真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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通州事件 信夫清三郎の記述 NO1

2016年11月21日 | 国際・政治

 「聖断の歴史学」信夫清三郎(勁草書房)には、通州事件に至る当時の通州の状況や民衆の意識が(一)から(六)に分けて書かれています。そのなかで、私が見逃すことができないと思うのは、通州事件に関する論考のある研究者の文章で、あまり見にすることのないアヘンやヘロインなど、「麻薬」の製造販売および密輸入の問題が、事件に影響しているという指摘です。

中国民衆の「ぎりぎりの危機感、もはや自分の生存がうばわれるという危機感、そしてそのために最小抵抗線において祖国戦争のための統一戦線を結ばせる契機になったものは、この密輸と麻薬の事件であった」
というような記述があるのです。著者は、ヘロイン製造技師として働いた山内三郎や中国のエッセイスト林語堂などの文章を引いて麻薬の問題を考察した江口圭一氏や竹内好氏の記述をもとに、
 ”通州は、日本帝国主義頽廃現象が集中してあらわれた一点であった。中国民衆の抗日意識が通州という一点において燃えあがったのは、自然の結果であり、宋哲元の指示が抗日運動を通州において激化させたのは、必然の現象であった
と結論づけているのです。また
 ”通州事件は、日本の中国「毒化政策」にたいする中国民族の恐怖と抵抗を標示していた
とも表現しています。だとすれば、日本人居留民の家や日本人の旅館近水楼の掠奪に、保安隊員のみならず、市民も加わっていたということも頷けるのです。
 通州事件における、中国人の日本人虐殺の残虐性のみに注目するのではなく、そうした背景もふまえなければ、事件を客観的に認識することができないのではないかと思います。
 下記の文章は、すべて「聖断の歴史学」信夫清三郎(勁草書房)からの抜粋ですが、通州事件の真相を知るために、とても重要な文章だと思います。
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                        第一章 日中戦争
    6 通州事件(二)
 風見章は、新聞記者から代議士となり、やがて1937年に近衛内閣の官房長官となるが、1936年の夏、中国の視察旅行にでかけて上海や南京をおとずれた。上海で旧知の波多野乾一に会った彼は、視察の計画について相談した。波多野は外務省で中国共産党の調査を行っている中国研究の権威であり、たまたま出張して上海にきていたのであった。中国をよく知る波多野の助言は的確であった。波多野は「いまここで大評判になっている迷途的羔羊[迷える小羊]という映画劇がある、それを一つ見さえすれば、それでたくさんだ。中国の情勢というが、われわれが知らねばならぬとするところのものは、その劇にあますところなく、収められてある」といって風見を案内した。
 風見は、みての印象をつぎのようにしるした。
 「つれられていってみると、劇場は超満員であり、すでに10日以上もぶっとうしで上映されているのに、毎日このとおり、おすなおすなの盛況だとのことであった。映画は、侵略の爪を華北にのばそうとする日本が、いわゆる漢奸とむすんで、種々の陰謀をめぐらし、とりわけ、華北と満州との境界を利用する武力背景の密輸入によって、中国の民族工業を破壊し、それがため中国の労働者は職場をうしない、生活のみちをうばわれて、ひどい苦涯においこまれてしまうという筋がきであったように覚えている。とにかく中国人にして、ひとたびこの映画をみれば、だれでも、抗日のいきどおりに、むねをもやさずにいられまいと思われる筋のものであった。上映中、日本の手さきたる漢奸が出てくる場面になると、観衆ふんげきの気勢は、ものすごいうなりをたてて、場内を圧し、そのいきおいには、いきづまるおもいであった。もしも、ここに日本人ありたるとわかったなら、ただではすまされまいと、ひそかにおじけをふるわずには、いられなかったほどである。同行した日森虎雄氏のはなしによると、上海で上映のばあいには、日本に気がねして、日本の暴虐をうったえる場面が、ずいぶんカットしてあるのだとのことであった。」
 映画にでてくる「密輸人」は、民族工業を圧迫したものだけでなく、中国人の生活を精神と肉体の両面から破壊するものとしても猛威をふるっていた。その最たるものは、アヘンであった。

 近代史家江口圭一は、日本が戦争中に朝鮮、満州、内蒙古で広範にアヘンを生産し販売した事実を論証しながら、「占領地と植民地でこのように大量のアヘンを生産・販売・使用した戦争は史上ほかに例をみない。」と指摘し「日中戦争はまさに真の意味でアヘン戦争であった」と痛論し、それが中国を「毒化」した意味を次のように論断した。
 「日本のアヘン政策は国際条約と中国の国内法を犯し、中国の禁煙の努力を蹂躙したのである。日本側の唯一の名分は、中国に癮者〔中毒患者〕が存在しており、禁断の苦痛を取り除くためにはアヘンを提供してやらねばならないということであった。しかし癮者を治療しようという努力や施設は中国占領区はほとんど皆無に近く、満州国でもきわめて不十分であった。実際には、癮者のために必要であるということを口実にして、アヘンの吸煙を事実上公認し、野放しにして、アヘン禍を拡大し、中国を毒化したのである。

