真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

戦争に関わる歴史の真実は・・・ http://hide20.web.fc2.com に記事にリンクの一覧表


教育勅語 皇国史観 平泉澄

2017年06月16日 | 国際・政治

 

  ”先祖伝来の「日本の神話」の真理への回帰こそが、幸せに生きる秘訣だ”と主張する出雲井晶は、「今なぜ、日本の神話なのか こんな素晴らしいものとは知らなかった日本の神話」(原書房)の中で、教育勅語について、

無心になって「教育勅語」に対すれば”人倫の教え”これにまさるものはない。どんなに時代がうつりかわろうとも変わることのない、人間の道を指し示されたものであると共に、それがそのまま自国の国体とつながっているからすばらしい。”

と書いていました。自民党政権閣僚の教育勅語擁護の発言の背景には、同じような考え方があるのではないかと思います。そして、それが「皇国史観」と呼ばれた歴史観に基づくものであろうことは、同書に「平泉澄」の名前が出てくることから、明らかではないかと思います。

  平泉澄は、皇国史観を代表する歴史家で、皇国史観の教祖とか、皇国史観の総本山とさえいわれ、学者でありながら、戦前から戦中にかけて国粋主義的活動を扇動し、また、海軍大学校や陸軍士官学校で講義・講演を繰り返して昭和軍部に深く関わった人です。
 さらに、昭和天皇に進講するようになったり、激増する門下生に対応するため、学内に「朱光会」、学外に「青々塾」を組織したことも知られています。
 その活躍の一端を示す文章が、「神の国と超歴史家・平泉澄 東条・近衛を手玉にとった男」田々宮英太郎(雄山閣出版)の中にありましたので、抜粋しました(資料1)。まさに、「軍隊における精神教育が、兵器による武装」に劣らず重要であると考えていたのでしょう。
 
 また、教育勅語の解釈に関連する文章の一部を「先哲を仰ぐ」平泉澄(錦正社)から、抜粋しました(資料2)。

 教育勅語の核心は、”一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ以テ天壤無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ”にあるのであって、個々の徳目はその目的のためにあるということが、平泉の下記の文章から明らかではないかと思います。特に平泉澄が、眞木和泉守を評して、

先生が楠公を慕はれます点は、その功績にあらず、ただその命を致して自分も死ぬ、子供も死ね、孫も死ね、一家一族全部、皇室の御為には命を捧げるがよい、この一点を眞木和泉守は感服し、自らこれを実行しようとされたのであります。

と書いていることは見逃すことが出来ません。さらに、末尾に(昭和39年8月20日)とあることにも注意が必要だと思います。

 国家に緊急の事態が起これば、国に命を捧げることを説き、教育勅語があげる日常の徳目は、究極目標達成のための手段として位置づけらるものであるにもかかわらず、「教育勅語の内容の中には、今日でも通用するような普遍的な内容も含まれている」などと言って教育勅語を擁護するような主張は、教育勅語の本質を歪曲し、歴史を偽るものではないかと思います。
資料1------------------------------------------------------
                    第二章 超歴史的歴史家 
ミリタリズムの花形騎手
 ・・・
 ちなみに、当時の陸軍では、大臣が荒木貞夫大将の後を襲った林銑十郎大将である。三月の人事異動で、歩兵第一旅団長の永田鉄山少将を、軍中枢の軍務局長に抜擢して注目された。同時に永田の腹心をもって任じる東条英機少将を、本省の軍事調査委員長から士官学校幹事(副校長)に転出させているが、これまたただならぬ注目人事だった。
 しかも平泉博士の講義こそ、ほかならぬ東条幹事からの依頼によるものだった。これを機縁に、平泉・東条の結び付きは始まるのである。これも一つの動きであるが、永田を頭領とする軍内統制派の動きが活発化していく。
この十月に発表された『国防の本義と其強化の提唱』と題するパンフレットは、永田軍政の「国家総力戦」路線を示すものであり、ミリタリズム宣言ともいえるものだった。
 ところで、陸士での最初の講義について、平泉博士は述べている。

