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龍馬伝 出直し学習会VOL2

2010-01-24 01:14:17 | Cafe de 大河
「おまんの志もわしが背負って江戸に行っちゃるきー!」

幕末、青年は江戸を目指す…ってなにを目指す?

 と、ゆーわけで、まだストーリー的には黒船直前、幕末の政治劇も動き出していませんので、いまのうちに、龍馬が目指した江戸剣術事情を見ます。

江戸三大道場

 坂本龍馬が最初に地元の日根野道場で習っていたのは、「小栗流」という、柳生流系の流派でして、19歳(嘉永6年)の3月に、これの初伝目録をもらってます。この目録をもって小栗流は一段落ということで、同年春に江戸に出発、押しも押されもせぬ北辰一刀流・千葉定吉道場に入るわけですね。

当時、あまりにも有名だったのは江戸三大道場といいまして、

神田お玉が池 玄武館(北辰一刀流 千葉周作道場)
飯田町 錬兵館(神道無念流 斎藤弥九郎道場)
蜊河岸 士学館(鏡新明智流 桃井春蔵道場)
 
 この3つを総括して、「技は千葉・力は斎藤・位は桃井」と言われました。これらの道場に入ることは、地方の藩から留学してきた部屋住みの若者にとっては最高のステータスだったんですね。
 この三大道場は、嘉永6年に黒船が来るあたりから、剣術道場というよりも憂国の志士の交流サロンの様相を呈し、幕末の情報発信ステーションにもなっていきました。
 のちに国事奔走することになる志士も自称志士も、これらの剣術道場で仲間から影響を受けたりして、人脈を広げ、それぞれに突っ走りはじめ、幕末という時代をまわすエネルギーの一部は、剣術道場で培われたといって間違いはないと思われます。

体育会系道場 北辰一刀流・玄武館&桶町千葉道場

 北辰一刀流の開祖・千葉周作(1795年生まれ)は、小野派一刀流から派生して、24歳の時に北辰一刀流を立てました。
 周作の生涯を通じて育った北辰一刀流は、いうなれば剣術ルネッサンス。おそらく、史上初めて剣術をスポーツにし、概念を根本的に変えたのが北辰一刀流千葉周作門ではないかと思われます。
 宮本武蔵いらいの剣術の修行法は、やたら位階が複雑で、名人の域に達するまでのステージが10いくつもあるのはザラ。哲学性なんかも伴いながら、コツコツとお師匠様の認可をもらいつづけ、位階を積み上げるのに一生かける…というようなものであり、そーゆー悠長さが江戸っ子から見ればイケてない印象だったわけですが、千葉周作は、その煩雑なステータスを大胆に整理して、
初目録・中目録免許・大目録皆伝
この三段階にサクッとまとめてしまったんですね。これだと、それぞれのレベルに応じたステージで、達成感を味わえる。剣術でさわやかな汗をながし、適度な達成感があり、まさにスポーツ!
 このシンプルさと明快さが受けて千葉一門は幕末にかけて大隆盛。町人から武士まで、最大1万人という圧倒的な門人数を誇りました。本家の千葉だけでなく、周作の弟・定吉が開いた道場は桶町千葉(小千葉)と呼ばれ、坂本龍馬が入門したのはこっちです。
 北辰一刀流の特徴的な動作は、「セキレイの尾」と言われる、剣先を絶えず小刻みにフルフル動かしながら相手と対峙する構えです。時代劇などで、こういう動作をする剣客がでてきたらそれは北辰一刀流、千葉門の人とみていいわけですね。
 ここから出た門人には、龍馬のほかに、幕末前半のアジテーター・清川八郎なんかもいます。剣豪・山岡鉄舟も玄武館で北辰一刀流を学んで、その縁で清川八郎と交流があったのですが、のちに剣術性(?)の相違から北辰一刀流をやめ、自分で求道して、禅の精神性をとりいれた「無刀流」を開くにいたります。
 
