真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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悲劇縦走 平泉澄

2017年07月12日 | 国際・政治

  平泉澄は、戦後「悲劇縦走」の自序に、

開戦の昭和年、私はかぞへ年四十七歳、終戦の昭和二十年、私は五十一歳、年齢に於いて既に、国家に対して、最も重き責任を荷ふ者の一人であった。無論私は、本来学者の身であって、政治、外交、軍事の方面に、何等の地位も権限ももたず、従って責任も軽い筈であるが、不思議なる運命は、大学教授の私をして、その学問を通じて、政界にも軍部にも、深甚なる関係を結ばしめ、重大なる影響を与へしめた。
と書いています。でも私は、平泉澄は単なる学者ではなく、皇国日本の戦争遂行に欠かせないアジテーターであったがために、”政界にも軍部にも、深甚なる関係を結ばしめ、重大なる影響を与えしめた”のだと思います。だから、「皇国史観の教祖」と言われるのだと思います。
 日本の降伏を阻止しようと企図した「宮城事件」の首謀者の一人、陸軍少佐・畑中健二が、平泉澄の直弟子であることなどもそうしたことを裏付けているのではないかと思います。

 したがって、平泉澄の責任は決して軽くないと言わざるを得ません。
 平泉澄は、自身の国粋主義的な神国思想によって、深くかつ広く国民を思想的に引っ張り、異論や反論を許さない状況を作り出した中心的人物であり、また一方では、「一途に君を仰ぎまつりかしこみまつる至純の忠誠」を最高絶対の道徳として、 軍人の死も厭わない勇猛果敢な戦闘行為を精神的に支え、戦争を後押しする重要な役割を担ったのだろうと思います。

 見逃すことができないのは、その平泉澄が、下記の「内外の誹謗」の文章にあるように、戦後も、日本は「崇高なる理想をいだいて起ち、正義の旗をかざして進んだのであります」などと、日本の戦争を正当化していることです。
 そして、戦前・戦中には遠く及ばないでしょうが、戦後も執筆活動や講演活動を続け、「日本を守る国民会議」の結成に発起人として関わるなどしているのです。政権中枢に、その考え方を受け継いでいる人たちが、かなりいるのではないかと危惧します。

 日本人だけでも三百万人を超える犠牲者を出した先の大戦における責任を、自ら「無論私は、本来学者の身であって、政治、外交、軍事の方面に、何等の地位も権限ももたず、従って責任も軽い筈である」などと言えるのは、「神国日本」の思想家・平泉澄にとっては、赤紙で召集された日本兵や一般国民の死が、あまり問題ではないからだろうと考えざるを得ません。下記のような発言もあるのです。

 …この平泉の民族(人種)差別感は、中村吉治が1928年に卒論題目を平泉に相談したとき投げ返された「百姓に歴史がありますか」「豚に歴史がありますか」なる暴論と同じ根をもつものであろう。北山茂夫が1934年、平泉の自宅において「百姓が何百万おろうが、そんなものは研究の対象にはならない」と申し渡されたのも同様である。…(「天皇と戦争と歴史家」今谷明-洋泉社より)


 また、平泉澄は、「重要なる文書も大抵失はれて、事実の究明、容易ではありませぬ」というのですが、文書が失われたのは、日本の政府や軍部が焼却処分を命じたからであることを意図的に無視しているように思います。敗戦当時、官房文書課事務官であった人が、『内務省の文書を全部焼くようにという命令がでまして、後になってどういう人にどういう迷惑がかかるか判らないから、選択なしに全部燃やせということで、内務省の裏庭で三日三晩、えんえんと夜空を焦がして燃やしました』と回想していることが、そのことを示していますし、文書の焼却は、機密文書が存在する様々な場所で行われ、多くの目撃証言があることを忘れてはならないと思います。

 大事な公文書が一年もたたずに廃棄されている事例が続出している安倍政権に対し、過去の反省はどこに行ったか、として2017年7月11日の朝日新聞天声人語に下記の文章がありました。
1945年にポツダム宣言を受諾した後、日本の軍人や役人たちには急ぐべき大仕事があった。公文書の焼却である。これから進駐してくる連合国軍に文書を押さえられては、戦争犯罪の追及に言い逃れができなくなる。火をつけてなきものにした…” 

 さらに、「一たび時代の埒を越えて現代に足を踏み入れら場合には、大抵は新聞雑誌の論調に引摺り込まれて、何等の見識も無き付和雷同の境涯に陥るのであります」というような主張も、とても受け入れ難いものです。体験に基づくものや証言をもとに考察された説得力のある史論がたくさんあると思います。