 講演は一時間半に及んだと思います。私は携えた太刀を抜いて之を示し、さて言いました。
「陸軍よ。願はくは精鋭なる事、此の太刀の如くなれ。此の太刀は、明治維新の直前、文久二年十二月、栗原信秀が神に祈って作りしもの、長さ二尺五寸、一呼して揮へば、いかなる敵といへども両断せずしては止まぬ。
 陸軍よ。願は精鋭にして豪壮なる事、此の太刀の如くなれ。日露戦争以後、天下泰平なる事、今に至って三十年、懦弱偸安(ダジャクトウアン)の気風は上下に瀰漫(ビマン)し、義勇奉公の精神は地を拂って空しい。
 一朝、事あれば、国は危しとしなければならぬ。陸軍よ。願はくは勇気凛々、いかなる大敵迫り来るとも、進んで之を破摧(ハサイ)する武力、豊にして健やかなれ。(後略)」
満場は水を打った如く、静粛そのものでありました。(『悲劇縦走』)

 長さ二尺五寸の太刀というのだが、おそらく刃長二尺三寸七分の太刀のことだろう。栗原信秀といえば筑前守を受領しているほどの刀匠で、それが豪刀でなかろうはずはない。
 日本刀のもつ冷厳な美学が分からぬではない。まして軍刀は武人の魂で、その魅力が軍人の胸奥を揺するのは容易にうなずける。博士の場合、そこを狙っての演技とも見られるところに問題がある。それにしても、講義の壇上で太刀を振りかぶったとあっては、なんとも奇怪というほかない。
 そういえば、先にも引用した、帝国大学の教壇で短刀を抜き放っているが、その先縦はここにあったということだろう。剣道の達人でもあればとにかく、どうしてこんな阿諛追従(アユツイショウ)じみたことをやってのけるのだろう。
 講義と称し、その実、好戦的な言説をふり撒き、一種アジテーションに終始したと考えられる。講義内容が、中世史専攻の教授として真に学問と呼ぶに値するものなら、そんな目くらましみたいなことをする必要はないはずだ。
 建武の中興を論じ、後醍醐天皇、北畠親房、楠木正成と、さては足利尊氏を説くほどに、その国粋主義はいつか歴史学の本道をはずれ、果ては皇国史観へと邁進して行ったのではないか。
 しかし激化する社会不安、世界不安に促され、皇国史観は一気にミリタリズムへと転化したと見ることができよう。大衆性こそ希薄だが、軍部、政界上層部に及ぼす影響は、端倪(タンゲイ)すべからざるものがあった。まして東条少将ら統制派幕僚の中核と結ぶことにより、ミリタリズムの花形旗手となっていくのである。
 それが昭和九年という時代状況のもとで、歴史学教授平泉博士の存在価値だったといえよう。”

平泉史学の影響
 平泉博士と東条少将の会談は、陸軍士官学校での講演の翌日さっそく行われた。その模様は博士自身によって次のように述べられている。

 電話がかかってきました。
「東条であります。昨日は御講演、有難うございました。就いてはこれから御宅へ参上したいと思いますが、御差支えありませぬか。」 
「私の方は差支えありませぬが、閣下はお忙しいでせうから、若し御用でしたら、私の方からおうかがひしませうか。」
「いや、お願いの筋でありますから、東条が参上します。梅村大佐を帯同して参ります。」
 来訪せられた時、座敷の床の間の刀掛け、二振りの太刀が掛けられてゐました。一振は前記信秀の作、これは白鞘でありました。今一振は拵付(コシラヘツキ)、水戸の勝村正勝、元治元年の作。いずれも明治維新直前の、風雲急にして気魄充実した時に作られて、豪壮にして爽快なる太刀でありました。
 少将はそれに目を着けて、「昨日の刀はこれでありますか」と云って、先づ信秀を見、ついで正勝を一見せられた後、相談に入りました。要旨は、かうでありました。
「昨日の講演、肝に銘じました。陸軍の教育、御趣旨に沿って改めたいと思ひます。就いては二つお願ひがあります。第一に御門下の人を教官として迎へたいと思ひますから、御推挙ください。 
差当たっては一人、明年明後年と段々に増加していきたいと思ひます。第二には「国史教科書の改新、これをお願ひします。」
 以上が用談の概略でありました。(『悲劇縦走』)

