用が必要でした。私は石井氏の指摘を目にして、私が専門としてきた社会科教育、その中の歴史についての授業との類似性について考えさせられました。
 まず、「転倒」という指摘についてです。実は歴史についての授業でも同じことが起きているのです。例えば、織田・徳川対武田の長篠合戦です。小学校では、信長や勝頼の立場に立って吹き出しを書くというような学習活動が行われます。そして中学校では、より広く長篠合戦の背景や意味について学ぶのです。つまり、応用と理解の逆転という石井氏の指摘に重なるのです。
 次に、「またか」問題です。これも以前から周知のことですが、同じ日本史を小中高と3回繰り返すのですから、歴史学習においても「またか」問題は存在するのです。
 最後に、前提となる認識が不可欠という考え方です。例えば第二次世界大戦について学ぶとき、第一次大戦後の我が国の経済の供給過剰構造、その対策としての輸出拡大と相手国の反感、ドイツとロシアの国力衰退による対英米関係の変化、我が国の軍事思想の欠如、軍や政府といった組織における総合調整機能の欠落などについて知ることなしには、その実像は見えてきません。しかしこうした事柄についての理解は、小学生には難しすぎます。そこで、小学校社会科における扱いは、我が国は無謀な戦争によって近隣諸国に多大な被害を及ぼすと共に国民生活も壊滅的な被害を受けた、というような表面的な理解までしか求めないのです。
 石井氏流にいえば、こうした歴史学習もまた批判されなければならないことになりますが、私には、少なくとも小学校における歴史学習は現状の形がほぼベストであるとしか思えないのです。もちろん、自分がしてきたことを肯定したいという思いが無意識のうちに働いている可能性はありますが、これは子供の発達段階に応じて長年試行錯誤を繰り返した末にたどりついた関係者が共有する結論なのです。
 石井氏は古典の専門家の立場から提言なさっているのだと思います、その見解は貴重ではありますが、学問と教科の授業は異なるものです。古典と歴史に限らず、学問と小中高の教科の授業を同一視して論じることは避けなければならないと思うのですが。

 

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