 下記に抜粋した「予期せざる友情」の中の、小学生との会話や小学校長との会話にも、何か不自然で、引っかかるものがあります。小学一年生の子どもが「君が代」を知らず「日本」という国を知らないと答えたのであれば、歴史学者であれば、普通、それが一般的状況であるのかどうを確認し、その背景を考察するのではないでしょうか。そして、そこから教訓を得ようとするのだと思います。でも、神国日本の来し方行く末を憂える平泉澄にとっては、事実の客観的把握や社会科学的な分析は無用なのかも知れません。
 また、小学校長が「道徳などは戦前の拘束だ、戦後の今は本能が是認せられてゐるのだ」などと平泉澄に反論したということも、引っかかります。特に、「戦後の今は本能が是認せられてゐるのだ」などという言い方をするとは思えないのです。小中学校における道徳教育の問題に関する指摘を、「本能の是認…」などと言って歪めているのではないかと想像します。道徳教育は、価値観の強制である「修身」復活の側面があるため、問題視されたのではないでしょうか。

 「教職適格の審査委員会」におけるやり取りにも疑問を感じます。審問官に問われて、「博士(平泉澄)は軍国主義でありませぬ。中正の道を説かれるのです。左右両翼を非として、常に正道を進むやうに教へられて来ました」答えたというのですが、「中正の道」とはなんでしょうか。平泉澄は戦時中、「中正の道」を主張していたでしょうか。東条英機の依頼を受けて、士官学校で講義を繰り返すようになり、それが縁で、平泉・東条の結び付きが強くなっていったといいますが、平泉澄は、軍人相手に、「中正の道」を語っていたのでしょうか。

 古事記の神話抜きには成立しない歴史を語る平泉澄とって、歴史というものは、神国日本の来し方行く末と関わる「父祖の辛苦と功業」を子孫に伝え、子孫もまたこの精神を継承して進むためのものなのでしょう、その文章は、戦後もなお「皇国史観の教祖」と言えるもののように、私には思えます。
 科学の進歩が著しい現在、「日神(ヒノカミ)ながく統(トウ)を伝へ給ふ神国(カミノクニ)」を史実とする歴史が、世界に通用するでしょうか。

 下記は、「悲劇縦走」平泉澄(皇學館大学出版部)から抜粋しました。
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                     一 内外の誹謗

 ・・・
然るに此処に一つの問題となりますのは、大東亜戦争であります。此の大東亜戦争は、昭和の御代に於ける最大最重の事件であります。戦争そのものは、足掛五年で終りましたが、その源流を尋ね、その後遺症を辿りますならば、昭和の御代全体を葢ひつくすでありませう。従ってそれは、昭和の御代を代表する大事件として、当然此の時代の性格を決定するに違ひありませぬ。それ故に若し此の大戦争が、他国において誹謗せられ我国に於いても戦後は他国よりの非難に同調して、或は譏り或は慚愧してゐますように、侵略の欲心を起し、交渉の最中に奇襲をかけたりして、つまり野心と暴挙から戦争となり、殆どん全世界の袋叩きに遭ったのであれば、それによって代表せられ、それによって性格づけられる昭和の時代は、罪悪の時代であり、凶暴の時代と云はれても仕方ありますまい。もし果してさうとすれば、此の大戦の結末は、悲劇といふにも価しないでありませう。悲劇といふのは、正しい者、美しい者が苦しむから、見る人の心をうち、涙を誘うのであって、若し邪悪なる者が叩きつけられるのであれば、それは悲劇ではありますまい。
 
 然るにまことは日本、崇高なる理想をいだいて起ち、正義の旗をかざして進んだのであります。そしてそれが、常に他国の謀略によって歪められ、妨げられて、進退二つながら困難になるに及んで、やむを得ず一條の血路を開かうとしたもの、それが真珠湾の攻撃であり、プリンス・オブ・ウェールズの撃沈であったのであります。惜しい哉、国土狭小にして物資少なく、交戦四年五年と延びては、力殆んど尽きましたものの、その目標、その趣意に於いては、公明正大、他の誹謗を許さないのであります。此の重大事実を明かにする事は、昭代の為に自他のいはれなき非難を排除して、上は今生天皇の御為に、下は二百数十万忠勇の士の英霊の為に、報謝する道でありませう。しかし戦敗れたる国の常として、肝腎の責任者は、近衛公・東条大将を始めとして、殆んど皆非業の最期を遂げられ、重要なる文書も大抵失はれて、事実の究明、容易ではありませぬ。