理系道場 神道無念流・錬兵館

 斎藤弥九郎(1798年生まれ)は、元禄時代に発祥した神道無念流の4代目。修行時代の同門に、江川太郎佐衛門、渡辺崋山、高野長英、藤田東湖など多士済々の顔ぶれがおり、若い頃から剣術だけでなく、思想的にも高度なものを養ってきました。
 四代目を襲名して自身の道場・錬兵館を開きますと、集まった顔ぶれもまた知的で多士済々。特に、当時日本の憂国の士をリードしていた水戸との関わりは深く、藩主徳川斉昭じきじきに、お抱え師範のお声がかかったこともあります。水戸がバックについているということで、錬兵館の思想的な影響力は強力なものがありました。のちには、福井の松平春嶽にも顧問格として迎えられています。
 こうなるともう、錬兵館の政治色は漠然としたものじゃなく、幕末の日本でなにか自分の力をためしたいと考える若者が、かなり確信と野心をもって集ってきていたとわかりますね。
 長州の桂小五郎が、やはり龍馬と同じ時期に私費江戸留学で斎藤弥九郎門下にはいり、錬兵館の塾頭までなったことはかなり有名です。彼は、錬兵館で水戸の志士との交流を深め、それが後の水長同盟につながり、幕末劇前半の事件に大きくかかわることになってきいますが、それはまた、いずれ…。
 長州からは、ほかにも高杉晋作など江戸留学組はみんな斎藤門下であり、ほとんど尊皇攘夷志士サロンの様相を呈してました。

アーチスト系道場 鏡新明智流・士学館

 三代道場の中では一番の老舗です。桃井春蔵は四代目宗家(宗家は代々春蔵を名乗ります)。いちはやく町人に門戸を開いた道場として、剣術の大衆化に貢献していましたが、幕末になると、むしろ芸術家肌というか、求道者の流派という感じになっていました。
 ここの技の名物は、他流試合をしても品格を失わない芸術性の追求にあり、宗家・四代目春蔵直正の、相手につま先を見せない長い袴での、お能のような立会いは有名でした。そのあまりの格調に、試合に勝っても「負けた」と膝を折って激賞する他流者が続出したことから、「位の桃井」と呼ばれたものです。
 ただし他流試合は盛んで、門弟たちは竹刀試合の強さを競い、どんどん他流と試合をして名を上げていました。
 その中で有名な弟子に「竹刀の働き日本一」といわれ、真剣使ったことないけど竹刀試合では最強といわれた、上田馬之助がおります。このひとが、江戸の居酒屋での喧嘩でひょんなことから抜刀し、物理的に刀を抜けない狭さの飲み屋の階段で、一刀のもとに無礼者を斬り伏せたというのは、幕末剣豪もののひとつ話として有名で、司馬遼太郎さんも小説に書いておられます(「斬ってはみたが」)。そんなことからも、桃井道場仕込みの妙技は名を上げて、出身者は明治後も警察の剣術教授などで活躍しました。
 宗家の桃井春蔵は、幕末も押し詰まってから、講武所の剣術教授に、町人出身の剣術家としては初めて取り立てられて幕臣になり、その後大坂の講武所詰めとなってからが多忙すぎて、江戸の道場は自然に消滅してしまいました。
 技の芸術性を追求する桃井道場には、意外にも武市半平太が入門し塾頭をつとめ、武市について岡田以蔵もここで修行して、人斬り以蔵の血塗られた剣技のいくらかは、ここで形作られてます。

 志士の交流サロンという意味では、上記3道場がつとに有名ですけど、純粋にいうところの「剣豪」「剣聖」といったら、誰がなんと言っても直新陰流の男谷精一郎(1797年生まれ)でした。
 上記三流派の三人の宗家も一歩退くような、別格の技量と品格とステータスを持ってた、神さんレベルの人で、この人が講武所の初代剣術教授です。身分はすごく下の御家人でしたが、一応幕臣でしたので。
 勝海舟とはイトコにあたり、海舟は男谷道場で剣を修業しています。この人の一番弟子が、明治維新後に衰退する剣術を苦労して支えて、スポーツ剣道の基礎をつくった榊原健吉です。

 と、まあこんな感じ。たまたま入門した剣術道場のカラーで、人生が変わった人も多くいたと思われます。
 千葉道場にいかなかったら平凡な人生を終えたかもしれない坂本龍馬のように…あるいは、千葉道場とか錬兵館にいっていたら、なにかトンでもないことをやらかしたかもしれない、桃井道場や男谷道場の剣士たちのように…。
 とにかく、無駄に熱い男たちの志でムンムンしていた幕末の町道場の空気…。いまから想像するに、あまりにも濃い。現代日本に、これに置換できる場所ってあるかしら? いやあ、ないだろうなあ…。
それだけ見ても、平成維新は遠いなあ、という話なのでした(笑) 
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斎藤弥九郎の墓 (SFurrow)
2010-01-24 09:03:24
「体育会系・理系(知的エリート系?)・アーティスト系」なるほど、これまで何となく三大道場について持っていたイメージが整理されてわかりやすく、納得です!
一世代前、予備校の全盛期には、駿台・河合・代々木の各校が、それぞれの個性が何たらとかPRしていましたが、スケールと格調が大分落ちますわな。現代の若者の志と熱気がムンムンするといえば、大学こそがそういう場所になってほしいものですが、あまりにも大衆化しちゃいましたし…案外70年代の「代々木系・反代々木系・革マル」なんてのが近かったのかも(笑)

