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100のエッセイ・第9期・68 「何ができるか?」の呪縛

2014-03-05 16:10:36 | 100のエッセイ・第9期

68 「何ができるか?」の呪縛

2014.3.5


 

 中学生のころ、「倫理」という教科があった。栄光学園はカトリック校だから、「宗教」の時間もあったのだろうと思う人が多いかもしれないが、「宗教」ではなくて、あくまで「倫理」という名称にこだわっていたようだ。宗教そのものは、あくまで自由に学ぶべきものであり、押しつけたくないという考えが、はっきりとあったのである。だから、教室に十字架が飾られているわけでも、朝のお祈りがあるわけでもなかった。

 その「倫理」という教科は、宗教そのものを教えるわけではないが、カトリックの世界観に基づいて、人間の生き方を考えるという教科だった。

 ぼくは、なぜか、小学生の頃から「人間は何のために生きるのか」というような問題に関心があったので、この「倫理」の時間は大好きだった。

 中1だったか、中2だったか、それとも中3だったか忘れたが、「人間は何のために生きているのか。」がダイレクトに話題になったことがあった。答えは「人の役に立つために生きているのだ。」ということに落ち着いた。これは、今でも、栄光学園の最高の校是「マン・フォー・アザーズ(他者のために人間)」として脈々と生きている考えだ。

 しかし、その授業では、さらに深い展開があった。人は元気で、力いっぱい働けるときは、「人の役に立つ」ことができる。しかし、病気で、たとえばベッドに寝たきりになったような場合はどうなのか。それでも何か「人の役に立つ」ことができるのか、という問いかけが、神父からあった。(教科担当はだいたい神父だった。)ベッドに寝たきりで、動くことも、話すこともできない、ただただ人に迷惑をかけることしかできないような人間でも、なにか「人の役に立てる」のか、考えよというのだ。ぼくがその時、どう考えたかは、もちろん覚えていない。ただ、深い疑問として残ったことだけは確かだ。いまだにその授業を覚えているのだから。そして、神父が言った「結論」も、よく覚えている。それは「人のために祈ることができる。」という答えだった。

 その時、ぼくは、まあ、お祈りを唱えることは確かにできるな、という程度で納得したのだろうか。それとも納得できなかったのだろうか。もちろん覚えていない。しかし、その時、そう納得すれば、「分かった」ということで、質問そのものも忘れてしまうものだ。けれども、質問そのものが鮮明に残っているということは、あまり納得できなかったからだと考えることもできる。

 今回の病気は、「なぜ人は生きるのか」を考えざるを得ないような体験だったわけだが、いま、何となく思うのは、「他者のための人間」という考え方は、どこか、「人のために尽くす」という積極的な行動の価値を強く強調しすぎているのではないかということだ。イエズス会という、カトリックの中でも、もっとも社会的な行動を重視する修道会のかかげる理念だから、当然といえば当然なのだが、どこか欠けている視点があるのではないか。

 例えば、大雪が降る。家の前はもう歩けないほどの積雪だ。何とかして除雪しなければ家族が怪我をする。近所のお年寄りも大変だ。そうした場合、「他者のための人間」は、積極的に外へ出て雪かきをするだろう。そのとき、手術後のぼくは、雪かきなんてできない。(実際には少しだけしたけれど。)まして、寝たきりの老人は絶対にできない。じゃあ、そのとき、その寝たきりの老人は何ができるのか。それは「雪かきをしている人が怪我をしませんように。」と祈ることだということになるのか。それはそれで間違ったことではない。でも、こういうものごとの並べ方、問いの立て方はどこか間違っているように思えてならない。

 つまり「寝たきりの老人に何ができるか?」という問い自体が間違っているのではなかろうか、ということなのだ。人間というものは、「何ができるか」で、その価値が判断されるのではないのではないか。もし「祈ることができる」というのが最終的な答えなら、祈る言葉すら失った病人は、いったい「何ができる」というのだろうか。

 ぼくの年下の友人で、あるカトリック校の校長をしている人がいる。その彼が、今年の卒業式の式辞で、こんなことを語ったという。(詳細はこちらをどうぞ。)

 一人ひとり固有の価値と使命をいただいているあなた方は、既にそのことによって、そのことを引き受け、生き続けることによって、神様に愛されています。

 この言葉に、ぼくは深く心を動かされた。ここには、「何ができるか?」という問いはいっさいない。ただ、人間は、ひとりひとりが与えられた人生を、引き受けて生き続けるだけでいいのだということなのだ。「何ができるか?」と問われるのではなくて、「もうすでに、生きていることで、(神に、あるいは人に)愛されている。」という意識あるいは認識。これが、ぼくらの人生をどれだけ豊かに、そして楽にしてくれることか。「何ができるか?」の呪縛にとらわれる前に、ぼくらは、このことをしっかりと考えておかねばならない。

 ちなみに、この式辞を聞いていた教職員の何人かは、泣いた、という。ぼくもその場にいたら、きっと泣いたろう。

 

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