◆谷口與鹿 頼山陽と弟子
時間が少し後戻りになるが、與鹿が伊丹郷町に到着するまでのあいだ、ここで頼山陽に触れておこう。
橋本香坡が梅花社・篠崎小竹門にはいったことは既述したが、師の小竹と、頼山陽は親友であった。
頼山陽はのち、京都で開塾するが、その最初の弟子になったのは、美濃出身の後藤松陰(一七九六−一八六四)であった。
松陰は、名を機、字は世張、通称は春蔵、または俊蔵。松陰また春草は号である。
頼山陽が九州旅行にも供をしたが、長崎で母が病気になった知らせを受け郷里に帰った。山陽は美濃にいる松陰に宛てて、激励や指導をしたりしたが、再度大坂に出、篠崎小竹の女婿にはいって大坂に住んだ。
山陽は大坂に出るごとに松陰の家を宿にした
山陽が晩年に著作の整理にかかったときには理想的な助手ともなった。
森田節斎は、松陰をして「才あり而うして気足らず、しかれどもその人はなはだ好し」
と評したのはきわめて的確である。
山陽死後、遺稿を公刊したり、塾の残務整理をしたり、若い弟子たちの指導にあたった。関西から西の漢詩人六名の詩をあつめた「摂西六家詩鈔」があるが、巻四には松陰の「松陰余事」が収められている。
おそらく、篠崎小竹の企画だろうといわれる「摂西六家詩鈔」では、篠崎小竹、広瀬淡窓、草場珮川、広瀬旭荘、虎山とともに、松陰に一巻が割り当てられている。
松陰はまた香坡と親しく、與鹿とも気があった。
山陽の死後伊丹へ遊びに行き、帰りは伊丹の人々に送られて猪名川を下った。
下る舟の中で吟行する。
「行ゆくに丸木橋の下にいたり、皆、首を縮めるを免れず。
岸勢合いまた開き、船頭左たちまち右」船中で酒を酌み交わし山陽を回想する。
「惜しむ、かの西帰の人、けいき、朝に手をわかち、いずこにか寒山を渡りて、この瓢酒を共にせざるを」
正月八日は、余の生辰なり。
という詩がある、四十一才の作。
山陽の手紙を整理していたら、十通の内九通は伊丹の酒の話である。今は幽明を異にしてしまったが、師の声がよみがえってくる。 山陽は死の病の床で、自選の詩集の出版を待ちわびていたが、ついに間に合わなかったが、この詩集の編纂には松陰があたった。
松陰の家は、大坂江戸堀の、かっての頼春水南軒の近くにあったという。
松陰と與鹿が合作した竹製の酒器がある。松陰は詩を、細工は與鹿である。
村瀬藤城(一七九〇−一八五二)
このひとも美濃のひと。頼山陽の弟子である。ただ、家業のため家を空けられなかったから私淑するにとどまった。松陰が紹介したという。
尾張藩領五十三ヶ村の総庄屋の職を勤め、美濃の地を離れることが出来なかった。
京都に滞在したとき山陽に会い、直ちに入門して指導を受けた。帰郷してからも手紙を京都に送って通信指導を受けたが、江戸へ出張した折りにも同じように佐藤一齋にも入門し通信教授を受けた。
佐藤一齋は岩村の藩士の出でのち江戸に出て開塾したひと、その著「言行四録」は有名である。
この山陽と、藤城の学問的対話は、後に後藤松陰が序文を書き、嘉永年間に「山陽藤城二家対策」として出版された。
藤城にはほかに「宋詩合璧」の著述がある。
天保三年、山陽は死の床で、江戸で幕府の郡代を相手の訴訟に奔走する藤城に宛てて書いた手紙は有名で、抄述すると、「当時の社会体制内部の矛盾について、その腐敗を見抜く現実主義。学問を実践に移して、その態勢に挑み、改革への道を進むことには反対である」と言った意である。
のち安政六年、こと敗れて、京都三条で処刑された息子の頼三樹三郎にきかせたい言葉であった。
山陽は幕藩体制が崩壊にに向かっていることを自覚しつつも、みずからがその推進派となって破滅にいたる道はとらなかった。
つねに「明哲保身」が山陽の処世訓であった。
後藤松陰と藤城は同郷でもあり親しかった。
村瀬太乙(一八〇三ー一八八一)。
山陽の葬儀の焼香順は後藤松陰が一番、太乙は六番であった。山陽の死後帰郷して、名古屋で開塾した。新設犬山藩の藩校、敬道館において藤城が講義するようになったが、しばらくして太乙を推薦して退職した。「太乙堂詩鈔」一巻がある
神田南宮
