雲随の歴史話

歴史人物の生き方、考え方、行動など一緒に学びましょう。
現在は諸葛亮孔明について記載しています。

4次北伐「諸葛亮孔明街亭の雪辱を果たす。」

2008年10月18日 | 「北伐」ライバル司馬懿と対決
上図は諸葛亮率いる蜀軍を苦しめた桟道です。
岸壁に穴をあけて、木の組み立てで出来ている橋です。
一列に並んで行軍するのが精一杯の道幅しかありません。
特に食糧輸送が深刻な問題でした。
この写真を見ても、諸葛亮と蜀軍が北伐にかける想いが
現代の我々にも伝わってきます。


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4次北伐。
諸葛亮は3万の軍勢で、漢中より北西の祀山を目指し、
天水東部(隴西)の鹵城へ出陣する。
民衆からの諸葛亮支持は強いため、
鹵城の太守はすんなりと城を明け渡す。
まず税金として麦を徴収することにした。
太守「麦を苅ってもらうことは構いませんが、
   司馬懿の軍勢10万が見張っています。」
諸葛亮「10万!蜀軍は3万しかいません。
    地図を見せてもらえますか。」
「妖鳴樹」という森林帯を見付けて、名前の由来を聞く。
太守「昼間でも薄暗く、妖怪の鳴き声が聞こえるため、
   旅人でも嫌がって、入っていきません。
   鳴き声の原因は、木にあいている穴に風が通って
   音を出しているだけなのですが、
   人間の声のように聞こえます。」
これは計略に仕えると思った諸葛亮は、早速行動に移した。


司馬懿陣営前に
諸葛亮と思える黒ずくめの集団が踊る。
髪はばさばさで、旗を振りかざし「イッヒッヒ」と
笑い声をたてる。

兵士たちは「諸葛亮?妖怪?」騒ぎたちだした。
司馬懿と「すぐに捕まえろ」と命じた。
しかし、いくら追いかけても捕まえられない。
司馬懿も陣を出て追いかけて、妖鳴樹に入り込んでしまう。
司馬懿もまた追いかけるが、捕まえられなかった。
立ち止まると、周囲の木が悲しげ人間の声を出す。
兵士たちは
「孔明は妖怪なんだ。」と恐れだした。

司馬懿は
「この世に妖怪などおらんと兵士にいい聞かせろ」命じた。
すると
右からも、左からも諸葛亮と思える集団が現れた。

これには司馬懿も恐れて、退却命令を出した。


陣に帰ると、
「すでに蜀軍と農民が、麦を苅ってしまいました。」
司馬懿に告げられた。
「どうして諸葛亮にかかるとこんな簡単な計略に
 我々は引っかかるのだ。」
と司馬懿は嘆いた。

「今夜、鹵城を総攻撃する。」と司馬懿は命令を下した。



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鹵城の戦い

司馬懿率いる軍勢は夜、鹵城を囲んだ。
総攻撃の合図として太鼓が鳴り響く。
ところが、
城内より、一斉に弓矢が司馬懿側に飛んできた。
司馬懿側の太鼓は、諸葛亮側の総攻撃の合図となっていたのだ。

司馬懿率いる魏軍は、混乱しパニックに陥った。
さらに麦畑に隠れていた姜維、魏延、馬忠、馬岱の8000の兵が
魏軍に襲いかかった。
城内からの弓矢が止まると門が開き、
蜀軍が一挙に攻めかかった。

前後から襲われた魏兵は次々に斬られてゆく。
司馬懿は必死に蜀兵の囲みから脱出し、
近くの山に逃げてのびた。

翌朝、鹵城一帯は魏軍の死体で埋め尽くされ、
その血は川を形成するほどだったという。

司馬懿の大惨敗だった。



司馬懿は援軍を要請し、
20万の兵が、蜀軍の兵糧輸送を断ち切るため、
剣閣に向かった。
しかし、途中で休憩を入れたところを、
蜀軍の襲撃に遭い、多数の死者を出して、敗走した。

これも司馬懿の惨敗となる。

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李厳より「呉の蜀侵攻計画」の報告を受ける。


蜀軍は一致団結にて勝利沸き返った。
しかし、永安を任されている李厳からの兵糧が来ない。
さらに李厳から早馬が駆けつけた。
「呉国が魏国と同盟を組み、蜀への侵攻を計画しているため、
 兵糧が上手く輸送できない」

諸葛亮は撤退を決意し、漢中への退却を開始した。
司馬懿もこのことを聞きつけ、
張合に追撃させた。


張合の軍勢が、蜀軍に襲いかかると、
張合の後方が、蜀軍の伏兵によって丸太、大石が投げ込まれ、
退路を失った。
左右から弓矢を射られ、張合は戦死する。

これもまた、司馬懿の惨敗となった。


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1次北伐から4次北伐は毎年行われた。
魏国では来年も諸葛亮が侵攻してくるだろうから、
天水方面に食糧を蓄えておこうと案がだされた。
ところが司馬懿は
「いいや、その必要はない。
 諸葛亮は祀山、陳倉を攻めあぐんでいる。
 今後は作戦変更し、野戦を望んでくるだろう。
 今までの諸葛亮を見ると、兵糧不足に悩んで
 撤退している。
 次回は充分な兵糧を準備するだろうから、
 侵攻は3年後である。」

惨敗続きの司馬懿であっても、
平常心を保ち、諸葛亮の動きを予想していた。


まことに司馬懿予想通りで
諸葛亮の5次北伐(最期の出陣)は、3年後であった。

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