真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

戦争に関わる歴史の真実は・・・ http://hide20.web.fc2.com に記事にリンクの一覧表


平泉澄批判 永原教授、色川教授他

2017年07月22日 | 国際・政治

 「皇国史観」(岩波ブックレットNO20)の著者である永原慶二教授が、戦時中、東京帝国大学国史学科に入学した時、平泉澄は主任教授であったといいます。同書の平泉澄に関する部分の一部を抜粋しましたが(資料1)、まず、東京帝国大学国史学科で平泉澄の助手であった村尾次郎氏が、戦後、教科書調査官制度が発足したとき、最初の社会科主任調査官になったという指摘に驚きました。また、”学生にたいしても歴史研究の学問的方法を教えるというより、「教化」を重視していたように思われる”という指摘が、的を射たものにちがいないと思いました。まさに、”天皇制的身分秩序をわきまえさせること”そして、”一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ以テ天壤無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘ”きことを学生に教えることが、自らの使命であると考えていたのだと思います。


 「歴史家の嘘と夢」(朝日選書8)の著者である色川大吉教授も、同じように戦時中に、東京帝国大学国史学科で平泉澄の講義を聞いています。そして、「Ⅱ わだつみの友へ」の中の「学徒出陣二十五年に」と題した文章で、平泉澄について語っています(資料2)。特に、出陣する学徒に向かって、最終講義で、”しばらくお別れです、いや永遠にお別れです”といって出ていった、という部分が、いかにも平泉澄らしいと思いました。平泉澄は、「我が子には散れと教へておのれまづあらしに向ふさくら井の里」などという歌を取り上げ、桜のような散り際の潔さを説いたり、「花は桜木、人は武士」というのが、日本人の精神であると説いて、”一旦緩急あれば直ちに剣を執って起ち、勇猛敢為、進むを知って退くを知らざる気象こそ、日本人の誇りなのだ”と教えるのでしょう。平泉澄が「永遠にお別れです」というのは、桜の花の散り際の潔さを見習い、「天皇の御為に」、君たちも潔く散っていかなければならないということなのでしょう。何とかして犠牲者を出さないようにしようとする人命尊重の発想はほとんどないのだろうと思います。

 「天皇と戦争と歴史家」(洋泉社)の著者、今谷明教授の”平泉の歴史学には幅広いしかも力強い実証主義的手法と、狭隘な神秘主義・精神主義とが初期の段階から同居している”という指摘も重要だと思います。今谷教授は、平泉澄の差別的言辞を取り上げていますが、私は、古事記の神話を史実とする平泉澄の考え方では、基本的に大衆蔑視や人種差別から逃れることができないのではないかと思います。その平泉澄の「歴史なき人種」などという差別的言辞に関わる部分を抜粋しました(資料3)。

 「神の国と超歴史家・平泉澄 東条・近衛を手玉にとった男」(雄山閣出版)著者、田々宮英太郎氏の平泉澄に対する指摘も見逃すことができません。田々宮英太郎氏は、平泉澄の考え方の本質に迫ろうと、戦時中の学徒、色川大吉や林勉の証言などを取り上げ考察していますが、平泉史学の「科学性」の問題に関する指摘は、最も重要だろうと思います。
 永原教授の”学生にたいしても歴史研究の学問的方法を教えるというより、「教化」を重視していたように思われる”という指摘と重なるのです。
資料1ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
                      二 皇国史観とは何か