 重視されなければんらないのは、この毒化政策が出先の軍や機関のものではなく、また偶発的ないし一時的なものでもなくて、日本国家そのものによって組織的・系統的に遂行されたという事実である。日本のアヘン政策は、首相を総裁とし、外、蔵、陸、海相を副総裁とする興亜院およびその後身の大東亜省によって管掌され、立案され、指導され、国策として計画的に展開されたのである。それは日本国家によるもっとも大規模な戦争犯罪であり、非人道的行為であった。」

 山内三郎は、1929年から中国の青島でヘロイン製造の技師として働き、1933年から大連に南満州製薬株式会社を設立して医薬用エーテルの製造に名を借りてヘロインの製造を行ったが、自分の体験をもとにしるした著書『麻薬と戦争、日中戦争の秘密兵器』に冀東防共自治政府が所在する通州と麻薬について書いた。江口圭一が紹介する一節はつぎのようにしるしていた。

 「この 冀東地区こそ、満州、関東州から送り込まれるヘロインなどの密輸基地の観を呈し始めたのである。首都は通州に所在したが、この首都郊外ですら、日本軍特務機関の暗黙の了解のもとに、麻薬製造が公然と行われたのである。冀東地区から、ヘロインを中心とする種々の麻薬が、奔流のように北支那五省に流れ出していった。全満州、関東州は、冀東景気で沸き返った」

 シナ学者竹内好は、1949年に書いた論文『中国のレジスタンス、中国人の抗戦意識と日本人の道徳意識』において江口圭一もとりあげた中国のエッセイスト林語堂の『北京好日』の一節に注目した。
林語堂もまた通州と麻薬を

 「いわゆる<冀東反共>政権-日本の息がかかり、その尻押しで<非武装地帯>に成立したこの政権は、北京の東数マイルにある通州にまでその管轄をひろめた。不安と、迫りくる破局の意識が、人々の心に食い入った。華北は、中国でもなく、日本でもなかった。国民政府から独立してもいず、その完全な支配を受けてもいなかった。そしてその冀東偽政権は、日本と朝鮮の密輸入業者、麻薬販売人、浪人たちにとっては楽園だった。長城をすでに乗り越えた怒濤は、毒物と密輸品の無数の支流となって、北京はもとより、南は山東、西は山西の東南部まで、日本が<東亜新秩序>と呼んでいるものの前景気をもたらしながら殺到していた」

 竹内は「これは小説の筋の見取り図であるとともに、1935年から36年にかけての、中国民衆の危機感を現在的にあらわしている」と指摘し、「その焦点は、密輸と麻薬である」と強調し、中国民衆の「ぎりぎりの危機感、もはや自分の生存がうばわれるという危機感、そしてそのために最小抵抗線において祖国戦争のための統一戦線を結ばせる契機になったものは、この密輸と麻薬の事件であった」と総括し、そのような危機感を中国民衆にあたえた日本の戦争責任についてつぎのように論じた。

 「林語堂の小説の四十一章と四十二章は、ほとんど密輸と麻薬のことに費やされているが、それを読むと、日本人は本来的に道徳感覚に欠けていて、世界市民たる資格がない、という作者の判断を、日本人である私も否定できないような印象を受ける。……もしそれが事実なら、資本の後退性だけでは説明のつかぬことで、倫理感覚の欠如という民族の深い根本の罪悪意識に触れてくる。……一歩進めていえば、今度の戦争が帝国主義の侵略戦争であったというのも、ほんとうは思いあがった判断なので、じつは近代以前の掠奪戦争であったのではないか、少なくとも、帝国主義的に偽装された原始的掠奪という、二重性格的な、特殊な日本型ではないだろうか。」

 通州は、日本帝国主義の頽廃現象が集中してあらわれた一点であった。中国民衆の抗日意識が通州という一点において燃え上がったのは、自然の結果であり、宋哲元の指示が抗日運動を通州において激化させたのは、必然の現象であった。
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    7 通州事件(三) 
 通州に駐屯していた日本の特務機関(陸軍の諜報工作機関)は、1937年7月26日、日本軍の北京・天津地区にたいする攻撃が迫ったため、通州門外の兵営に駐屯していた中国第二十九軍の部隊にたいし、「貴部隊が停戦協定線上に駐屯せられる事は、在留邦人の保全と冀東の安寧に害がある」という理由で27日午前三時までに武装解除するとともに北京に向けて退去するよう要求した。
 しかし、第二十九軍はうごこうともしなかった。日本軍は、27日午前4時から攻撃を開始し、午前11時ごろまでに第二十九軍を掃蕩した。通州門外に中国軍隊はいなくなった。ところが、日本軍は、通州の中国軍隊兵舎のとなりに冀東防共自治政府保安隊の幹部訓練所があることをよく知らず、保安隊の隊員を第二十九軍の兵士と誤認して爆撃し、数名の保安隊員を死傷させた。特務機関長の細木繁中佐は、冀東防共自治政府の長官に陳謝し、犠牲者の家族に挨拶し賠償に誠意をつくした。北京特務機関補佐官として現地にいた寺西忠輔大尉は、日本軍が誠意をつくしたため、「保安隊員は心中の鬱憤を軽々に、表面立って爆発させることはしなかったのである」としるしたが、北平駐在大使館付武官補佐官として北平にいた今井武夫少佐は、保安隊員は「関東軍飛行隊から兵舎を誤爆されて憤激のあまりいよいよ抗日線の態度を明らかにした」と述べた。

