真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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朝鮮戦争細菌戦 国際科学委員会報告書

2008年07月15日 | 国際・政治
 朝鮮戦争で「米軍が細菌戦を展開している」という中国や朝鮮の抗議を受け、調査団を編成し調査に乗り出したのは国際民主法律家協会だけではなかった。科学者も調査団を送り科学的見地からの厳密な調査を実施した後、結論を出したという。そして、1952年8月31日その結論を発表し、北京で記者会見も行ったが、極めて慎重な手続きを踏んで実施された調査の結論は、正当に評価をされることなく、「共産主義者の宣伝」として、ほとんど無視されることとなった。世界的に有名なノーベル賞科学者ジョリオ・キューリ博士やオーストラリア政府の閣僚ジョン・W・バートンなどが、その正しさを公表しても状況はあまり変わらなかったようである。調査団の一員であったケンブリッジ大学のジョセフ・ニーダム博士がイギリスに帰国した際も、わずかに取り上げられる程度で、その調査内容はあまり問題にはされなかったというのである。下記は、『アメリカ軍の細菌戦争』と題された国際科学委員会の調査報告書からの一部抜粋である。「資料【細菌戦】」日韓関係を記録する会(晩聲社)
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            Ⅲ 『アメリカ軍の細菌戦争』 
                            国際科学委員会1952年9月15日

もくじ
 まえがき………………………………………………………………(2)
 委員会の組織と活動………………………………………………(12)
 文書の考証…………………………………………………………(27)
 第2次世界大戦中の日本軍細菌戦との関連……………………(30)
 委員会の採用した事件分析の方法………………………………(34)
 プラーグ文書の昆虫学的資料……………………………………(37)
 ばらまかれた昆虫についての医学的注釈………………………(45)
 植物病理学的資料…………………………………………………(53)
 朝鮮の事件(ペスト)………………………………………………(57)
 甘南事件(ペスト)…………………………………………………(63)
 寛旬事件(炭疽病)…………………………………………………(68)
 遼東と遼西の事件(呼吸器炭疽病)………………………………(71)
 大同事件(コレラ)…………………………………………………(76)
 容器または「爆弾」の型……………………………………………(80)
 捕虜諜報員の証言 ………………………………………………(97)
 捕虜飛行士の証言………………………………………………(100)
 新中国の衛生……………………………………………………(109)
 概観………………………………………………………………(113)
 結論………………………………………………………………(126)

付録

 46件の付録の表………………………………………………(131)
 アメリカ帝国主義はどうして細菌戦を始めたかの真相
   (ケニス・L・・イノック中尉の告白)…………………………(136)
 どうしてわたしはアメリカのウォール街がやりはじめた非
 人道的な細菌戦争に参加させられたか)
           (ジョン・クイン中尉の告白)…………………(147)
 新中国の公共保健衛生運動についての覚書…………………(171)
 中国のキリスト教会と細菌戦
 (ヒューレット・ジョンソン博士…………………………………(187)
 アメリカ軍の残虐行為(国際婦人調査団報告)………………(201)
 
 訳者あとがき……………………………………………………(268)



 まえがき

 1952年のはじめ頃から、朝鮮と中国の領土で、すこぶる異常な性質の現象がおこっているので、これらの国の人民と政府は、じぶんたちが細菌戦争の攻撃目標になっているのだ、と主張するようになった。
 世界各国の人民は、こういう戦争のやり方を否認する意志、いや、それどころか憎悪する意志を、ずっと前から明らかにしてきていただけに、そういう事態がどんなに重大なものであるかがよくわかった。そういうわけで、国際科学委員会をつくって、現地の証拠をしらべるべきであるといういことになった。
 委員会のメンバーは、じぶんたちの責任がどんなに重いかということを自覚していたので、先入観から免れるためにあらゆる努力をはらい、じぶんたちの知っているかぎり、一番厳密な科学的原則にしたがって、その調査をおこなった。いまここに、その活動のくわしい内容と、委員会のたどりついた結論とを、報告書として読書のまえに提出する。この報告書をつくる仕事には、8つの国語をつかう人たちが参加した。だから、もしそれが優雅さにかけていたとしても、あらゆる大陸の人びとにとって、明快で、あいまいなところがなく、わかりやすくせねばならなかったためであることを、読者の方は理解してくださることと思う。


