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100のエッセイ・第10期・79 「価値」はどこに?

2016-03-30 17:16:28 | 100のエッセイ・第10期

79 「価値」はどこに?

2016.3.30


 

 横浜美術館で「村上隆のスーパーフラット・コレクション」を見てきた。あまり気が進まなかったのだが、去年「コレクションフレンズ」というのになぜか入会してしまったので、招待券が来たのだ。年会費1万円も払っているので、見ないともったいないというわけで会期も終わりころになって出かけたのだった。

 展覧会は、村上隆の作品ではなくて、村上隆のコレクションを展示するというもので、いったいこの人はどれだけ金があってこれだけのものを買い集めることができるのだろうと驚いた、というのもあまりに村上隆のことを知らなさすぎるトンマさを露呈するだけの話だが、「知らない」というのは、ある意味、先入観なしに勝手な感想を書けるという点ではいいのかもしれない。

 コレクションは多岐にわたっていて、「蕭白、魯山人からキーファーまで」というサブタイトルが示すとおり、陶磁器、書、絵画、日用品、フィギュアなど、超一流の作品から、よく分からないものまでが、所狭しと展示されていた。

 書では、夏目漱石や豊臣秀吉の手紙があるかと思えば、白隠や一休の書もある。そうした中に現代書家の井上有一のパステルで書いた宮沢賢治の「よだかの星」も展示されていた。一見、子どもの落書きのように見える書である。実際、それを見た若い女性が「これ、子どもが書いたの?」なんて連れの男性に言い、男性は「違うみたいよ。井上有一って、どこかで聞いたことある。」なんて答えていた。こんな会話を井上有一ファンが聞いたら、激怒するだろうか、それとも、笑ってすますだろうか、それともかえって喜ぶのだろうか。ぼくは、井上有一のことを多少は知っているし、その書や書に対する姿勢に敬意を払う者だから、その男女に対してではなくて、こういう展示の仕方にちょっとムッとしたのだった。

 村上のいう「スーパーフラット」というのは、よく知らないが、少なくともこの展示を見れば、世俗の価値の無化を志しているのだろうと推察される。ゴッホの絵が数億円する一方で、無名の画家の絵が1万円でも売れない、という現実は、確かにおかしい。芸術に値段などつけられはしないのだ。自分が「好き」なものが「価値のある芸術」なのであって、それ以外に価値の上下を決める基準なんてない、ということなのかもしれない。

 だから白隠の書と、どこにでもある雑巾が、同列に並ぶ。魯山人の器と女の子のフィギュアも同列に並ぶ。どっちも好きなんだからいいじゃないか。ジャンルなんか無視したっていいじゃないか。むしろ、ジャンルを超えて、好きなものは好きで通したい、ということなのかもしれない。

 頭を柔軟にすれば、こうした村上の価値観は、芸術に対する偏狭な考えからぼくらを解放して、より自由な観賞態度へと導いてくれるものとして理解することができるのだろうが、どうも、ぼくには不快感が最後まで拭えなかった。

 それは何といったらいいのだろか。たとえば、同じステージで、美空ひばりが「リンゴ追分」を歌っているそばで、フィッシャー・ディスカウが「冬の旅」を同時に歌っているのを聴くような気分と言ったらいいのだろうか。それぞれを別に聴けば、それぞれ素晴らしいのに、同時に聴いたら、それこそ「歌」はどこかへ消えてしまう。そこへ義太夫だの、浪曲だの、ジャズだのが更に交じったらどうなるかを想像してみればいい。いくらコラボだ、フュージョンだといっても、そこにはもう「音楽」は存在しえないだろう。

 これは古い感じ方なのだろうか。

 美空ひばりの歌は、やはり「美空ひばり」という文脈の中でこそ真に味わえるだろう。まして井上有一の書は、「井上有一」という文脈、あるいは「書の歴史」という文脈抜きでは味わうことすらできないのではなかろうか。

 いや、作品こそがすべてで、その背景や歴史などは関係ないのだという考えもあることは知っている。ものの背景や歴史を度外視して、ものそのものの美を感じ取ればいいのだという考えもあるだろう。けれども、日本を知らない外国人が、骨董屋に並んでいる和式便器の形に魅せられて買い求め、本国へ持ち帰ってそれを食卓に飾ったとしても、「それはそれでいい」のだろうか。それが「クールジャパン」だろうか。

 違うだろうと思う。

 それが「便器」であることを知らない外国人が、それを「オブジェ」として愛でて食卓に飾ろうとしたら、「それは間違いですよ」と言うのが、正しい道ではないのだろうか。

 昨今のなんでもかんでも「カワイイ」の一言で評価し、それを「クールジャパン」として闇雲に海外に売り込もうとする風潮は、やはり苦々しい。「カワイイ」は、結局、ものの「表層」にしか現れないもので、その奥へと向かう契機を含まない。村上の「スーパーフラット」もその一貫でしかないというのでは、あまりに保守的だろうか。

 そういえば、つい先日、新国立劇場でダンス公演を見た。平山素子の演出、振り付け、出演の「HYBRID Rhythm & Dance」。モダンダンスの公演を生で見たのは始めてだったが、この舞台には、長い間の鍛錬によってしか表現できないものしか存在しなかった。ちらっとみて「カワイイ」なんて感想が洩れるものなどどこにもなかった。こういうところにこそ、ほんとうの芸術があるのだろう。「ほんもの」とはこういうものをこそいうのだろう。そしてそれをほんとうに味わうには、他を排除した、けっして他を並列しようとしない、「閉ざされた場所」をどうしても必要とする。それは、今回の横浜美術館の「一見開かれた場所」の対極にあるものだったといえよう。

 いま、「一見開かれた場所」と書いたのは、そこがジャンルを軽やかに超えた自由な「開かれた空間」のように見えて、実は、村上隆という人によって「閉ざされた場所」のようにぼくは感じたからだ。


 



 

 

横浜美術館に展示中の井上有一の書 

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