真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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『古事記』(神話)と教育勅語

2017年06月10日 | 国際・政治

 「今なぜ、日本の神話なのか こんな素晴らしいものとは知らなかった日本の神話」(原書房)の著者(出雲井晶)は、すでに取り上げたように、教育勅語について、

 ”無心になって「教育勅語」に対すれば”人倫の教え”これにまさるものはない。どんなに時代がうつりかわろうとも変わることのない、人間の道を指し示されたものであると共に、それがそのまま自国の国体とつながっているからすばらしい。

と絶賛しています。そして、 

 ”私は同世代の方々によびかけたい。老人大学や旅行で自分の楽しみを味わうのも結構である。だが、それだけでは生き甲斐はない。せっかく教えこまれ、知っている「教育勅語」を子や孫世代に伝えようではないか。そして共に高い魂の昇華を目ざして向上し、科学万能、唯物至上の阿修羅の世に終止符をうとうではないか。

 と呼びかけているのです。

 私は、こうした主張は『古事記』の上巻”神代”(「日本の神話」)を、「わが国の神典ともいうべき真理の書である」と受け止める歴史認識からきているのだろうと思います。

 先の大戦による様々な悲劇が、「日本の神話」に基づく「教育勅語」や「軍人勅諭」と無関係であったかように、
せっかく日本に生まれ、住んでいるのだから、「日本の神話」の心に回帰することが幸せにつながる道だと知るべきである。
などと主張することには、驚かざるを得ません。
 そして、
皇室のご先祖は天地の創り主天之御中主神が人格神としてあらわれられた天照大神で、皇統は絶えることなく続いている。また、日本人みんなの祖先もたどっていけば天照大神にいきつく。
などと、『古事記』にしたがって「神話」と「歴史的事実」を連続させて受け止める歴史認識は、戦前・戦中の軍部や政権の歴史認識と同じではないかと思います。そうした歴史認識が、思想の自由はもちろん、信教の自由や政教分離の原則を否定する体制を生みだし、治安当局による左翼思想家・自由主義者・宗教家その他関係組織や団体に対する過酷な弾圧・粛清事件をもたらしたことを忘れてはないと思います。

 また、『古事記』は、天武天皇が、”自分の皇位継承の正当性と自分に従った諸族の優位性を証明するために、自身に都合のよい史書の撰録を企てた”とする考え方なども、十分考慮されるべきだろうと思います。
 例えば、『古事記』には、伊波礼毗古命(イワレビコノミコト=神武天皇)が、登美能那賀須泥毗古(トミノナガスネビコ)と戦った話が出てきますが、それは”同母兄の五瀬命(イツセノミコト)と二人で、高千穂宮(タカチホノミヤ)にいらっしゃって、「どこへ行ったら、安らかに天下を治めることができようか。やはり、東の方へ行った方がよかろうと相談して、日向を発って…”というのですから、 登美能那賀須泥毗古の側から見れば、突然入り込んできた神武天皇の一団は「侵略軍」ともいえる一団だろうと思います。でも、『古事記』は神武天皇側の立場で書かれているので、そんなことは問題ではないのでしょう。『古事記』が、そうした自身に都合のよい史書の撰録や創作に基づくものであっても、何ら不思議はないと、私は思います。 さらに言えば、『古事記』は、天武天皇の関係者が、皇位継承の正当性や絶対性をより説得力のあるものにするために、意図的に神話と歴史的事実を連続させて創作したものではないかと私は思います。

 したがって、『古事記』は、あくまでも「神話」として理解すべきで、「わが国の神典」とか「真理の書」であるとか主張し、歴史的検証の枠外に置いて、書かれていることをそのまま何の疑問も持たずに受け入れるのはいかがなものかと思うのです。

 十数年前、神道政治連盟国会議員懇談会において、「日本の国、まさに天皇を中心としている神の国であるぞということを国民の皆さんにしっかりと承知して戴く、そのために我々(=神政連関係議員)が頑張って来た」という発言をして問題になった森喜朗元内閣総理大臣その他も、2010年の著者(出雲井晶)の葬儀に参列したということから、今なお、日本で要職にある多くの人たちが、著者(出雲井晶)と同じように、日本国憲法に反する戦前の歴史認識を継承しているのではないかと不安になります。

 下記は、「今なぜ、日本の神話なのか こんな素晴らしいものとは知らなかった日本の神話」出雲井晶(原書房)から、第二章の一部を抜粋したものです。
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                  第二章 「日本神話」は不滅の真理

『古事記』上巻神代上下=「日本神話」の誕生
 私たちの遠い祖先の古代人が、すばらしく冴えた感性で感じとり、想像力を縦横自在に駆使して知った大宇宙の理法! その大宇宙の理法にのっとって古代人が創作したわが国の国がらを、最後の語りべとして伝承していたのが稗田阿礼(ヒエダノアレ)であった。
 元明天皇が和銅四年九月十八日、太安万侶(オオノヤスマロ)にお命じになった。稗田阿礼が口伝えにしているものを文字で記して献上せよと。
 太安万侶は、天皇の仰せをかしこみ、稗田阿礼の伝承してきたものを書きとっていった。これが『古事記』で、上、中、下巻からなる日本最古の尊い文献である。和銅五年正月二十八日、完成させて天皇に献じたのだ。今から千二百八十四年まえ、西暦七百十二年のことである。
 
