愉快な認知症🇯🇵

我が家流/父から学ぶ「これでいいのだ!」人間本来の姿

父、亡くなって五年

2017年05月07日 | その他

今日、5月7日は父の命日。

亡くなってから5年が経った。

5月に入ってから、私は5年ぶりに化粧をした。

父が亡くなった5年前、父の葬儀を最後に私は化粧をやめた。



なんとなく。

素のままでいたいと思ったから。

もう、飾ることも、隠すことも、化粧によって違う自分になることが嫌になった。

素のままの自分でいようと思った。

化粧っ気の無い顔の自分を、恥ずかしがることもない堂々とした自分になりたかった。



5年間、化粧をしないまま私は過ごした。

どこへ行くのも化粧をしなかった。

私にとって、父への弔いの気持ちでもあった。

そして、喪中の期間でもあった。



もう二度と化粧はしないかも・・とも思っていたけれど。

「化粧をしようかな」そう自然に思ったのは、父からの合図だったのかも。

今日、父のためにも読んだ祈りの言葉。

「汝の肉体は汝の念絃の弾奏する曲譜である。生命が肉体に宿ると云うのは二元的な考え方であって真理ではない。正しく云えば生命はその念絃の弾ずる曲譜に従って肉体を現すのである。肉体と云い、複体と云い、幽体と云い、霊体と云うはこれ悉く念の映像に過ぎない、汝の念譜の種類に従って或いは肉体を現じ、或いは複体を現じ、或いは幽体を現じ、或いは霊体を現ずる。すべての人はいつかは肉体を失うであろうが死ぬのではない。人は神の子であるから不死である。念譜の形式が変わるに従って汝の仮有の形式が変わるのである。すべての人の仮有は念の異なるに従って、その顕現を異にする。念の形式に大変動を生ずれば、汝の仮有は他界に顕現し、今までの念の顕現たる肉体は速やかに自壊自消する。これを人々は死と呼ぶが死ではない。それは『生命』が念の絃をもって一曲を弾じ終わってそれを止め、他の奏曲に移らんとするに等しい。『生命』の弾ずる念の曲譜の形式に大変動を生ぜず、その念絃の律動にただ調和を欠きたるのみなるを病と云う。かくの如き病は、念絃の律動の調子を直せば治るのである。併し如何にその念絃の律動正しくとも初歩の一曲は必ず終わって一層高き形式の曲譜を学ばねばならない。吾が云う意味は、地上の生活は必ず終わらねばならないと云うことである。地上の生活は汝の初歩の一曲である。速やかにこれを終わるものは、初歩の教本を速やかにおえたものである。一曲を終わらんとするを悲しむな。それはなお高き一曲に進まんがためである。その前に調律者が来て汝の念絃の調子得を正すであろう。この調律のため一時汝の仮有は調子ならぬ調子を奏でるであろう。此の世の一曲が終わる前に肉体の調子が乱れたように見えるのは此の調律のためであって真に調子が乱れたのではない。汝らかくの如くして次第に高き曲譜に進み行け。一曲は終わるとも弾き手はおわるのではない、弾き手は神の子であって不死であるぞ。(昭和六年六月二十六日神示)」
<谷口雅春・著/帰幽の神示>


一曲を弾じ終わった父は、今きっと、次の奏曲へと歩みを進めているのだ。

おそらく、それを知らせてくれたんだと思う。

弾き手の父は、神の子であり、不死である。


今日は、私の父への喪明けとなった。