私の体験
 はじめに思い出話になって恐縮であるが、読者に皇国史観の支配した時代の雰囲気を感じとっていただくために私の体験を紹介しよう。私は1942(昭和17)年四月に当時の東京帝国大学国史学科に入学した。教授にどんな先生がいるのかなどということも考えず、歴史を勉強してみたいという気持ちだけで進学したのであった。入ってみると、主任教授は、戦後超国家主義皇国史観の代表的歴史家として位置づけられた平泉澄氏であった。もっとも当時の私は平泉教授がそのような存在であることさえよく知らなかったが、入学すると早々に助手の村尾次郎氏から平泉教授の演習に出ないと二年になれないと説明されたため、まずそれに出席した(この説明はウソであることがあとでわかった)。ついでにいえば、村尾次郎氏は戦後の1956年、教育の右旋回にともなって教科書調査官制度が発足したとき、社会科の最初の主任調査官となって今日の検定路線を打ちだした人物であることはよく知られているとおりである。
 演習は本居宣長(宣長のことは「先生」といわないと叱られた)の「うひ山ぶみ」であったが、さいしょの時間にテストがあった。示されたいくつかの事項について何らか知っていることを書けというものだったが、私はほとんど書けなかった。いまおぼえているところは、そのひとつに「佐久良東雄」という名前があった。これもそのときはまったく知らなかったが、あとでこの人物が平田国学派の志士・歌人であることを教えられた。
 この佐久良東雄は、じつは平泉教授の(『伝統』1940年刊、所収「真の日本人」)のなかでたいへんな評価を与えられている人物で、教授の著書さえ読んでいれば難なく答えられるはずだったのである(どうもこのテストは一種の思想調査だったらしい)。そしてその高い評価の根拠は、結局、この人が「君に親にあつくつかふる人の子のねざめはいかにきよくあるらむ」「すめろぎにつかまつれと我を生みし我が垂乳根は尊くありけり」などという歌を詠んだところにあったようである。
 歌の意味はかんたん明瞭であるが、ここでとくに重視されたのは、「忠」と「孝」という二つの、場合によってはたがいに矛盾する(「忠ナラント欲スレバ孝ナラズ」)価値が統合され、いわば孝が
忠に高められている点である。家と国家の一体化、「皇室は臣民の宗家」などが説かれ、日本は天皇を家長とする一大家族国家という国家イデオロギーが強調されていたこの時代からすると、 佐久良東雄は卓抜した先覚者だというわけである。

 当時、平泉氏の皇国史観はもっともはげしくもえあがっており、学生にたいしても歴史研究の学問的方法を教えるというより、「教化」を重視していたように思われる。教授はわれわれ学生を「○○サン」とよび、けっして「○○クン」とはいわなかったし、学位同士でも「クン」よびはよくないといっていた。その意味は、「君」とは「上御一人(カミゴイチニン)(大君)」のことであるから「臣民」に「君」を使うのはたいへんなあやまちだというのである。学生たちに、このような天皇制的身分秩序をわきまえさせることが教授の使命であると考えていたのではなかろうか。
 こうして入学早々皇国史観による洗脳を受けたわけであるが、その後、これと関連してもうひとつの小事件があった。それはしばらくして私も、「国史」の学科の学生らしくなり、「十一日会」とよぶ学生の月例研究会で研究発表をした。そのとき、「うひ山ぶみ」がきっかけで国学の問題を報告したのであるが、私のタネ本は羽仁五郎の「国学の誕生」「国学の限界」という連作論文であった。当時私は思想的に羽仁氏に共鳴していたからというのではなく、ただ国学関係の論文を読みあさってゆくうちにゆきあたった羽仁論文がもっとも私の心をゆりうごかしたため、未熟な学生としてはそれによりかかるような報告をしただけのことであった。ところが同席した平泉教授は散会後ただちに私をよびとめ、あのような論文はよくないから読まぬ方がよいと厳粛な顔つきで私をいましめたのである。
 いささか私的経験をのべすぎたが、これによっておよそ当時の雰囲気は分かっていただけたと思う。そこで本題にもどって皇国史観とは何か、それにもとづく日本歴史像とはどんなものか、という問題に進もう。

資料2ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
                     Ⅱ わだつみの友へ
 学徒出陣二十五年に
 忘れもしない昭和十八年十月二十一日、明治神宮外苑競技場のスタンドで、私は降りしきる秋雨に濡れ、数万の学友たちの分列行進を見送っていた。かれらはいちように大人びた沈痛な顔をし、黒い制服にゲートルをまき、銃剣のついた三八式歩兵銃をかついで、東条首相の前を行進していった。
 スタンドは満員で、女子学生が多く、なかには急いで結婚した新妻たちの姿も見うけられた。そこに女たちの姿が多かったということが、かれらの心をいっそう悲壮なものにしていたであろう。
 かれらは日本の国難を救う、”民族の華”として称揚された。東条英機の「死して悠久の大義に生きよ」の叫びや、「天地正大の気、粋然として神州に鍾(アツ)まる」との藤田東湖の詩による訓示、文相の和歌の朗詠などがおこなわれ、”防人”のつもりの学徒を、葉隠れ武士の”出陣”の儀式に凝して壮行するという、まさに国をあげての日本浪漫派ぶりの演出であった。