「講演、肝に銘じました」と言っているが、士官学校幹事たる東条少将を感奮興起させた様がありありと窺える。
 それにしても、この会談で示された申し入れ事項は、容易ならぬ内容をもつものだ。そのことを如実に示す記述を「平泉史学と陸軍」と題する竹下正彦の回想記(『軍事史学』通巻十七号)に見ることができる。

 青々塾に通って、直接先生の教えを受けていた人の数は陸軍の者で十数人位であったかも知れないが、昭和九年頃には、当時の陸軍士官学校の幹事、東条英機少将によって、同校の国史教程が平泉博士によって編纂されることとなり、またその頃には、毎年博士を招いての講話が催されるようになっていた。
 更に陸軍大学校でも博士を課外講師として聘し、その皇国史観は、軍の中枢幹部の中にも、次第に浸透して行ったと考えられる。
 この平泉史学の骨髄をなす天皇絶対、行学一致の精神は、大東亜戦争の全経過を通じ、戦場の全域において、皇軍が壮烈なる戦闘を展開し、特に戦勢非なるに当ってもなお鬼神を泣かしめる奮闘をなし、天皇陛下の万歳を唱え、笑って散華して行った、狂信的とも思われる若い将校の行為の強い支えとなっていたのではないかと、私は常に考えているのである。

 終戦時の竹下中佐は軍務局軍務課内政班長の要職にあり、もとより平泉博士の門流であった。平泉史学が戦争にどんな影響を及ぼしたかを知る、数少ない軍人の一人だろう。軍隊における精神教育が、兵器による武装とならぶ重大性があることを示している。
 それだけに、これほどの重大事を申し入れるには、それ相応の覚悟を要し、かつ実力も伴わなければなるまい。その意味で陸軍部内で当時の東条少将どんな立場にあったのか、興味のかかるところである。
 
資料2ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
                      三、維新の先達 眞木和泉守

 ・・・
 楠公のことはどなたも御承知、今更特に申し上げることはありませんが、眞木和泉守が楠公をお慕ひになり、度々楠公をお祭りになってをりますこと、顕著なる事実であり、今、展覧会にも楠公を祭られましたる文章が展観されてをりますが、しかし、先生が楠公を慕はれます点は、その功績にあらず、ただその命を致して自分も死ぬ、子供も死ね、孫も死ね、一家一族全部、皇室の御為には命を捧げるがよい、この一点を眞木和泉守は感服し、自らこれを実行しようとされたのであります。その点に於いて、菅公を慕はれた和泉守と、楠公を慕はれた和泉守とは、ただ一点を目指しておられるに過ぎない。同じ点を目標にされておるのであります。即ち一点の利害損得の打算なくして、ただ命を捨ててお上にお仕へ申し上げる、それだけのことであります。私はそれが、さきほどの勇気の本となったのである、あの勇気この精神を助長したのである、勇気と道義が相俟ってあの素晴しい働きができたのであると考えざるを得ないのであります。先生の精神はかくの如し、先生の勇気はかくの如し
 ・・・
 それならば眞木和泉守は、どういふ見識をもっておられたのであるか。どなたも御承知のやうに、凡そ明治維新の偉大なる改革の殆ど全部は眞木和泉守の方寸より出て来たものであります。どれを見てもさうであるとさえいってよい。第一に神武天皇創業の昔に帰れといふのが、眞木和泉守の精神でありました。…
・・・
 それから、先生の見識の一つは、旧弊を一新するといふことであります。先生の「経緯愚説」の中に旧弊を破るべしといふ条があります。皆さん聯想がございませうが、明治元年の五箇条の御誓文の中に、「旧来の陋習を破り、天地の公道に基づくべし」といふ、その旧来の陋習は即ち旧弊にほかならないのであります。

