暘州通信

日本の山車

広告

※このエリアは、60日間投稿が無い場合に表示されます。記事を投稿すると、表示されなくなります。

◆越後 勝山

2017年07月29日 | 日本山車論
◆越後 勝山

 富山県の朝日町と、新潟県の糸魚川市を結ぶ国道8号線の区間は、古来天嶮の地として知られる「北陸道 親知らず 子知らず」は交通の難所である。現在は高速道路・北陸道が通っていて、こちらを通れば難所は回避できるが、国道8号線のほうは、次第に道路改修が進められつつあるものの、曲折の多い危険なトンネルと洞門がつづき、いまも難所に変わりはない。
 この区間にある境川は、富山県と新潟県の県境であり、いわゆる越中國と越後國の國境である。市振(いちふり)はその関所が設けられていたところで、芭蕉の『奥の細道』の、

 今日は 親しらず 子しらず 犬もどり 駒返し など云ふ北国一の難所を越て 疲れはべれば 枕引よせて寝たるに.……

 と紀行文にも記された地で、

  ひとつ家に 遊女もねたり 萩と月

 と詠んだ地として知られ、関所跡がよく整備され保存されていて、おとずれる人も多い。

 親しらず 子しらずにほぼ沿うようにして位置するのが【勝山 標高328メートル】である。
 北アルプスが北に延びて日本海に沈む、地の涯てともいうべき地にあり、その山容は、周囲の山崖に阻まれて全容が見づらいが、よく見える場所では、他の山々とは明らかに異なる整形の二等辺三角形を呈している。
 私見であるが、この山は、『延喜式神名帳』に記載される【青海神社】の奥社にあたる御神体山ではないかと考える。青海神社は、勝山の北麓に鎮座する里宮ではないだろうか。

 勝山の歴史は、平安期の、「治承 寿永の乱」のとき、木曽義仲が、信濃から上京する際に、その軍勢を阻止するため築城された説話が伝わる。
 戦国時代、越後上越(上越市)の春日山城の【上杉謙信】が、越中との國境のを守るため、【落水城(おちりみずじょう)】を築いて警護にあたらせた。

上杉謙信の子、景勝の代に、越中の「佐々成政(さっさ なりまさ)による北進お阻むため落水城を整備したが、このとき「落」の一字を忌んで、【勝山城】と改名した。天正十三年(一五八五)に、に羽柴秀吉(豊臣秀吉)が、越中に入って佐々成政を滅ぼしたが、このとき上杉景勝に会談を申し入れたが、上杉景勝は、直江兼続とともにこれを受け、勝山城において、羽柴秀吉と石田三成とのあいだで会談した。
『落水盟約』として知られ、のちの上杉家安泰にもつながることになった。
ジャンル:
ウェブログ
コメント   この記事についてブログを書く
この記事をはてなブックマークに追加
« ◆伊豫温泉和気 須賀山 正智... | トップ | ◆沖縄 浜比嘉島 »
最近の画像もっと見る

コメントを投稿

日本山車論」カテゴリの最新記事

トラックバック

この記事のトラックバック  Ping-URL