年金受給者の日々へ 悪戦苦闘の記録から

自分のXデーに向かってまっすぐに走る日々
   年金受給前の悪戦苦闘の日々より

紅葉

2008-11-15 00:00:00 | Weblog
 朝の散歩はHさんといっしょ。2軒隣りのHさんと顔を会わす機会がこのところぐっと減ってきた。定年退職まで10ヶ月を切りカウントダウンをしているHさんは最後のお勤めとばかり黙って粛々と業務をこなしている感じである。私もなぜか年金受給開始以後Hさんを誘い、行こうか、と声をかけるゆとりがなくなっている。例年であれば今の時期、行こうか、と声をかける行き先は決まってどこかの紅葉散策であった。自分の用事<紅葉見物、の算式であった。しかし今は自分の用事>紅葉見物、ついつい機会を作っていない。しかし今朝の1時間の散歩は大池までの周回コースにつき黄色く色づいた木々を見ることが出来た。赤い色はこれからだろうか。で、紅葉より優先する本日の午後の自分の用事は、2週間お休みをしていた「こころ塾」へ。本日のテーマはうつ病患者を家族に持つ、家族の支援のあり方。運命共同体としての家族の一員が鬱になったときの家族のあり方、がテーマであるけれど、鬱の人に対してどうすればよいかなど、1対1の関わり方から脱しきれていない本日の発表者の現状報告において精神科医であれカウンセラーであれ、リアクションを見ているとまだまだ私は未熟さを感じた。鬱に関わる人もやはり同様な鬱的症状が現れるのはなぜなのだろうか。不安を取り込めた日常生活から逃げたい、安定した日常生活こそ自分の生活である、と多くの人は思っているのだろう。では安定するとは何か。自然はいつも移ろいやすくしかも旧の自然でもない。昨年の紅葉と今年の紅葉は色づきひとつとっても違うだろう。春の新芽で命の息吹を感じ、多い繁る夏の成長点で勢いを感じ、秋の紅葉で命の下降線を見て、冬枯れた姿を見る、これらの予定調和以外の予想もされない情況を自分の中にどれほど養い得るか、そんなことを思った。紅葉の朱色、海に落ち行く朱の夕日にどうして自分たちは感動するのだろう。
 宝塚歌劇を母親と観劇した妻が、久しぶりに非日常的な体験をしたにもかかわらず、興奮することもなく、アンナ世界もあるのね、と電話口で報告してきた。