 第三には、五等の爵位、あの公侯伯子男の五等の爵位は、何人がこれをいひ出したのであるか、眞木和泉守であります。
 眞木和泉守は、経緯愚説に於いて、五等の爵位を定めるがよいといふことを条理を尽くして述べておられるのであります。…
 亡くなりました忠臣、功臣に位を贈り、若しくは神としてこれを祭るといふこともまた先生の発意であります。明治元年、天皇は詔して、湊川神社を建て、楠木正成公をお祭りになる。相前後して菊池神社、建勲神社、そのほか数多くできます。護王神社、靖国神社、数多くできます。…
 眞木和泉守は正四位を明治天皇より賜りました。贈正四位であります。亡くなった人に位を贈るといふことは、何を意味するものであるか。亡くなっておらぬからであります。死んだ人に位を賜ふということは、意味をなしませぬ。和泉守は生きてをられるのであります。生きておられるからこそ位を賜ったのであります。このことの不思議に驚かずして、日本の神道は理解されず、日本の歴史は理解し得ないのであります。
 次に近衛兵、これも又先生の非常なる卓見といはなければならぬ。先生は天皇直属の軍隊、すなわち特に天皇をお護り申し上げる軍隊を必要とする、近衛兵を置かねばならぬといふことを強調されます。…
 更に、第六番目になりますが、土地人民の權を収めなければならぬ。これは非常なことであります。明治維新といひますのは、長い間いろいろなことが行なはれて、これを総称すると見てよいが、就中、最も大きな改革は慶応三年の大政奉還と王政復古、明治元年の討幕、やがて、明治二年、版籍奉還、だんだんございますが、最も大きな出来事は明治四年、廃藩置県であります。…
 次には、改暦、暦を変えなければならぬ。これも眞木和泉守の意見であります。やがて明治五年、太陰暦を改めて太陽暦とせられました。今日が、何年何月、いく日であるといふことは、朝廷よりこれを発布せらるるべきものであり、その暦といふものは陛下の御裁可によって出されるべきものであるといふのが和泉守意見であります。