 委員会の組織と活動

 朝鮮民主主義人民協共和国の外相は1952年2月22日、また中華人民共和国外相は3月8日、アメリカ側が細菌戦をやっていることに公然と抗議した。2月25日にはには、中華人民世界平和擁護委員会主席が、そのことについて世界平和評議会にアッピールをよせた。
 3月29日、郭沫若博士は、オスロでひらかれた世界平和評議会の執行局会議の席上で、同伴してきた中国代表たちの援助をうけ、また朝鮮代表李箕永氏の立会いのもとで、執行局のメンバーやその他の国民代表に、問題となっている現象について、たくさんの情報をつたえた。郭博士の言明によると、国際赤十字委員会は、政治的影響力をうけることを十分に免れていないので、偏見のない現地調査をする能力がないと、中国と(北)朝鮮の政府は考えているとのことであった。こういう反対論はのちになって、国連の専門的機関である世界保健機構にもむけられた。しかし、朝中両国政府は、公平で独立的な科学者の国際的団体を中国にまねき、両国政府の主張の基礎になっている事実を調査させることを、心から希望していた。それに参加する科学者たちは、平和をまもるために活動している組織に関係があろうとなかろうとかまわないが、しかしその人たちは当然人道主義的事業に貢献している著名な人物でなければならないというのであった。そして、この団体の使命は、両国政府の主張が正しいか、正しくないかを判定することであった。徹底的な討論をつくしたのち、執行局は、そういう国際科学委員会の形成を要求する決議を満場一致で採択した

 そこで、オスロー会議がすむとすぐ、この問題に関係のある分野でできるだけ有名な、ヨーロッパと南アメリカとインドのひじょうにたくさんの科学者たちのなかから、この団体に参加する承諾をえるように努力をはらった。仮承諾の通知がまとまると、すぐ中国科学院近代物理学研究所所長であり中国平和委員会の一メンバーであり、オスロー会議後科学委員会を組織するためヨーロッパにのこっていた銭三強博士は、中国科学院と中国平和委員会の主席郭沫若の名前で招請状をはっした。この委員会にとって最低限どうしても必要なメンバーの数が、六月中旬までにそろったので、一行はただちに中国にむかって出発した。
 国際科学委員会は、6月21日と28日に北京につき、中国科学院と中国平和委員会の代表からあたたかい歓迎をうけた。

 そのメンバーはつぎのようであった。
  アンドレア・アンドレーン博士(スウェーデン)=ストックホルム市立病院管理局
      中央臨床研究室主任。
  ジャン・マルテル氏(フランス)=農学士、ギリニヨン国立農業大学動物生理学
      研究室主任 前アンラ畜産技師。イタリアとスペインの牧畜学会通信員。
  ジョセフ・ニーダム博士(イギリス)=王立協会員。ケンブリッジ大学生化学サ 
      ー・ウィリアム・ダン講師。元重慶駐在イギリス大使館参事官(科学)前 
      ユネスコ自然科学部長。
  オリヴィエロ・オリヴォ博士(イタリア)=ボロニャ大学部人体解剖学教授。前ト
      リノ大学一般生物学講師。
  サムエル・B・ペッソア博士(ブラジル)サン・ポーロ大学寄生物学教授。前サン
      ・ポーロ州公衆保健局長。レシフェバライバ両大学医学部名誉教授
  N・N・ジューコフ=ヴェレジニコフ博士(ソ連)、ソ連医学学士院の細菌学教授
      兼副院長、細菌戦参加のため起訴された元日本軍軍人のハバロフスク
      裁判の主任医学鑑定人。

  (途中参加者や接待委員会のメンバーは略)
 以下略

 文書の考証

 委員会のメンバーがはじめてあつまった時に、かれらに利用できた文書は、朝鮮と中国の政府が発表し、プラーグの世界平和評議会書記局から、また各国にある中国当局の種種の通信機関の手で、西欧に流布された文書だけであった。
 朝鮮保健省の第1回報告(SIA/1)は、1952年1月と2月の事件を扱っているだけであった。そのなかにある資料は、国際民主法律家協会調査団の報告書のなかでもう一度吟味された。この報告書には、朝鮮のペスト出現についての資料、それに当然のことながら、国際調査団のメンバーのおこなった目撃証人の調査の結果がつけくわえてある。
 いちばんくわしい報告書は、中国の「アメリカ帝国主義細菌戦犯罪調査団」の二つのほうこくであった。
(以下略)