弥九郎先生の墓は、代々木八幡の宮寺である福泉寺にあり、何度か訪れたことがあります。ご存知のとおり平岩弓枝さんはご実家が代々木八幡なので、「御宿かわせみ」の主人公が神道無念流というのは、このご縁でしょうね。

何はともあれ、今晩の「桶町の鬼小町」の登場が楽しみですね!
わからない・知りたい (ヘリクチュ)
2010-01-24 10:36:51
庵主さま、皆さま、こんにちは~。

第二話の冒頭で、龍馬が江戸に行きたい行きたい!とのたまうんで、
エーッ、その背景の説明も龍馬なりに江戸への憧れが育まれていく過程の描写もなく、そーかい、いきなりかいっ、
と、愛の兜の雑な進行が思い出されて腹立たしかったんですが、、、
今年は恒例の前フリお勉強コーナーもないので、庵主さまを頼って理解をふかめていこうと思います。

当時の武士の子弟が江戸に行くってさぞお金がかかり、それゆえステータスでもあり、本当に恵まれた一部の人間しか行けないものだったんでしょうか。

それとも、幕末の志士は皆わりと江戸留学をしているので、わりとポピュラーだったのか、
いやむしろ、だからこそ志士になったのか、こと長州藩が子弟の教育を惜しまなかったのか、ヘリクチュにはよくわからないところです。

また、何かの本で三大道場は、しいて言うなら、今なら名門大学の名門体育会○○部みたいなもの、と読んだことがあるような、ないような・・(汗)

出典すら思い出せませんが、もっとアングラで文化的な集まりなのか、超イケてる良家の子弟クラブみたいなものなのか、アイビーリーグみたいなことか、どうなんでしょうね。
ドラマで伝わってくるといいな~。

平成維新は… (庵主)
2010-01-24 23:21:07
SFurrowさん

>案外70年代の「代々木系・反代々木系・革マル」なんてのが近かったのかも

ああ~、なるほどですね。そう考えると、無駄に熱い世界が世の中に無いのは、平和っちゃ平和かもしれないですが… なんとなく、民に積極性というか、意欲がなくなっているような気がして。
昔とちがって、今は若年人口が少ないのも関係あるかな? 今の大学生が徒党を組んで暴動を起こすとは思えないし!

江戸の町道場が幕末志士の温床になっていたというのは、まさに在野のパワーですよね。
斎藤弥九郎は、政治にもかなり影響力を持ち、明治後も政府に出仕したとか。お墓もさぞや立派なのでしょうね。
留学生の懐具合は (庵主)
2010-01-24 23:33:29
ヘリクチュさん

>今年は恒例の前フリお勉強コーナーもないので

そ、そういえば…ない。
あれも必要だと思うんですが…なにか考えあってのことでしょうか。
まあ、変な習字とか出されるよりずっといいんですけど。完全にドラマのイントロになってるところも、民放っぽいですよね。

>当時の武士の子弟が江戸に行くってさぞお金がかかり、それゆえステータスでもあり、本当に恵まれた一部の人間しか行けないものだったんでしょうか

うーん、いろいろ方法はあると思うんですけど、私費留学はかかると思いますよね。ふつうは、参勤交代についていって、藩費で江戸の学問所に入るとかでしょう。
今週の第4回放送でも、弥太郎がチラッとそんなこと言ってましたけど、剣術修行はいわゆる「箔をつける」という面があったようですね。
龍馬は次男ですから、将来継ぐべき家とか、財産とかが無いわけですよね。なので、剣術道場を開くというのは、独立のための手っ取り早い道であって、そのためには江戸の道場に留学して箔をつけるのが必要と、そんな感じのことだったのではないでしょうか。
もちろんそれは相当のお金がないとできないことですよね。
桂小五郎も私費江戸留学していますが、この人の家も相当のお金持ちです。
あと、幕末になると地方の庄屋階級とか、豪農の出身の人が、武士じゃないんですが準武士という格で、学問所や道場に進出して、志士になっていってます。これも箔をつけるための江戸留学のくちですね。清川八郎とか、相楽総三とですが、この人たちも実家がめちゃくちゃ金持ちで、何ぼでもお金が使えたみたいです。
けっきょく、そういう人のところに貧乏志士が溜まり、人脈が構築されたってこともあるんでしょうが…。
志士と懐具合の関係も、調べてみると面白そうですね。そのへんは、またいずれ…。

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