 次には遷都、都を遷さなければならぬ。御承知の如くに、都を東京に遷される。…事実は平野国臣といふ人は、眞木和泉守の説を受けたに過ぎないと判断してよいと思います。平野国臣を軽くする意味ではございませぬ。平野国臣といふ人は、眞木和泉守を、その水田幽囚のうちに訪ねて来、和泉守も、その人物に感心をして戀闕第一等の人物である。天皇を恋ひ慕ふ第一等の人物であると褒め讃へられてをりますので、その至誠はこれを尊重しなければならぬ。しかしながら、この人に天下経綸の才を考へることは恐らく無理でありませう。そして実際問題としては、眞木和泉守は、平野国臣以前に既に大坂に遷都をしなければならぬといふことを考へてをられるのであります。…
 第九番目に排仏毀釈のこと、或いは神仏分離のこと、これまた、明治維新に於ける重要なる特色を為すものでありますが、仏教の大いなる浸潤、大いなる勢力、深き浸潤を排除しなければ、日本の正しい姿が現はれないとして、排仏毀釈、或いは神仏分離の行はれましたことの元は、実に眞木和泉守が、文久元年の経緯愚説、或いは文久二年の大原左衛門督に贈られました書状の中に見えてをるのであります。
 ・・・
…日本の歴史を通観してみます時に於いては、幕末に於いて優れたる人物として、前に橋本景岳、吉田松陰を見、後に眞木和泉守を見、これらの人々によって明らかにせられたる道義と経綸とが、やがて、時を得て、岩倉、木戸、西郷、大久保等によって実施せられたあとを見て、実にこの歴史の妙を覚えるのでありますが、何ぞ前に倒れたる人々の不幸にして、世間これに報いることの少きや、これを嘆かざるを得ないのであります。…
 ・・・
 日本国民たる者は悉く、上御一人に帰順し奉るべしといふのが先生の精神であります。上御一人を尊び、その下にあって蹇々匪躬(ケンケンヒキュウ)、御奉公申し上げなければならぬといふのが、先生の根本の信念であります。しかるに天下滔々(トウトウ)としてデモクラシーの叫びに脅かされ、あたかも自ら国家の主権者の如き、浮薄なる言辞を弄するもの天下に充満し、そしてお上に対し奉っては、誠に恐れ多い態度、若しくは言説をとります者が多い今日において、先生は非常なる悲しみ、痛恨を覚えられるに相違ないと思ふのであります。また神武天皇創業の昔に帰れといふことを叫ばれた先生が、、今日、神武天皇をもって架空の人物とし、皇紀を無視し、皇紀どころでなく、昭和の年号すら無視して、ただ西暦をもって、全てを統一しようとする風潮の盛んであることを見られたならば、何といはれるでありませう。近衛兵の存置を叫ばれた先生が、今や近衛兵なく、それどころでなく、正式の軍隊を持たぬを見て、どう思はれるでありませう。忠臣、功臣に対して位を授けられる、天皇より位を授けられ、その霊を神として祭られるがよいといふことを建言された先生が、今日の官国幣社、別格官幣社、その今日の状態を見て何と嘆かれるでありませうか。土地人民の権、お上に帰一しなければならぬといふ、先生の主張が、今日全く革命の洗礼を受けた社会主義の政策によって動かされる実情を見て何と思はれるでありませう。先生の偉大なる経綸に感激するは易い。しかしながら、その偉大なる経綸を、現状において、いかに理解するかといふことになりますと、問題は頗る深刻ならざるを得ないのであります。しかも私の固く信じますことは、先生の精神であって初めて、日本は日本たり、日本国は日本国となり、日本人は日本人となり、日本の歴史はここに成り立つのでありまして、これを没却して今日天下に滔々たるデモクラシーの論、これに任せておきました時には、この国既に亡きに等しい。そして、それは私が先程申し上げました明治の世にしばしばいはれた旧弊といふ言葉を今日におきましては、逆コースとして、逆コースといふ言葉で代用してをりますが、われわれは逆コースとして、しばしば罵られるのでありますが、これは逆コースではなくして、正しいコースである。明治維新をそのまま受けてきたところの精神であって、そして同時に、かくの如き国家、眞木和泉守が考へられ、明治天皇が実現せられたところの明治の大御世の国家といふものが、全世界に於いて、凡そ最も正しい姿の国家といふものを具現したものであって、そこに平和があり、そこに希望があり、そこに美しさがあり、そこに道義道徳があって、これ以上の喜びといふものが、凡そ人生にはない。今の如くに横着な心構へをもって、人をみな叩きつけてよしとし、自分自ら国家の主権者を以て居る今日の状態が、何といふ悲惨な、愚かな、おどけた、笑ふべきものであるか。そしてこれが実にこの国及びこの民族の滅亡の道を歩むものにほかならぬといふこと痛感せざるを得ないのであります。(昭和39年8月20日)

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

”http://hide20.web.fc2.com” に それぞれの記事にリンクさせた、投稿記事一覧表があります。青字が書名や抜粋部分です。ところどころ空行を挿入しています。漢数字はその一部を算用数字に 変更しています。記号の一部を変更しています。「・・・」は段落の省略、「…」は文の省略を示しています。(HAYASHI SYUNREI) (アクセスカウンター0から再スタート:503801) twitter → https://twitter.com/HAYASHISYUNREI

 


 

ジャンル:
ウェブログ
コメント   この記事についてブログを書く
この記事をはてなブックマークに追加
« 『古事記』(神話)と教育勅語 | トップ | 教育勅語 皇国史観 平泉澄... »
最近の画像もっと見る

コメントを投稿

国際・政治」カテゴリの最新記事

トラックバック

この記事のトラックバック  Ping-URL