知的成長戦略論-クールに生きる

かっこよく生きるためのメモ。
知的に成長し、どんな状況でも平静を保てる力を身につける。

戦争を行っていない世代が、戦争の責任を負うべきか?

2010年10月10日 | 国家論
興味深いテーマだったので、個人的に書いておきます。

責任を負うべきだという人の見解。
 国民である以上、前の世代の責任を負うのは当然だ。
 歴史や文化は継承されるのと同じように、行った行為も継承される。

責任を負うべきでないという人の見解。
 自分がやった行為についてのみ責任を取るのが、原則だ。
 戦争は、自分がやった行為ではない。
 ゆえに、責任を取る必要はない。


本質的な対立点は、
 自分の行為についてのみ責任をとればすむのか?


アリストテレスの正義論は、
 自分の行為でなくとも、「善」というものから生じる責任というものがある。
 この場合には、自分の行為でなくとも、同じ国民である以上、責任を取るのが善である。

サンデル教授の共同体主義者の見解は、
 共同体の責任は、そこに所属する構成員も負うことになる。

カントは、
 自分で行った行為の責任をとればよい。
 (カントは、日本の刑法理論の基礎になっている。刑法は処罰概念で、自分の行った行為を処罰するという大前提を覆すことはできない。親の殺人行為を子どもが負うことはない。)


まとめると、こんな感じです。

大事なことは、答えなどないということ。

正義論は、唯一絶対のものではなく、今まで生きてきた個人の考え方が深く影響します。
大事なことは、
 自分の考え方を筋道を立てて説明するスキルを身につける
ことです。

それに賛成するかどうかは、聞いた人の自由。


では、僕の考えはどうなんだということで・・

僕は、やはり責任を負うべきなんだと思います。
ただ、サンデル教授のような共同体主義の考え方には、賛成できない。

僕は、「自由な意思」を重視します。共同体というあいまいなものには危機感を覚えています。
「共同体が決めたことに必ず従わなければならない」という集団主義の危険を持っているからです。
サンデル教授は、善で対応しようといいますが、人間は悪にもなり、集団で暴徒化する存在であることからすると、
善などというあいまいなものを、信用することはできません。
サンデル教授は、議論を通して、善が決定されるシステムを期待していますし、そのための活動もしている素晴らしい人ですが、
日本の国会を見てみれば分かるように、そんなに知的能力が高くない人が、戦争を決定する権限を持っているのが現実です。


そうすると、責任を負う根拠を、共同体主義以外から導かないと、
僕の考えは、だれからも支持されないことになってしまいます。


では、どういう理由づけをするか?
意思決定論に基づいて説明してみます。

まず、刑法の原則であるように、自分で決めたことのみ責任を取ればよい。
これが、カントの考え方。

そうすると、僕が決めたことでないので、戦争の責任を取らなくてよいということになりそう。

そこで、ここで、ロジックの工夫を入れる。
僕が考えたロジックの工夫は、ナシオン主権(グーグルで検索)。


戦争を決めたのは、国会。

国会は、民主主義の原則によるので、決議されたことについては、
 反対していた人も従うことになる。
 (「おれは、刑法に反対だから従わないよ。」とはいえない。多数派で決まったことに少数派も従うのが法律。)

国民主権でいう「国民」は、現在の国民のみならず、将来の国民も含む抽象的な国民(これをナシオン主権と言います)。(詳しくは、芦部憲法など)。
そのため、国会は、現在の国民のみならず、将来の国民の代表として、
 国益に適う決議をする(将来の国民から「委任」を受けているということ)
(これが、将来の国民が、現在の国会で決めた国債を背負わされる根拠となる。)。
 
それにより、
 将来の国民は、過去の国民の決めた決議につき、責任を取る。
 (過去の国民が条約を批准したら、将来の国民も、責任を負う。)
 将来の国民は、過去の国民が行った良い結果(経済成長)も、悪い結果も負うことになる。

したがって、過去の国民が戦争を遂行することを決めた以上、将来の国民がその責任を負う。

意思決定論から、考えるとこんな感じになるでしょうか。


文化だとか国籍だとか言い出すと、
 親の行為を子どもが引き継ぐことになる
はずです。

しかし、親と子どもは別人格で、
 バカな親の責任を子どもに追わせるのは間違っています。

親の借金を放棄できるのもそのためです。

引き継ぐかどうかは、自分の意思により決定できる。
その場合は、相続のように、プラスの財産もマイナスの財産もセットで相続する。
資産だけ受け継いで、借金は受け継がないよ、ということはできない。


テレビの学生のように、
 いい親であれば、感謝の気持ちを示すために、親の責任を子どもが負う
というのは、
 責任を負わない
ということを前提に、
 義務はないけど、感謝の気持ちを示すために、自発的に負うことにします
ということにすぎません。

こういうのを、自然債務と言います。
(破産免責された債務のように、法的には返さなくてもよいが、
自発的に返したものについては、債権者は受け取ることができる。)

そのため、テレビの学生の主張は、責任を負わないということが前提。

責任を負うという立場であれば、悪い親でも負うということになるはず。
悪い親であれば、負わなくてよいという積極的な理由はない。
(良い悪いはどうやって決めるのか?相手が請求できないのであれば、義務とはいえない。)


そうすると、
 親の行為と国家の行為とは異なる
という根拠を説明しなければならない。

テレビ見ながら考えた根拠なので、穴もあるかもしれないですが、
その根拠としては、
国民主権概念(将来も含む抽象的な概念「ナシオン主権論」。)を持ち出すのが、一番説得的かなと思います。




 学ぶ意義とは?
 なんで勉強しなければならないの?
と聞かれたら、考えるツールを増やすためだと答えます。

国民主権概念からの説明も、一つの説明だと思いますが、
 ここでは、ナシオン主権の考え方を知らないと理解しにくい
わけです。
過去の国民の責任を将来の国民が背負うという自説を補強する理由として、
 国債が同じように考えられる
と思いつけば、相手に説明しやすい。

よい親だけ負うという見解に対しては、
 自然債務の考え方を知っていると批判がしやすい。

自説を説明する際に、
 理由

 たとえ話

 相手の批判
を入れるときに、知識が多ければ、的確なものを選択して、
 相手に説明できる。

知識を身につけておくと、
 こういった材料が増える
ということです。
コメント
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