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木洩れ日抄 33 「知識」の問題

2018-02-13 13:42:34 | 木洩れ日抄

木洩れ日抄 33 「知識」の問題

2018.2.13


 

 教壇を降りてからもう5年近くになるから、教育現場がどうなっているかはよく知らないが、教育の大改革とかいうことで、別に目新しくもない、知識よりも考える力を育てるとか、先生は授業をしないとか、教科書を使わないとかいった取り組みが朝のテレビで紹介されていた。

 どうしてそういうことになったかというと、最近では、スマホをみればなんでも分かってしまうので、知識を詰め込む必要はなくなった、それよりも、考える力を養うことが大事だということになったのです、といった、まことにざっくりした説明がされていた。

 知識偏重がダメだということは、それこそ何十年も前から言われてきたことで、ここで目新しいといえば、スマホの普及が問題となっていることぐらいだ。

 しかし、ほんとうに、今では「スマホを見れば何でも分かる」ようになったのだろうか。

 スマホで分かる「知識」が玉石混淆だというような話はこの際おいておくとして、ほんとうに、スマホさえあれば、「知識」を獲得できるのだろうか。

 今更言うのもばかばかしいことだけど、そもそも「知識」とは、横浜市の人口が何人かとか、桜は何科に属するかとか、おでんの具には何があるかとか、そういった断片的なことだけを指すわけではない。

 たとえば、キリスト教の人間観とはどういうものか、ということも「知識」である。その「知識」をスマホで検索して簡単に手に入れることができるだろうか。たとえ、検索した結果、ある知識を得たとしても、それがほんとうに妥当かどうかは「考える」必要がある。自分で考えることは難しいから、関連する本を読んでいくしかない。読んでは考え、考えては読む、ということの集積として、何らかの「知識」がようやく獲得できるわけで、このことはすでに、紀元前に孔子が力説しているところだ。

 つまりは、「知識」と「考える=思考」を対立するものとして捉えることが、そもそもの間違いなのだ。そんなことは誰にだってわかるはずのことなのに、どうして、いつまでも、「知識じゃなくて思考力だ。」みたいな議論が繰り返されるのだろう。

 それは、やはり、たとえば「知識」というような基本的な言葉を、各自が勝手な解釈で使っているからだろう。「キリスト教の人間観とはどういうものか」というのも「知識」だと考える人と、「桜は何科か」というようなことだけが「知識」だと考える人が、いくら議論しても、意味のある議論になるわけがないのである。

 

 

 

 


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