映画で楽しむ世界史

映画、演劇、オペラを題材に世界史を学ぶ、語ることが楽しくなりました

ダ・ヴィンチ・コードへの興味(1)<ジーザス・クライスト・スーパースター>

2006-05-29 19:10:21 | 講演資料レジメ

イエスは神か人か 先ずは映画の話。

昔イエスを題材に「ふざけた」映画があった。 1973年「ジーザス・クライスト・スーパースター」というミュージカル映画。イスラエルの砂漠の真ん中で現代の若者がイエス最後の7日間を歌とダンスで演じるのだが・・・なんとイエスはマグダマのマリアと恋をする、それに嫉妬するユダがイエスを裏切るという筋書き。

 また、1988年「最後の誘惑」という映画は、ノーベル賞作家ニコス・カザンザキスの原作によるもので・・・イエスは神の預言者としての役割を意識しつつも、一人の人間としての欲求に悩む、なんとマリアと愛を交わす。

 私はキリスト教と何の関係もないが、それでもこうした映画は「悪ふざけが過ぎる、ここまで神を冒涜して見世物の種にしていいのではないか」と憤りを感じたものだ。しかし年をとって、歴史や宗教のことも少し冷静に考えるようになると・・・そして今をときめく「ダ・ヴィンチ・コード」のことを知るに及ぶと、以上のような映画や劇も(特に西洋では)生まれうることがよく分かる。

初期キリスト教にとって、最大の問題はイエスは神か人かという問題。ローマ帝国内に浸透し布教の自由を認めてもらうためにも、万民の疑問に応えねばならない。そこで、絶対の神を仰ぎ預言者がのさばるユダヤ教や、多神教の人間臭い、有難味の薄い宗教との「違い」を出さねばならない。

そこで生きてきたのがギリシャ哲学の議論好き。アレキサンドリアのキリスト教に帰依した哲学者たちは・・・いろはカルタではないが「理屈と膏薬はどこにでもつく」とばかり、神と人間の関係をこね回し常人の頭では理解の難しい「三位一体説」を確立する。「父なる神と子なる神と聖霊なる神」とが各々3つの自存者であり、かつ1つの実体として完全に一致・交流する、あるいは3つの位格(ペルソナ)1つの本質などといわれても(岩波書店 キリスト教辞典)なんとも二の句が接げない。

 しかしローマンカソリックはこれでもって中世西洋世界を支配する。これと違う意見、例えばギリシャ語で知識を意味するグノーシスでもって、神的・超越的な本質と物質的・肉体的実体の二元論を唱えるグノーシス派は異端として封印される。

とすれば、異端とされて地下にもぐったものたちが、折にふれ反体制的な動きをするのはありうること。ダ・ヴィンチ・コードは、一言で言って、これが現代においてエンターテインメント性やコマーシャリズムが混じって復活したもの。それにしてもキリスト教は、よく三位一体説で世界を征しえたもの、ローマ教皇は本当に凄い存在だったと思いませんか。 (「映画で楽しむ世界史」第1章、4章、18章、19章)

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