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100のエッセイ・第10期・84 写真の楽しみ(2) レンズという魔物、あるいはボケの魔力

2016-05-10 16:55:19 | 100のエッセイ・第10期

84 写真の楽しみ(2) レンズという魔物、あるいはボケの魔力

2016.5.10


 

 透明なもの、澄んだものが好きだ。秋の空、山中に湧き出る清水、太陽の光に透きとおる若葉、シャボン玉、窓ガラス、ガラス、レンズ。

 レンズを見ていると、吸い込まれていってしまいそうだ。レンズは無色ではない。何枚も組み合わされたカメラのレンズは、紫、緑、ピンクなど、さまざまな複雑な色をしている。けれども、それはあくまで透明で、光を集め、光を捉え、光を表現する。そのレンズは、単眼と呼ばれる固定焦点レンズと、ズームレンズがあるが、それぞれに多彩な商品がとりそろえられ、カメラマニアを誘惑し続ける。彼らはその魅力にはまると、そこからなかなか抜け出ることができない。彼らはそれを自虐的に「レンズ沼」と呼んでいる。ぼくは、そうした「通」にしか通じないような言葉はあまり使いたくないが、まことに言い得て妙である。

 たくさんのレンズを買い集めることが写真好きなら誰でも抱く共通の夢だが、「夢」を抱かせるようなレンズはひどく高価だ。

 以前、舞岡公園に野鳥を撮影するために足繁く通ったことがあるが、そこに集まるいわゆる「鳥屋」さんたちは、ほとんどが定年退職したジイサンたちで、しかも、「年金暮らしだから倹約しなくちゃ」なんてお決まりのセリフとは無縁の人たちらしく、いったいどこからそんなお金が出てくるの? って聞きたくなるくらい高価なレンズをこれ見よがしにカメラに装着して、三脚を立ててずらっと並んで珍しい鳥を狙っている。彼らの持っているレンズは、たいてい、400ミリとか800ミリとかいった超望遠レンズで、ニコンでもキャノンでも、まあ、100万円はくだらないというシロモノである。

 その頃、ぼくは、カメラもニコンのD40あたりに、6万円ぐらいの望遠ズームレンズを付けて、三脚も立てずに嬉々として撮っていたのだが、たまたま、大きなレンズを持ったジイサンに撮った写真を見せてもらったら、もう呆れるくらいキレイに大きく撮れているので、これじゃあ、勝負になんないやとすっかり白けてしまって、「鳥屋」さんからあっさり身を引いた。別に「勝負」なんかしなくてもいいのに、案外ぼくは負けず嫌いらしい。あんなの見なきゃよかったんだ。「比較は不幸の元」である。

 そう、「比較」が、一時、ぼくを写真そのものから遠ざけたこともあった。30年以上も前のことだが、家内の父が突然写真に凝り出した。初めのうちは、35ミリカメラで、風景写真を撮り、四つ切りぐらいにプリントしてひとり悦に入っているのを見て、よせばいいのに、ぼくは「オトウサン、大きく引き伸ばすなら、なんといっても大判のフィルムがいいですよ。」とけしかけたのだ。すると、それから何ヶ月もしないうちに、アサヒペンタックスの6×7やら、ゼンザブロニカやら、とにかくすごいカメラを買いまくり、やがて、二科展の写真部の常連となり、果ては個展も何回となくやるようになってしまったのだった。

 大判のフィルムで撮った写真は、全紙サイズにプリントしても、ちっとも粒子が荒れることなく、ピントはあくまでシャープで、35ミリフィルムでは、どう逆立ちしたってかないっこなかった。そういう写真を日常的に目にするようになって、ぼくの写真への興味はほとんど消えかかった。ぼくも風景写真を主に撮っていたから、35ミリなんかで撮った写真なんてミジメでならなかったのである。これも「比較」が生んだ不幸であった。

 それでも細々と風景写真を撮っていたのは、水彩画の素材にするためだった。そのため、絵になるような風景を、絵になるような構図でしか撮らなかったし、ピントは画面全部にあう(専門的にはパンフォーカスという)ような写し方しかしなかった。写真そのものを表現とはしなかったのだ。

 そのうち、書道をやりはじめ、ひょんなきっかけから「コラ書」と自称するものを作り始めた。自分の書いた書と写真を合成するというもので、そのための写真を意識的に撮るようになった。そうなると、あまり説明的な写真では書と合わないし、ピントが合いすぎている写真も字とまざってしまって具合がわるい。そこで、半分ぐらいボケている写真を撮るようになった。ここで、初めて、「ボケ」を意識するようになったわけである。

 鳥を撮っても、いかにして鳥にピントを合わせるかが最大の問題だった。望遠レンズで、鳥にピントがあえば背景は当然ボケるのだが、そのボケは「結果」であって、「目的」ではない。しかし、コラ書の背景としての写真は、ボケそのものが目的となったわけだ。

 そのうち、コラ書にも飽きてきた。もう写真を撮る必要もなくなり、カメラもレンズも、最低限のものがあればいいやということになった。もう二度と新しいレンズなど買うこともないだろうと思っていた。