 第2次世界大戦中の日本軍細菌戦との関連

 東アジアで細菌戦がおこなわれているとの主張を調査するときには、日本側が第2次世界大戦中に中国にたいしてたしかに細菌戦をやったという事実をけっして無視してはならない。委員会としては、わりとよくこの問題についての知識をもっていた。というのは、委員会のメンバーの一人がハバロフスク裁判の鑑定主任であったし、もう一人は細菌戦そのものが中国におこっていた当時、中国で公式の職務についていたごくわずかな西欧科学者の一人だったからだ。1944年、この科学者は、自分の任務の一つとして本国政府につぎのように報告したのである。
──はじめのうちこそ大きな疑惑を感じていたが、いくつかの地方で日本軍がペストに感染した蚤をばらまいたし、またばらまいていることを、中国軍医署のあつめた資料はあきらかに示しているようにおもわれる、と。それで、これらのメンバーは、ふつうなら腺ペストなど発生しないけれども、そこの条件がその蔓延にすこぶる有利な土地に、腺ペストが発生した例を、かなりたくさんあげることができた。周知のように、腺ペストというものは、ふつうの状態のもとではある種のはっきりと限られた地方(たとえば福建省)にだけ発生するがそこ以外にはひろまらないのである。

(以下略)

 委員会の採用した事件分析の方法(略)

 プラーグ文書の昆虫学的資料(略)

 ばらまかれた昆虫についての医学的注釈(略)

 植物病理学的資料(略)

 朝鮮の事件(ペスト) 
  先にのべたように、日本が第2次世界大戦中にやったペストその他の細菌戦の古典的方法は、容器または噴撒の方法によって、ペスト菌に感染している大量の蚤をばらまくことであった。1952年のはじめから、北朝鮮のあちこちに、ぽつぽつとペストの流行の中心点がたくさんあらわれた。その際いつでもそれといっしょにたくさんの蚤がとつぜんああらわれたし、そのまえにはかならずアメリカ機がそこ
を通過していた。2月11日の事件をはじめ、そういう事件が7つほどSIA/1に報告されているが、そのうち6件ではペスト菌が蚤のなかに見つけだされたことが証明された。文書SIA/4は、2月18日安州付近に蚤がばらまかれたことをつけ加えている。蚤は細菌学的ににみて、ペスト菌をふくんでいることが明らかになったが、その撒布後の20日その地区の発南里にペストが発生した。村の人口六百のう
ちの50人がペストニかかり、36人が死んだ。

 委員会が受けとることのできた報告によると、過去5世紀のあいだ朝鮮でペストがおこったことはなかった。ペストが流行した一番近い中心地は、中国東北(満州)から遠く300マイルはなれた土地か、それとも福建の南方1千マイルのかなたの土地であった。そのうえ、2月という月は、この土地の気候からみて、人間のペストがはやるにはふつう3ヶ月以上はやすぎる。とくに、またその出現した蚤は、自
然状態でペスト菌を運ぶ鼠蚤ではなく、人蚤(plex irritans)であった。そして、この蚤は、われわれが中国側の同定(付録12)その他の指摘(付録19)から知っているように、第2次世界大戦中日本軍が細菌戦につかったものであった
。……
(以下略)   

 甘南事件(ペスト)(略)

 寛旬事件(炭疽病)(略)

 遼東と遼西の事件(呼吸炭疽病器)(略)

 大同事件(コレラ)(略)

 容器または「爆弾」の型(略)

 捕虜諜報員の証言
  朝鮮当局は委員会にたいして、戦争がはじまって以来諜報員が北朝鮮におくりこまれていて、細菌戦についての疫学的情報をあつめて送るというはっきりした目的をもって、仕事をしていることを知らせてくれた。これらの諜報員の多くは捕虜になったが、かれらの自白はアメリカ側の諜報組織とこれらの諜報員に命令された活動に大きな光を投げかけた。もはやSIA/17の中にある諜報員、たとえば一人の中国人と一人の朝鮮人とについてのくわしい情報が公表されている。