 1943年、その年は、日本軍の南方撤退からはじまって、山本五十六連合艦隊司令長官の戦死、日本軍のアッツ島での全滅、イタリアの降伏と、戦局は日ごとに悪化していた。そのため東条内閣は、不足した飛行要員の補充に、速成のきく大学生の動員を考え、九月二十二日、文化系学生の徴兵猶予を停止し、十二月一日をもっていっせいに入隊することを命じたのである。
 当時、東大文学部に入学したばかりの私には、これは青天の霹靂(ヘキレキ)であった。自分の人生が突如大ナタをふるって断ち切られた想いであり、その先には「死」しか見あたらなかった。私たちはまだ、はたちになったか、ならないかの少年なのに、もう老人のように”末期(マツゴ)の眼”で自分自身や周囲を見まわすようになっていた。翌年戦死した、ある法学部の戦友はこう語っている。
「一体私は陛下のために銃をとるのだろうか。あるいは祖国のために、又は肉親のために、つねに私の故郷であった日本の自然のために、銃をとるのであろうか。だがいまの私には、これらのために自己の死を賭するという事が解決されないのだ」と。
 この心の解決の問題が当時の学生たちを最も苦しめていた。この解決を求めて私たちは学び、もだえたのである。

 学徒出陣壮行会が行われる数日前、私は東大文学部の階段教室で、平泉澄教授の日本思想史の最終講義を聞いた。そのとき平泉澄が教壇で短刀を抜き放って、「国をおもひ眠られぬ夜の霜の色 ともしび寄せて見る剣(ツルギ)かな」と誦じ、終わって「しばらくお別れです」「いや永遠にお別れです」といって出てゆかれたのには、驚き、あきれた。私はまるで芝居を見ているような錯覚におちいっていた。そのあと、学生たちが何の反応も示さず、静かに何事もなかったかのように退席していったことが、いっそうの”演出”の印象をあざやかに記憶させてくれたのであろう。
 二十五年ぶりで、偶然、私はその同じ教壇に立ってみて、無期限スト中のだれもいない教室の空席を見回したとき、そこかしこの席にいたはずの帰らなかった友人たちの顔を想い浮かべて、感慨のあふれるのをおさえがたかった。あのときいっしょに入学した文学部四百余名の学友の約半数は、ついに卒業することができなかったのである。
 出征前にあわただしく結婚して、レイテ沖で死んだA君の未亡人は、いま四十代のなかばを越えて、どこでどのように生きているのだろう。ある学友は、海兵団への入団前夜、「僕と貴女とのことは神をのぞいて誰も知らないでしょう。それでよかった。それでこんなにも美しく悲しい想い出となることができたのです。……さようなら僕のローズ・マリー、ああもう永遠に逢うことはできないでしょう」と書き残している。

 若者は愛に飢えている。美にもろい。この特性を利用して、支配の意図を遂げようとする政治家は残酷である。それに力を貸す詩人や思想家も許しがたい。私はいまでも、あの時代をおおっていた一種名状しがたい悲痛な陶酔感といったもの、悲壮美といったものをありありと想い浮かべることができる。なにかといえば民族の危機を誇張し、民族の伝統や運命的な一体感を強調して、冷酷な殺し合いのための近代軍隊への入隊を”防人”の別れや、詩的な中世武士の”出陣”として幻覚させ、進んで若者を”死地におもむかしめた”人びとのことを想い浮かべる。
 
