《以下引用》
「中山成彬元文部科学相は五日午前の自民党文部科学部会・文教制度調査会合同会議で、沖縄戦の集団自決をめぐる教科書検定問題について「十一万人が集まれば教科書が変えられるのか。そういう前例を残すことはどうなのか」と述べ、旧日本軍による強制や関与の記述削除を求めた検定意見撤回の動きを批判した。(中略)中山氏はさらに記者団に対し、「従軍慰安婦や南京事件の記述についてもさまざまな位置付けがあり、その人たちから見ると、たくさん人を集めれば教科書を書き直せるのかということにもなる」と指摘。その上で検定意見の撤回について「慎重な対処が必要だ」と強調した」(10月5日『中日新聞』)《引用ここまで》
冒頭にも書いたが、この批判はおかしい。そもそも書き直す必要もなかった歴史教科書の記述に、異を唱えたのは安倍内閣だった。しかも、その直接的な根拠とされたのは、「自決命令があった」と著書本で書いた大江健三郎さんと、出版元である岩波書店が訴えられた裁判で、命じたとされた遺族が「そんなことはなかった」と証言台で述べたことだった。
判決もまだない段階で、単なる原告側の証言者に過ぎない人物の証言を根拠に、軍命はなかった、として検定内容の書き換えは、いかにも乱暴な理屈だと、安倍さんの答弁を聞いて覚えたものだ。
当欄でもなんどか触れたが、沖縄戦に至る沖縄の現代史は、「皇国臣民」となるべき教育が広く、深く行われた。そのこと自体、本土との歴史の差異でもある。そういう教育環境下で育てられた県民らが、戦争の最後になってどのような態度を取るべきかは、悲惨なことだが、想像がつく。そのことにまず思いをいたすべきではないか。
そこから沖縄戦での実像が見えてくる。その場合、「自決せよ」などという上官の命令が仮に直接的になかったとしても、住民らが自決したとすれば、それは歴史教科書の上では「軍命」があったと教えたとしても間違いではない。
問題は、どういう教育が行われれば、あのような悲惨な事態を生じることになったのか、であって、そこに立っての反省や自覚がなければ、同じことが繰り返される危険性は依然としてある、ということである。
安倍政権は、沖縄に対して行われたそういう歴史全体をなきものにしようと、「軍命」に名を借りて行おうとした。姑息、というしかない。この問題、福田政権では、どう決着を見るのだろうか?
最新の画像もっと見る
最近の「沖縄」カテゴリーもっと見る
最近の記事
カテゴリー
バックナンバー
人気記事