 7月29日、保安隊は予定の行動に蜂起した。日本軍の守備隊は、北京南苑の攻撃に向かっていて通州の守備は手薄であった。まさか傀儡政権の保安隊が抗日の蜂起をするとは夢にもおもわず、逆に通州は安全だというので北京から戦火を避けて避難してくるものさえあった。日本軍は完全に虚をつかれた。留守をまもる守備隊の数は、寄せ集めて110名ばかりだった。保安隊の攻撃は、通州守備隊
と特務機関に集中した。守備隊長藤尾心一中尉と特務機関長細木繁中佐は戦死した。

 守備隊と特務機関のつぎには居留民が攻撃をうけた。居留民の家は一軒のこらず襲撃をうけ、掠奪と殺戮にあった。掠奪には保安隊員だけでなく市民も加わった。日本人の旅館近水楼の掠奪は徹底的であった。死体には鳥が群がった。性別のわからない死体もあり、新聞は「鬼畜の行為」とつたえた。陸軍省が調べた犠牲者の数は、8月5日現在で発見できたもの184名、男93名、女57名、性別不明34名であり、生き残って保護をうけたものの数は、134名、その内訳は、「内地人」77名と「半島人」(朝鮮人)57名であった。当時の支那駐屯軍司令官香月清司中将の『支那事変回想録摘記』が記録する犠牲者の数は、日本人104名と朝鮮人108名であり、朝鮮人の大多数は「アヘン密貿易者および醜業婦にして在住未登録なりしもの」であった。朝鮮人のアヘン密貿易者が多数いたことは、通州がアヘンをもってする中国毒化政策の重要な拠点であったことを示していた。通州事件は、日本の中国「毒化政策」にたいする中国民族の恐怖と抵抗を標示していた。戦史家児島襄は、「在留邦人385人のうち幼児12人をふくむ223人が殺され、そのうち34人は性別不明なまでに惨殺されていた」と指摘し、「生き残った者は、かろうじて教会に逃げこみ、あるいは例外的な中国人の好意でかくまわれ、中国服を着用して変装できた人々であった」としるした。7月30日、守備隊に増援部隊がくわわり、事件はおさまった
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    8 通州事件(四)
 通州事件は、飼い犬に手を噛まれたような事件であり、不幸な事件であるとともに不名誉な事件であった。松村透逸少佐は、陸軍省の新聞班に所属し、蘆溝橋事件が起こるとともに天津に出張してきていたが、通州事件の報に接した支那派遣軍司令部の狼狽ぶりをしるした-
 その報、一度天津に伝わるや、司令部は狼狽した。私は、幕僚の首脳者が集まっている席上に呼ばれて、<この事件は、新聞にでないようにしてくれ>との相談をうけた。
 「それは駄目だ。通州は北京に近く、各国人監視のなかに行われたこの残劇が、わからぬ筈はない。もう租界の無線にのって、世界中に拡まっていますョ」
 「君はわざわざ東京の新聞班から、やってきたんじゃないか。それ位の事が出来ないのか」
 「新聞班から来たから出来ないのだ。この事件をかくせなどと言われるなら、常識を疑わざるを得ない」
 あとは、売言葉に買言葉で激論となった。私は、まだ少佐だったし、相手は大、中佐の参謀連中だった。あまり馬鹿気たことを言うので、こちらも少々腹が立ち、配下の保安隊が叛乱したので、妙に責任逃れに汲々たる口吻であるのが癪にさわり、上官相手に激越な口調になったのかもしれない。激論の最中に、千葉の歩兵学校から着任されて間もなかった矢野参謀副長が、すっくと立上がって<よし議論はわかった。事ここに至っては、かくすなどと姑息なことは、やらない方がよかろう。発表するより仕方がないだろう。保安隊に対して天津軍の指導宜しきを得なかった事は、天子様に御託しなければならない>と言って、東の方を向いて御辞儀をされた。この発言と処作で、一座はしんとした。<では発表します>と言って、私が部屋をでようとすると、この発表を好ましく思っておらなかった橋本参謀長(秀信中佐)は「保安隊とせずに中国人部隊にしてくれ」との注文だった。勿論、中国人の部隊には違いなかったが、私は、ものわかりのよい橋本さんが、妙なことを心配するものだと思った。
 - かくして通州事件はあかるみに出たが、新聞は逆に「地獄絵巻」を書き立てて日本の読者を煽りたてた。

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