 その人びとはいまなお生きていて指導者の座にすわり、活発な発言をしているが、私はその人びとの罪は”万死に値する”と思う。非常の事態に国家が若者をどのようにあつかうか。どのように美的な演出が仕組まれるか、そして深く心情をまでとらえようとするかを、私たちは自己の体験を通して戦争を知らぬ世代に訴えたい。
 君たちのある者は、私たちより生き甲斐のない時代に生まれたと嘆いているかもしれない。しかし、その”生き甲斐”とは何か。いまでも私たちは、心の暗い海原で”死んでも死にきれない”霊の声を聞いているのだ。
「おれたちはなんのために死んだ? 大東亜の建設、日本の隆昌を信じて死んだ。その大東亜の建設が成らなかったらどうなるのだ。死んでも死にきれないではないか」(『きけわだつみのこえ』)
 大東亜の建設どころか、なんの罪もないアジアの民を数千万も殺して、平和の破壊者、虐殺者としての罪業を負った。「おれたちはなんとために死んだのだ!」
 その若い死霊の叫びが二十五年後の今日、もう全く君たちの魂に訴えるものをもたないとしたら、戦後の日本の歴史が虚妄であったのか、それとも君たちが成長しすぎてしまったのか。”繁栄”の中にある君たちのまえに私は疑問を投げかけたい。
資料3ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
                    Ⅱ 超国家主義者・平泉澄と「皇国史観」
三、初期著作物の検討

 ・・・
 誤解がないように一言すれば、筆者は平泉の優れた実証能力まで否定してしまおうというのではない。平泉の歴史学には幅広いしかも力強い実証主義的手法と、狭隘な神秘主義・精神主義とが初期の段階から同居している点を強調したいのである。平泉の後年の矯激な言動との関連で注目される初期の述作では、1925年2月に発表された「『文化人類学』を読む」がある。これは早大教授西村真次『文化人類学』に対する書評であるが、西村が史学と人類学との融合接近を説くのに対し、平泉は二種の学問の混同として斥け、次のようにいう。

 試みに一つの点をあげて史学が人類学と截然として相違するを明示しやう。例はエスキモーでもいい台湾の生蕃でもいい。彼等は人である。それ故に人類学の対象になり得る。(中略)しかしながら彼等は今日のところ未だ嘗て歴史をもたざる人類である。歴史に目ざめず、従って未だ歴史の光に浴せざる人類である。(中略)しかもそれは山河鳥獣が何かの機縁によって文化人の歴史にあらはるると全然同じ性質のものである。いかんとするも彼らは歴史なき人種であり、史学の主題となるを得ざるものである。

 このように平泉は人類・民族を二つに大別し、片方を”歴史なき人種”として差別し蔑視し、次のように極論するのである。

 かくの如き野蛮人には、過去もなく将来もない。今日に生き、刹那に生きる。明かに歴史はない。それは猶犬や雀に歴史がないのと同じであらう。

 この平泉の民族(人種)差別感は、中村吉治が1928年に卒論題目を平泉に相談したとき投げ返された「百姓に歴史がありますか」「豚に歴史がありますか」なる暴論と同じ根をもつものであろう。北山茂夫が1934年、平泉の自宅において「百姓が何百万おろうが、そんなものは研究の対象にはならない」と申し渡されたのも同様である。平泉の根深い大衆蔑視、人種差別は一貫しているといえよう。
 ・・・
資料4ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
                    第五章 本土決戦と松代大本営

 学徒出陣と教室風景
昭和十七年六月のミッドウェー海戦、十八年二月のガダルカナル撤退はいずれも惨憺の一語に尽きよう。ヨーロッパでもこの二月には、スターリングラードの独軍が殲滅され、枢軸側の敗勢は覆うべくもない。こうした背景のもとで実施されたのが昭和十八年十二月二日の学生、生徒の徴兵猶予停止の緊急勅令だった。文化系学生の一斉入営のことで、世にいう「学徒出陣」である。およそ十三万人の学徒兵が陸海軍に送り込まれた。
 ところで、この「学徒出陣」に関連した色川大吉氏の文章が問題にされている。その文章は、先に私も氏の『歴史家の嘘と夢』から引用しているが、同趣旨なので、ここでは氏の『ある昭和史』から引用することとする。