 それなのに、転機が突然訪れた。きっかけは、フェイスブックだった。たまたま、「友だち」になった、母方の従妹の投稿を見ていたら、そこに彼女のご主人の写真が載っていた(あるいはリンクが張られていた。こちらがそのブログ。またお店(美容室)のホームページにもたくさんの写真があります。どうぞご覧ください)。その写真を見て、驚いた。画面のほんの一部しかピントがあっていないのである。しかも、使用しているレンズが、聞いたこともないメーカーのもので、F値が1.1とか、0.95という、ぼくが生まれ初めて知る明るさのレンズだった。「1.1」すら聞いたこともない値で、「0.95」となると、その数字を見たとき、それがF値だとすら気づかなかったくらいなのだ。そんなレンズがあるのかと、ネットで調べてみると、ちゃんとある。びっくりした。

 しかも、彼は、そのレンズを開放値(つまり0.95)で撮影しているのだ。それなら、ピントはごく一部にしか合うはずはない。画面全体に広がるのはほとんどボケばかり。まさに究極の「ボケ写真」である。

 風景を撮るにしても、電車を撮る(そうだ、撮り鉄でもあったっけ)にしても、鳥を撮るにしても、とにかく「ビシッとピントがあうこと」「シャープであること」をひたすら追求してきた。だから、どんなに明るいレンズを使っても、絞りはなるべく絞って使ってきた。コラ書の写真だけは例外だったけれど、「絞り開放」で撮ることなど滅多になかったのだ。そうである以上、実は「明るいレンズ」がなぜあんなにも皆がほしがるのか、よく分からなかったのも当然だったのだ。レンズの明るさは、「いいボケ」に必須なのだということに、あまり重要性を感じなかったわけだ。

 フィルムの時代は、フィルムの感度(ISO感度。昔はASA感度と言ったなあ。)が低かったから、暗い所で撮るためにはどうしても明るいレンズが必要だった。それはよく知っていた。昔のフィルムの感度はせいぜい600ぐらいが限度で(よく覚えてない。ぼくが使った白黒の「高感度フィルム」は200ぐらいだ。)、あとは「増感現像」といって、現像時に特別な処理をしたのだが、それは、画面の解像度を犠牲にせざるを得なかったのだ。昨今のデジタルカメラでは、ISO12800などという昔では考えられない感度も普通になっているから、そういう意味では明るいレンズである必要なんてないのだ。

 ぼくは、改めて自分が持っているレンズの「明るさ」を調べてみた。古いレンズだが、一番明るいものでニコンの1.2というのがあった。10年ほど前にずいぶん高いなあと思いつつも買った105ミリのマクロレンズも2.8の明るさだった。そうか、だから高かったんだ、と今更ながら納得した。それらの明るいレンズを使って「絞り開放」で撮ってみた。そうか、そうだったのか、と膝を打つ思いだった。なんというボケ方だろう。なんという美しいボケだろう。ここからまたぼくの写真狂い、あるいはレンズ狂いが始まったのだった。

 小学生の頃からカメラを持ち、その後、様々な写真を撮り続けてきて、いっぱしのカメラマン気取りで生きてきたのに、実はこんなにもいい加減な撮り方しかしてこなかったとは我ながら驚きだった。もちろん、絞りを明ければ、背景がボケることぐらい基本中の基本だからよく知っていた。けれども、絞りを「5.6」で撮るのと、「1.2」で撮るのがこんなにも違う世界が広がるとは思わなかった。いやそれも正確な言い方じゃない。しつこいようだが、違うことは知っていたのだ。けれども、それを作品に生かすことをちっとも考えてなかった、ということなのである。

 「ボケ味」に目覚めたぼくは、必然的に「レンズ沼」に引きずりこまれてしまい、いくつかのレンズを買うはめになったが、今ではもうこれ以上レンズを買う金もないから、ようやく沼から這い出して、持っているレンズで、いかに「ボケた」写真を撮るかに熱中しているというわけである。ぼくのことだから、そのうち飽きるだろうが、それまでは当分退屈しそうにない。

 あるいは飽きる前に、ぼくの方がボケてしまうかもしれない。いずれにしても、あしたのことは、分からない。



 

絞り値(f値)の違いによる、ボケ方の例です。 

3枚は、ほぼ同じ位置から同じ焦点距離のレンズで撮っています。

ちなみに、この花は「ヒメツルソバ」と言います。

 

Nikon D750
AF-S MICRO NIKKOR 105mm 1:28G ED

 

 

 f  36

 

「36」が、どうもこのレンズの一番絞った値。

それでも105ミリの望遠マクロレンズなので、前と後ろはボケます。 

 

 

 f 5.6

 

「5.6」あたりは、スナップ写真などでよく使う絞り。

これでも結構いい感じにボケています。

 

 

 f 3.0

 

レンズを見ると、「2.8」が開放のレンズなのですが

どうも、このカメラでは「3.0」になるようです。

こうなると、ほとんど中央の1点にしかピントが合っていません。

 

この写真を、現像ソフトで更に調整していくと

こんなふうになります。

こうなると、後ろの崖なんか、もう判別不可能です。

つまり「非現実的」になっていくわけです。

 

 

 

 

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