  委員会のメンバーには、これらの諜報員の一人とながい時間会見する機会が平壌であった。(付録36)この青年は学校を中途でやめ 、1945年南朝鮮政府の「青年団」に参加したが、アメリカ軍がついに撤退するとき、それについていった。かれが北朝鮮に反対したおもな動機は、あきらかに政治的信念よりも、むしろちっぽけな個人的利益であった。
  ほかに生活する道もなかったので、この証人はアメリカ軍の補助情報部隊に参加した。かれは1951年12月から1952年3月までのあいだにソウルの「K・L・O」という組織でうけた政治上、軍事上、衛生上の訓練について説明した。(付録36)。その組織で、かれは、ほしいとおもう情報を手に入れる技術を教えられた。細菌戦がはじまったのは、まさにこの期間であった。かれは2月のはじめ頃、たくさんの予防注射をされたが、それがどんな性質のものであるかは知らされなかった。かれは出発の直前まで、外国軍の将校とはぜんぜん接触がなかったが、いよいよ出発というとき、アメリカ軍の少佐が通訳を通じてかれに指令をあたえた。その指令のなかでは、かれの活動すべき特別の地域が指定され、アメリカ軍が知りたいとおもう病気の精密な細目があたえられた(チフス、ペスト、コレラ、脳炎、赤痢、天然痘)。この証人は、北朝鮮の統計資料の編集制度をおしえられ、できれば保健省その他の政府機関と接触をしてそれを手にいれ、必要とあれば、それを盗みだせとの命令をうけた。またかれは、食べ物にとくに注意し、昆虫が伝染病をひろめた場所で夜をすごさず、わかした水以外はのむなといわれた。「北朝鮮は病気でいっぱいだ」と、かれはきかされた。「しかし、大丈夫おまえの注射がおまえを守る
だろう」といわれた。

  そこで、証人は3月29日北朝鮮にもぐりこんで、5月20日につかまるまで、つれていっていた無線電信技師といっしょに活動した。質問にこたえるとき、かれはむしろ口数がすくなかったが、それは協力者をかばうためのもののようであった。かれは、北朝鮮の保健要員との接触には、ほんのわずかしか成功しなかったし、アメリカ軍司令部には、ほとんど、いやぜんぜん情報をおくることができなかったといった。
  この証人は、北朝鮮に不法入国するまえには、細菌戦をやっていることについて、何の示唆もうけていなかったことを明らかにした。かれはただ、北朝鮮にはたくさんの伝染病があり、南朝鮮の軍隊は「いちばん近代的な科学兵器をつかって、いい成績をあげている」ときいていただけであった。かれが細菌戦について知ったのは、警察の告示を読んだのがはじめてであった。
  委員会としては、この証人の態度と、その使命やうけた指令についてのかれの証言とには真実性があること、この証言をうるためには、肉体的にも精神的にも、すこしの圧迫もくわえる必要はなかったということで意見が一致した。
 

 捕虜飛行士の証言

  1952年1月13日、アメリカ空軍の、B-26爆撃機一機が、朝鮮の安州上空で打ちおとされた。5月5日までに、その航空士K・L・イノック中尉と操縦士ジョン・クイン中尉は、じぶんらが細菌戦に参加したことをみとめたすこぶる長い供述をして、それが北京から世界に発表された。先にのべたように、これらの文書はSIA/14と15にそれぞれおさめてあり、またプラーグで発行された小冊子のなかにも、その原稿の石版刷りといっしょにおさめてある。そのうちの細菌戦に関係のある部分はこの報告書の付録にもいれておいた。
……(以下略)

 概観(略)

 結論

 1952年のはじめいらい、朝鮮と中国にひどく異常な性質の現象がおこっているので、これらの国の人民と政府は、アメリカ軍が細菌戦をやっているのだと主張するようになった。細菌戦に関連のある事実をしらべるためにつくられた国際科学委員会は、現地に2ヶ月以上も滞在し、いまその活動をおわるところまできた。
 委員会の面前には、多くの事実があらわれたが、そのうちいくつかは首尾一貫した型をしめしており、これらの型は、高い論理性をもっていることがあきらかになった。そこで委員会は、その努力をとくにそれらの型の研究に集中した。委員会は、つぎのうような結論にたどりついた。

 朝鮮と中国の人民は、たしかに細菌兵器の攻撃目標になっている。この兵器をつかっているのはアメリカ軍部隊であり、その目的に応じてじつに種々さまざまのちがった方法をつかっているが、そのうちのいくつかは、第2次世界大戦中日本軍のつかった方法を改善したものであると思われる。
 委員会は、論理の階段を、一歩一歩のぼって、この結論にたどりついた。委員会としては、いやいやながらそうなったのである。 というのは、委員会のメンバーは、こんな非人間的な技術を、各国人民の面前で、じっさいにつかうことができるなどとは、信じたくなかったからである。
 いまこそ、すべての人民は、その努力を倍して、世界を戦争から守り、科学上の発見が人類の破滅のためにつかわれることを食いとめねばならない。


 付録(ここではすべて省略、ただし、37は捕虜飛行士の証言としてリンクさせた)

     http://www15.ocn.ne.jp/~hide20/ に投稿記事一覧表があります。
一部漢数字をアラビア数字に換えたり、読点を省略または追加したりしています。
 

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