「南宮詩鈔」上下がある。人生に達観し、世をうらみ、俗を嘲る風はまったくなかったという。
ある時、百峰と酒談のさい、彼はしみじみ、自分には読書以外にはなんお才能もないから、戦国時代に生まれていたら、たちまち馬蹄に蹂躙されていただろう。
太平の世に生まれたことを感謝すると述懐したという。
森田節斎
(一八一一ー一八六八)
名は益、字は謙蔵。号ははじめ、五城、中年は節斎、晩年は愚庵といい、大和五条の町医者の子に生まれた。
十五歳のとき京都に出て、猪飼敬所の門に入ったが、晩年の山陽塾の中心人物だった牧百峰のところに寄宿して、頼山陽に文章を学んだ。十九歳になると江戸に出て昌平校にはいり、古賀とう庵教えを受けたが、野田笛浦、塩谷宕陰らは同級であった。
その生涯は「森田節斎先生の生涯」武岡豊太著に詳しい。
安政元年(一八五四)四十四歳の時結婚した
高槻の親友、竹外に奨められ、大坂の塾で助教をしていたとき、琴女とならしてもよいといった。琴女は無絃女子という。
琴女は、和文に優れ、源氏物語を清書する時など、その筆は流れるような見事な筆遣いだったという、一方馬術、柔術においては男子をしのぎ、まさに文武両道の達人だった。
しかし、その容貌の醜さは並みではなかったらしい。珍しいくらいの醜貌だったという
まさに二物はあたえられない。
で、節齊が娘を望まれたとき、師の藤涯もまさか本当とは思わなかったらしい。親が縁談をあきらめていた娘を望まれ藤涯はあきれはてて、もし本当に結婚するなら、表に出て街頭で三度土下座して見せようといった。断ると思ったからである。
ところが節齋はいきなり表に駆け出そうとしたから藤涯はその真心に打たれ、涙ながらによろこんで承知した。
節齊は備中の友人に出した手紙にも、「おそらくその醜さにおいて、備中一国を探しても右に出るものはあるまい」といっている。
しかし二人は結婚した。この無絃女子との結婚生活は十年続き、男の子も産まれた
のち倉敷にあって開塾していたとき、破門した弟子の復学について、夫婦の間に衝突が起こり、「雌鳥が時を告げる」といって立腹し、本当に離縁してしまった。
谷三山
節齋が谷三山と交わした筆談は珍奇である。気の毒に三山は耳が聞こえなかった。
二人の話題が、学術、学界の高邁なはなしをしている最中なぜか突然脱線する。
二人が、「どちらが不精者だろうか?」というはなしにいたったとき、節斎は「それはむろんわしだろう」というと、三山は、「どうしてどうして、不精とはいっても、あんたの夜戦の働きは万人に超越する、けだし、慨然として馬立つこと、江南第一峰の気ありだ」といったぐあいである。
安政六年(一八五九)節斎、姫路藩に招かれる。
吉田松陰は節斎の弟子であった。伊丹に来て橋本香坡に入門を申し出たが、香坡は断った。節斎は駕篭に乗り、松陰は徒歩で楠公の遺跡をめぐった松陰は海外渡航のことを節斎にはかったが、節斎は徹夜でこれをやめるよう説得した。しかし松陰はこれをきかず、書き置きを残して江戸へ出発した
しかし、節斎はこのことに満足であったようで、友人の藤井竹外に手紙で自慢している。松陰の末路が悲惨であったのはよく知られるところである。
節斎もまた頼山陽とおなじく実践家ではなかった
安政二年、節斎は故郷の五条代官が、万一の場合に皇居を守護するため、十津川郷士管内の農村青年を集めて、吉野川の河原で軍事訓練をしたときその指導者の一員になった。
このとき訓練された二千人の兵たちは、文久三年(一八六三)中山忠光が天忠組の武装蜂起を行った際の、軍隊の中核となった。この軍隊には節斎の弟子たちが何人も加わった。
しかし節齋は、自分の役割は文筆にあって、直接行動ではない。といいのこし倉敷から亡命した。のち高野山に逃れるが、追っ手をくらますため偽装の出家し、慶応二年(一八六六)愚庵と名乗った。明治元年(一八六八)維新がなり、大和に鎮台がおかれると、総督として久我通久の家臣である、旧友の春日潜庵が五条にやってきた。
このとき節斎は三年間の亡命生活からようやく抜けて旧友の前に現れた。
潜庵はそのころ河内で塾を営んでいた旧妻、無絃女子をよびだし、節斎と復縁させてやった。