  若し支那の昔、漢のように、政府に史官が置かれてゐて、重要なる文書記録を閲覧し、之を史料として歴史の編纂に従事する事が許され、否、許される所か、その権利が与へられ、それを義務づけられて居り、そして其の地位に太史令司馬遷の如き、卓越せる大歴史家が存在したならば、国家最高の機密に接触し、最大の方策を理解して、栄光の朝も、悲涙の夕も、崇高なる日本の理想を、その独創独自性に於いて表現し得たでありませう。然るに我国に於いては、文書記録の整備保存に当る官吏はあるにしても、之を基礎として歴史を組立てる事は、要求せられて居らず、許されても居なかったのであります。

  一方には歴史家と呼ばれる学者が、大学、又は民間に、数多くあります。然し大抵は現代と懸隔せる遠い過去に没頭し、普通現代人の難読難解とする古文書記録を操作して、之に解釈を与へるを以て本領とし、その点に於いてはすばらしい専門家も見えるものの、一たび時代の埒を越えて現代に足を踏み入れた場合には、大抵は新聞雑誌の論調に引摺り込まれて、何等の見識も無き付和雷同の境涯に陥るのであります。
 ・・・以下略
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                    六 予期せざる友情
 ・・・
 その頃、私は驚くべき事を発見しました。山路を歩いてゐて、小学校一年生の子供二三人と道連れになりました。話のついでに、「君が代」を知ってゐるかと尋ねましたところ、「そんな歌知らぬ」と答へました。「日本」といふ国は知ってゐるだらうねと尋ねると、「日本?そんな国、聞いた事無い」といひます。「アメリカは?」と聞けば「アメリカ?聞いたことあるね。」
 その頃ある県へ旅行して教育者の集まりに接触した事があります。その時、私に抗論したのは、三四人の小学校長でありました。彼等は強く主張しました。「道徳などは戦前の拘束だ、戦後の今は本能が是認せられてゐるのだ」

 或る県に於いては、教職適格の審査委員会に、左の如き審問が行はれました。問、あなたは平泉博士に私淑してゐると聞いたが、訪ねて行った事がありますか。答、あります。問、終戦後も会ってゐますか。答、お会いしてゐます。問、博士は軍国主義だ、戦争中はそれも意味があるが、今はどう思ひますか。答、博士は軍国主義でありませぬ。中正の道を説かれるのです。左右両翼を非として、常に正道を進むやうに教へられて来ました。問、吉田松陰をどう思ひますか。答、あなたはどう思はれますか。委員曰く、尊皇攘夷論者だらう。答、いや尊皇開国論者です。さればこそ、ペルリの船に乗ってアメリカへ渡らうとされたのです。
 右の審問は、昭和二十二年二月の事でありましたが、その前後、私の著書は、光栄にも吉田松陰全集と共に、荒縄に縛られて、学校の縁の下へ投込まれてゐるといふ噂が、其処此処にありました。不思議な事には、私自身は当時まだ追放処分を受けて居らず、二十三年三月、中央公職適否審査委員会にて決定の上、二十二日の官報に掲載せられたのでありますが、その理由は「国史の眼目」を著した事よろしからずとして、文筆追放に処するといふのでありました。「国史の眼目」の中の、どの箇所がいけないのか、明記してありませぬが、支那事変の意義を説いて、是れは背後にある所の露・英・米との戦であって、真の相手は支那では無いとし、「寧ろ日本の使命はそれ等の力に対して支那を救ふといふ点にある」と説いたのが、連合軍の不快とする所であったのではないか、など云はれてゐました。
 かういう時勢でありますから、国体とか、大義とか、忠孝とか、いふ言葉は禁物になり、忠烈の英傑を祭る事はうしろめたく思はれていましたのに、珍しいのは伊知地に於ける畑将軍のお祭りでありました。畑時能(トキヨシ)の事蹟は太平記に見えてゐますが、南風競はず、北陸に於いては宮方の勢力衰へて賊軍猛威を逞(タク)ましくした時に、わずか二十人前後の兵を以て足利の大軍に対抗し、さんざんに之を悩ました勇将であって、是の人戦死してより後は、北国の官軍また振はなかったとあります。その最後の拠城が鷲ヶ獄であり、その麓にあるのが伊知地の村であります。村では古くより秦荘軍の墓を祭り、戦前六百年祭を挙行しました時には、参集二万人、村の草創以来初めての賑と謳うはれました。そのお祭、戦後になっても続けて行ふからと云って、村長自ら迎へにこられ、毎年十月二十五日、墓前祭に参列しました。村長、前村長、区長、村のお歴々みんな揃って、楽しいお祭りでありました。
 ・・・以下略

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