吉岡攻の「そんなことって、あり?」

時にはふるさと信州で、時には日本の各地で、そして時には世界で、日々起きているさまざまな問題を考える場です。

■ペルー公邸人質事件から10年 ①

2007-04-23 | テロとの戦争
 11年前の12月、天皇誕生祝賀会で賑わうペルー・リマにある日本大使公邸に、覆面をした左翼ゲリラ、トゥパク・アマル革命運動(MRTA)の14人の男女が突然突入、パーティーに参加していた数百人を人質に取り、立て籠もった。事件は翌1997年4月22日、軍特殊部隊が敷地外から掘ったトンネルから公邸を急襲、71人の人質を救出したが、人質1人と隊員2人、ゲリラ全員が死亡した。

 それから10年。《以下引用》

【アスンシオン22日共同】ペルーの日本大使公邸人質事件解決から22日で10年。元人質は解放から10年を祝う夕食会を開催、軍も記念式典を行う。一方で当時のフジモリ大統領は失脚し、軍が武力突入作戦の予行演習に使った大使公邸のレプリカは博物館に生まれ変わるなど、時の流れも感じさせる(4月22日『共同通信』)《引用ここまで》

 この事件の背景を探るために、私は事件発生直後と事件解決の直後の2回、リマに行った。突入したMRTAとはどんな組織で、彼らは何を求めて公邸に突入したのか? ゲリラのふるさととも言われるアンデス山中の暮らしや生活は一体どのようなものであり、何が彼らをゲリラにさせたのか、などペルーという国の事情を知りたかったからだ。

 それらは一本のドキュメンタリーとして放送(1997年1月26日 TBS『報道特集』~MRTAをアンデスに追う~)したが、それから5年経った2002年、当時公邸に人質として囚われたある日本人の外務省職員が書いたある記事に触発されて、その人の話をベースに再びペルーに入った。そしてそこで私が得たものは、ペルー政府や日本政府が公式に発表したものとはまた違った一面だった。

 これは2002年12月に『ゲリラは処刑されたのか?』(同『報道特集』)というタイトルで放送された。

 人質開放から10年。4カ月余も幽閉生活を余儀なくされた人質たちにとっては、そこから無事解放された喜びは10年たった今も変わらないだろう。その気持ちはよく分かる。だが一方で、占拠という暴力的な方法で公邸に突入したゲリラたちにとって、一体あの事件とはなんだったのか。そして、事件をゲリラ全員の射殺という形で解決させた軍の思惑とはなんだったのか。そこに問題はなかったのか。

 取材で得た証言などをもとに、あらためて『ペルー大使公邸占拠事件~ゲリラは処刑されたのか~』を8回にわたってブログ上に再現する。

 今日はその第一回。

■『ペルー大使公邸占拠事件~ゲリラは処刑されたのか~』①
○リマ市 
○マエストロ墓地
  リマ市の中心部にあるプレスビテロ・マティアス・マエストロ墓地。
  集合住宅を思わせるこの墓地に四人の遺体が眠っている。

○墓碑銘
  ネストル・セルパ、ビクトル・ペセロス、
  ティトと呼ばれたエドゥアルド・クルス、
  そしてルス・ディナ・ビジョスラダ、通称シンシアである。

○ビジョスラダの母
  「娘さんはいくつで亡くなったんですか」
  「二十歳、あと一ヶ月で二十歳という時に死にました」
○母親と墓地雑感
  彼らは、六年前の一九九六年十二月、
  リマにあった日本大使公邸を占拠し、そして死んだ、
  テロリストと呼ばれた人々であった。

○ビジョスラダの母
  「娘はいい子で勉強熱心で、働き者で、とても陽気でした」

○墓地
  取り残された母親にとっては、
  死んだ娘の記憶が消えるべくもないが、
  多くの人々にとって、事件は、歴史のひとこまになるはずだった。
  だが武力制圧から二年後、・・・

○小倉英敬さん
  「部屋の入り口のところにMRTAのメンバー二名が
  数名に取り囲まれてるのを見ました。
  ひとりはシンシアと呼ばれていた女性で、
  殺さないで、と叫んでいました」

  当時、人質として囚われの身となっていた
  在ペルー日本大使館の一等書記官、小倉英敬氏。
  彼はさらにこう続けた。

  「ティトと呼ばれていた男が後ろ手に縛られて、
  床にうつぶせにさせられているのを目撃しました」

○リマ市の繁華街
  命乞いをし、あるいは無抵抗だったにも関わらず
  三人は殺されたのではないか。
  この小倉英敬氏の証言は、
  テロリスト制圧作戦は成功だったと、
  内・外から賞賛された日本大使公邸占拠事件に、
  暗雲が漂うことになった。

○『リベラシオン』紙記事(1999年12月17日付)
  『特報 日本人外交官の証言が
  ペルー政府を冷血な殺人者であると告発』

○リチャルド・サアベドラ検事
  「われわれも
  小倉証言を裏付ける証拠を集めることが出来ました。
  つまり処刑があったと考えられる証拠をです」

○空き地となっている日本大使公邸あと
  大きな壁に遮られ、中をうかがうことはできない。
  事件の舞台となった大使公邸自体すでに取り壊された。
  しかしまぎれもなくこの敷地の中で、
  六年前の十二月、事件は起きたのである。

○事件発生直後
  事件が起きたのは、
  一九九六年十二月十七日、午後八時二十分のことだった。
  武装した男女十四人のMRTAメンバーが
  天皇誕生日祝賀レセプション会場となっていた
  大使公邸を襲い、六百二十一人の人質を取ったのだ.


○小倉英敬氏
  「公邸を占拠したMRTAは何を要求しましたか」
  「ひとつは経済政策の変更、
  これは新自由主義的な経済政策から変換する、
  もうひとつは獄中に囚われていた同志たちの
  釈放ということです」

○MRTのコミュニケ
  この夜、出されたMRTA指導部のコミュニケはこういう。
  
  「日本政府はかねてより、
  フジモリ氏の政府が行っているあらゆる種類の人権侵害を、
  またペルー人民の大多数に、
  よりいっそうの貧困と飢えしかもたらさない
  経済政策を支えてきた」

○当時の大使公邸
  公邸を占拠したMRTAは
  徐々に人質を解放しながらも、
  最終的には七十二人を拘束した。(以下第二回に続く)
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