 この『古事記』上巻”神代”が「日本の神話」といわれるもので、わが国の神典ともいうべき真理の書である。素朴で簡潔な言葉でつづられているが、その一言一句に無限といえる豊かな真理が秘められている。まさに言霊(コトダマ)の宝庫である。
 「日本の神話」のすばらしさは、私たちの遠い祖先の偉大な古代人が、澄んだ感性で感じとった天地大宇宙の理法が記されていることである。それは壮大で永久不変の真理ある。時々刻々移りかわる現(ウツ)し世のことではない。
 三次元世界しか見ることの出来ない肉眼には視えない。が、これ以上確実な実在はない天地の創り主天之御中主神の高遠な理法が語られ、深く広い道理が秘められている。
天之御中主神の創造になる世界は、はるか想像を超える過去から尽きることのない未来へと壮大に続いていく。小さな人間智など、何億何兆結集しても及ばない大いなる力によって、時々刻々創造され、その作業は永遠に続くのだ。
 今現代の宇宙科学、地球物理学、心霊学、それらすべてを包みこんで深い道理が秘められている世界なのだ。
 
 私たちの祖先の古代人に対して最も驚嘆することは、この大宇宙の理法を自分の生まれ住んでいる日本国家の原点に、国家の理念にすることを忘れなかったことだ。だから、日本の国そのものが天地の理法にのっとり生まれた国として、天之御中主神の、御中を中心にして大和する国、大和の国家観がが語られている。
 ついで、皇室のご先祖は天地の創り主天之御中主神が人格神としてあらわれられた天照大神で、皇統は絶えることなく続いている。また、日本人みんなの祖先もたどっていけば天照大神にいきつく。
 このように日本の国とは、わが偉大な古代人の創作になる地球上にたった一つしかない最高の文化的創作なのである。

「日本の神話」は、今も生きている真理
 そして「日本の神話」は、過ぎ去った遠い過去だけの物語ではない。また、いつ来るともわからぬ未来だけの話ではない。
 今、現在生きている私たちすべてが、とうとうと流れ続く大宇宙の理法や摂理の中にいる。今、あなたや私がいる空間にも、あなたの中にも私の中にも天之御中主神はいます、ということが書かれているのだ。この、人間としての原点を、唯物万能、唯物一辺倒の中で暮らしている現代人は、物に晦(クラ)まされて見失ってしまっている。
 しかし私たちは、大いなる創り主の命から枝わかれした分け命であるという事実からは、逃れようにも逃れることは出来ない。しっかりこのことを踏まえて、大宇宙の理法の流れの中で生きる賢い智恵を現代人は取り戻さなければならない。
 この三次元世界だけしか見ることが出来ない目には見えないが、絶対の善意である、どこまでも明るい善いことばかりの真理の世界を教えてくれている「日本の神話」に回帰する。せっかく日本に生まれ、住んでいるのだから、「日本の神話」の心に回帰することが幸せにつながる道だと知るべきである。
 吉田松陰先生は、『古事記』の「神代の巻」つまり「日本の神話」は、「日本人すべての信仰の対象である」と教えた。この信仰とは、狭義の、どの宗教というようなものではない。
 日本の大地、大自然と共に生きる「日本の心」だと理解すればよい。日本国土の上に生をうけ、暮らしている同胞すべてに、私たちの遠い祖先が遺してくれたすばらしい教えを伝えたい。知れば皆が、底抜け明るくなる真理であるから。「あな面白、あな手伸し、あな清け」の世界であるからと、松陰先生は思われたに相違ない。
 この著書を通読され、先祖伝来の「日本の神話」の真理への回帰こそが、幸せに生きる秘訣だと会得されることを私も願わずにはおられない。

  人類は類人猿の進化とはパンドラの箱 
 そのためにはまず、唯物論で凝り固まった戦後の歴史教科書の概念を頭からすっかり捨てる。頭の中を一度からっぽにして「日本の神話」を読むことが大切だ。
 戦後の歴史教科書は、全部が全部ダーウィンの進化論から始まることは、前章の教科書の例でおわかりいただけたと思う。ここでもう一度『中学社会』(日本書籍)を読み返して、わが古来の思想と比べてみてただきたい。読んで気づかれたであろうが、ダーウィンの進化論とは、この現象界、タテ、ヨコ、厚みの三次元世界、この肉体の目で見る世界だけを基調にして物事を考えている。つまり唯物論者としてのダーウィンが、考古学の成果などから想像して創りだした「人類の始まりは類人猿から」の理論がダーウィンの進化論である。
 ローマ法王ヨハネ・パウロ二世は、法王庁科学アカデミーによせた書簡で、「ダーウィンの進化論は、カトリックの教えと矛盾しない」として進化論を認める見解を明らかにした。しかし、「肉体の進化論は認めるが、われわれの精神は神からもらったものであり、人間の精神は進化論とは関係ない」と留保をつけた(1996年10月24日ローマ発共同) という。当然のことであろう。

 唯物論者は、物・現象の表面をいまひとつ突き抜けて、その物事の本源を直視することが出来ない。物にばかり心が捉われて、それを超える想像が働かないのが、唯物論者である。
 物の上つらしか、木はただの樹木、石はどんな原子だ分子だ素粒子だ陽子だと、コンピューターではじいて分解したり統合したりして、物体はすべてを説明するだろう。
 しかしそれ以上の想像思考の範囲を出ることは出来ない。木が芽をだし葉をしげらせ花を咲かせる、目には見えないが確かに存在する大いなるものの存在は説明できない。
 肉眼で見ることが可能な三次元世界から飛び出せない、飛躍できないのが唯物論ではないだろうか。私たちの祖先の古代人たちが持っていた豊かな感性を失ってしまっているのが、唯物論一辺倒の現代人の姿なのだ。
 ギリシャ神話の中に出てくる人類最初の女性といわれるパンドラが、神の教えを守れずに開けた箱につまってた災い!この災いとは、創り主の存在を忘れた唯物論ではなかったろうか。

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