 十一月の送別講義のときであったと思う。文学部長の今井登志喜教授(西洋史)が「前途ある若き諸君を、今痛恨の思いをもって戦場に送る。今回の政府の措置は、まさに千載の痛恨事とせねばならぬ。願わくは諸君、命を大切に、生きてふたたびこの教室に会せんことを」と涙とともに訴えられた。また、同じ文学部の平泉澄教授(国史)は、教壇で短刀を抜きはなち、「国を想ひ眠られぬ夜の霜の色、ともしび寄せて見る剣かな」と誦し、淡々たる調子で「お別れです、永遠にお別れです」とつぶやいて去った。(色川大吉『ある昭和史』)
 ・・・
次に問題としたのは平泉教授の態度だが、今井教授にくらべていかにも冷淡な態度を暗示しており、それが平泉澄という人間像に不信感をいだかせるものだと非難しているのである。
 そこで、教室における平泉教授の生態を、色川氏の別の文章からも取上げて見よう。

 平泉教授は、日に十数回も手を洗う潔癖家で(話によると手先でミソギをしているつもりなのだそうだ)、痩身のひどく神経質そうな、冷たい感じをあたえる人間だった。教室に懐剣をもってやってきて、北畠親房だとか尊壌派の志士などの話ばかりして(いま思えば内容のない、まことにいいかげんな講義だった)、中途でキラリと抜いてみせ、「国を想いねられぬ夜の霜の色 ともしび寄せて見る剣かな」などと誦してみせたりした。
 「ホホウ、コレガトーキョー大学ノコーギトイウモノカ」と頬杖などついて感心していると、「無礼者!師に対してなんたる態度」と、チョークの箱が飛んでくる。
 ある演習(今のゼミ)の日のこと。「古事記を読んでどう思うか」と聞かれたから、「面白いと思います」と答えたところ、「なに!古事記を読んで面白いとは何事です・・・・・古事記は畏れ多くも文武天皇のおんみことのりとして・・・・」と怒られる。
 私たち二、三の学生は、「退席せよ」といわれるまでもなく、するどい沈黙の中を、ゆっくりとドアをあけて出ていった。(色川大吉『明治の精神』)

 かなり長い引用になったが、教授の人柄や教室の雰囲気がリアルに描かれていると思われるからである。
 そこでも見られるように、平泉教授の言動に暖かいものがあるとは思えない。ことに引っかかるのは『古事記』に対する接し方で、「面白いとは何事です」という一喝である。近代思想の洗礼を受け、知識欲に燃える青年学徒にとって、「面白い」とは言い得て妙である。「ご名答!」と言いたいところである。平泉教授の言葉として文武天皇とあるが、天武天皇の誤りだろう。また「おんみことのりとして」の後には「勅撰された古典」と続くのだろうが、学者としての硬直ぶりには呆れるほかない。

 戦時下とはいえ、その学問的レベルの低俗さに、呆れるほかない。『古事記』こそは、宇宙開闢から推古朝までの、まさに古代の物語りなのである。色川氏の取り上げた教室風景にも優って、それが「面白い」のは確かである。

 教室風景をもう一つ紹介するが、林勉という学徒のばあいである。

 忘れられない平泉教授の演習。「古事記はおもしろい」と答え、叱られて出て行った者もあった。「大日本史の三大特筆は?」と尋ねられた。第一南朝正統、第二に神功を除き弘文を入れたことをいっしょにした。第三に歴史を神武から始めた科学性、といったら、一喝された。次の時間から出なかった。戦後もらった成績表ではこれだけ「丙」だった。複雑な感情だった。(東大十八史会編『学徒出陣の記録』)
 「科学性」がお嫌いなところ、平泉教授の面目躍如たるものがある。これでは心ある学徒の信頼をつなぐことは難しかろう。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

”http://hide20.web.fc2.com” に それぞれの記事にリンクさせた、投稿記事一覧表があります。青字が書名や抜粋部分です。ところどころ空行を挿入しています。漢数字はその一部を算用数字に 変更しています。記号の一部を変更しています。「・・・」は段落の省略、「…」は文の省略を示しています。(HAYASHI SYUNREI) (アクセスカウンター0から再スタート:503801) twitter → https://twitter.com/HAYASHISYUNREI

 

ジャンル:
ウェブログ
コメント   この記事についてブログを書く
この記事をはてなブックマークに追加
« 悲劇縦走 平泉澄 NO2 | トップ | 「国体の本義」 文部省1937年... »
最近の画像もっと見る

コメントを投稿


コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

数字4桁を入力し、投稿ボタンを押してください。

あわせて読む

トラックバック

この記事のトラックバック  Ping-URL