時間が少し後戻りになるが、與鹿が伊丹郷町に到着するまでのあいだ、ここで頼山陽に触れておこう。
橋本香坡が梅花社・篠崎小竹門にはいったことは既述したが、師の小竹と、頼山陽は親友であった。
頼山陽はのち、京都で開塾するが、その最初の弟子になったのは、美濃出身の後藤松陰(一七九六−一八六四)であった。
松陰は、名を機、字は世張、通称は春蔵、または俊蔵。松陰また春草は号である。
頼山陽が九州旅行にも供をしたが、長崎で母が病気になった知らせを受け郷里に帰った。山陽は美濃にいる松陰に宛てて、激励や指導をしたりしたが、再度大坂に出、篠崎小竹の女婿にはいって大坂に住んだ。
山陽は大坂に出るごとに松陰の家を宿にした
山陽が晩年に著作の整理にかかったときには理想的な助手ともなった。
森田節斎は、松陰をして「才あり而うして気足らず、しかれどもその人はなはだ好し」
と評したのはきわめて的確である。
山陽死後、遺稿を公刊したり、塾の残務整理をしたり、若い弟子たちの指導にあたった。関西から西の漢詩人六名の詩をあつめた「摂西六家詩鈔」があるが、巻四には松陰の「松陰余事」が収められている。
おそらく、篠崎小竹の企画だろうといわれる「摂西六家詩鈔」では、篠崎小竹、広瀬淡窓、草場珮川、広瀬旭荘、虎山とともに、松陰に一巻が割り当てられている。
松陰はまた香坡と親しく、與鹿とも気があった。
山陽の死後伊丹へ遊びに行き、帰りは伊丹の人々に送られて猪名川を下った。
下る舟の中で吟行する。
「行ゆくに丸木橋の下にいたり、皆、首を縮めるを免れず。
岸勢合いまた開き、船頭左たちまち右」船中で酒を酌み交わし山陽を回想する。
「惜しむ、かの西帰の人、けいき、朝に手をわかち、いずこにか寒山を渡りて、この瓢酒を共にせざるを」
正月八日は、余の生辰なり。
という詩がある、四十一才の作。
山陽の手紙を整理していたら、十通の内九通は伊丹の酒の話である。今は幽明を異にしてしまったが、師の声がよみがえってくる。 山陽は死の病の床で、自選の詩集の出版を待ちわびていたが、ついに間に合わなかったが、この詩集の編纂には松陰があたった。
松陰の家は、大坂江戸堀の、かっての頼春水南軒の近くにあったという。
松陰と與鹿が合作した竹製の酒器がある。松陰は詩を、細工は與鹿である。
村瀬藤城(一七九〇−一八五二)
このひとも美濃のひと。頼山陽の弟子である。ただ、家業のため家を空けられなかったから私淑するにとどまった。松陰が紹介したという。
尾張藩領五十三ヶ村の総庄屋の職を勤め、美濃の地を離れることが出来なかった。
京都に滞在したとき山陽に会い、直ちに入門して指導を受けた。帰郷してからも手紙を京都に送って通信指導を受けたが、江戸へ出張した折りにも同じように佐藤一齋にも入門し通信教授を受けた。
佐藤一齋は岩村の藩士の出でのち江戸に出て開塾したひと、その著「言行四録」は有名である。
この山陽と、藤城の学問的対話は、後に後藤松陰が序文を書き、嘉永年間に「山陽藤城二家対策」として出版された。
藤城にはほかに「宋詩合璧」の著述がある。
天保三年、山陽は死の床で、江戸で幕府の郡代を相手の訴訟に奔走する藤城に宛てて書いた手紙は有名で、抄述すると、「当時の社会体制内部の矛盾について、その腐敗を見抜く現実主義。学問を実践に移して、その態勢に挑み、改革への道を進むことには反対である」と言った意である。
のち安政六年、こと敗れて、京都三条で処刑された息子の頼三樹三郎にきかせたい言葉であった。
山陽は幕藩体制が崩壊にに向かっていることを自覚しつつも、みずからがその推進派となって破滅にいたる道はとらなかった。
つねに「明哲保身」が山陽の処世訓であった。
後藤松陰と藤城は同郷でもあり親しかった。
村瀬太乙(一八〇三ー一八八一)。
山陽の葬儀の焼香順は後藤松陰が一番、太乙は六番であった。山陽の死後帰郷して、名古屋で開塾した。新設犬山藩の藩校、敬道館において藤城が講義するようになったが、しばらくして太乙を推薦して退職した。「太乙堂詩鈔」一巻がある
神田南宮
「南宮詩鈔」上下がある。人生に達観し、世をうらみ、俗を嘲る風はまったくなかったという。
ある時、百峰と酒談のさい、彼はしみじみ、自分には読書以外にはなんお才能もないから、戦国時代に生まれていたら、たちまち馬蹄に蹂躙されていただろう。
太平の世に生まれたことを感謝すると述懐したという。
森田節斎
(一八一一ー一八六八)
名は益、字は謙蔵。号ははじめ、五城、中年は節斎、晩年は愚庵といい、大和五条の町医者の子に生まれた。
十五歳のとき京都に出て、猪飼敬所の門に入ったが、晩年の山陽塾の中心人物だった牧百峰のところに寄宿して、頼山陽に文章を学んだ。十九歳になると江戸に出て昌平校にはいり、古賀とう庵教えを受けたが、野田笛浦、塩谷宕陰らは同級であった。
その生涯は「森田節斎先生の生涯」武岡豊太著に詳しい。
安政元年(一八五四)四十四歳の時結婚した
高槻の親友、竹外に奨められ、大坂の塾で助教をしていたとき、琴女とならしてもよいといった。琴女は無絃女子という。
琴女は、和文に優れ、源氏物語を清書する時など、その筆は流れるような見事な筆遣いだったという、一方馬術、柔術においては男子をしのぎ、まさに文武両道の達人だった。
しかし、その容貌の醜さは並みではなかったらしい。珍しいくらいの醜貌だったという
まさに二物はあたえられない。
で、節齊が娘を望まれたとき、師の藤涯もまさか本当とは思わなかったらしい。親が縁談をあきらめていた娘を望まれ藤涯はあきれはてて、もし本当に結婚するなら、表に出て街頭で三度土下座して見せようといった。断ると思ったからである。
ところが節齋はいきなり表に駆け出そうとしたから藤涯はその真心に打たれ、涙ながらによろこんで承知した。
節齊は備中の友人に出した手紙にも、「おそらくその醜さにおいて、備中一国を探しても右に出るものはあるまい」といっている。
しかし二人は結婚した。この無絃女子との結婚生活は十年続き、男の子も産まれた
のち倉敷にあって開塾していたとき、破門した弟子の復学について、夫婦の間に衝突が起こり、「雌鳥が時を告げる」といって立腹し、本当に離縁してしまった。
谷三山
節齋が谷三山と交わした筆談は珍奇である。気の毒に三山は耳が聞こえなかった。
二人の話題が、学術、学界の高邁なはなしをしている最中なぜか突然脱線する。
二人が、「どちらが不精者だろうか?」というはなしにいたったとき、節斎は「それはむろんわしだろう」というと、三山は、「どうしてどうして、不精とはいっても、あんたの夜戦の働きは万人に超越する、けだし、慨然として馬立つこと、江南第一峰の気ありだ」といったぐあいである。
安政六年(一八五九)節斎、姫路藩に招かれる。
吉田松陰は節斎の弟子であった。伊丹に来て橋本香坡に入門を申し出たが、香坡は断った。節斎は駕篭に乗り、松陰は徒歩で楠公の遺跡をめぐった松陰は海外渡航のことを節斎にはかったが、節斎は徹夜でこれをやめるよう説得した。しかし松陰はこれをきかず、書き置きを残して江戸へ出発した
しかし、節斎はこのことに満足であったようで、友人の藤井竹外に手紙で自慢している。松陰の末路が悲惨であったのはよく知られるところである。
節斎もまた頼山陽とおなじく実践家ではなかった
安政二年、節斎は故郷の五条代官が、万一の場合に皇居を守護するため、十津川郷士管内の農村青年を集めて、吉野川の河原で軍事訓練をしたときその指導者の一員になった。
このとき訓練された二千人の兵たちは、文久三年(一八六三)中山忠光が天忠組の武装蜂起を行った際の、軍隊の中核となった。この軍隊には節斎の弟子たちが何人も加わった。
しかし節齋は、自分の役割は文筆にあって、直接行動ではない。といいのこし倉敷から亡命した。のち高野山に逃れるが、追っ手をくらますため偽装の出家し、慶応二年(一八六六)愚庵と名乗った。明治元年(一八六八)維新がなり、大和に鎮台がおかれると、総督として久我通久の家臣である、旧友の春日潜庵が五条にやってきた。
このとき節斎は三年間の亡命生活からようやく抜けて旧友の前に現れた。
潜庵はそのころ河内で塾を営んでいた旧妻、無絃女子をよびだし、節斎と復縁させてやった。









