創価学会・公明党が日本を亡ぼす

  政教一体で憲法(20条・89条)違反だ!-打首獄門・所払い(=解散)せよ!

創価を斬る・41年目の検証-6

2017-01-11 09:04:48 | Weblog

藤原弘達 創価学会を斬る 41年目の検証 論出版の自由を守る会編
                 (日新報道 2012/2)
    ------(24P)---(以下、本文)-------

 電車の中吊り予告に執拗なイヤガラセ始まる
遠藤…川崎さんも言論妨害の被害者だったとは驚きですが、そうした創価学会の反社会的な体質と実態が明らかとなり、大きな社会問題となったのが昭和四四年の言論出版妨害事件だったわけです。
 もともと「創価学会を斬る」は、藤原弘達著「この日本をどうする」シリーズの第二卷として発刊されました。シリーズ第一卷は「日本教育改造案」だったんですが、これはあまり話題になりませんでした。それより、電車の中吊り広告に次号予告として「創価学会を斬る」の文字を入れたところ、こちらの方が話題になり、「あの本はいつ出る」「どういう内容だ」といった問合せや、「池田先生を批判すると地獄に堕ちるぞ」といつた抗議電話が次々に来るようになったのです。
 これはただごとではないと思いました。
 というのも、創価学会に対する批判本としては、先述のように内藤国夫さんの「公明党の素顔」という本が出ていました。その際に内藤さんは、創価学会・公明党から校正段階で内容を見せるよう要求され、要求に応じると今度は書き直しを求められ、やむなく修正に応じた経緯があったからです。そうした事実を聞いていたことから私たちは、予想される妨害に対しては「絶対に出版中止には応じない」「内容変更にも応じない」と確認し合いました。
 その後、創価学会による激しい出版妨害に見舞われるのですが、正直、ここまでひどいとは思いませんでした。

川崎…私はその内藤さんと、一九九四年、大阪の仏教徒大会のシンポジウムで一緒にパネラーとして出たことがあります。この時のタイトルは「『政治と宗教』ー近未来の政治と宗教を検証するー」でしたが、副題が「地獄の沙汰もカネ次第」というすさまじいものでした。その時、内藤さんは「公明党の素顔」を出版したのは、ただ一人の人間をあまりに絶対視して、崇め奉ると将来困ることになりはしないかと危惧したからだと言う。内藤さんは新聞記者になって三年目の一九六四年に東京都政を担当したのが公明党との付き合いの始まりだと言い、当時の都議会で第一党の社会党と、第二党の自民党がことごとく角突き合わせて対立し、第三党の公明党がキヤスティングボートを握つて我が世の春を謳歌していたが、いずれ中央の政界でも同じことが起きるのではないかと懸念し、公明党の実態を伝えたかったという。内藤さんが藤原さんより先に問題を明確に指摘していた先見の明を高く評価します。
 この大阪の仏教徒大会は、大阪府仏教会の増田貞圓会長が「政治と宗教」の在り方について関心の高い方で、毎年のように大会でシンポジウムを開いています。私が初めて関係したのは、増田会長が先ほど述べた毎日放送での私の創価学会・公明党批判を何回か聞いて「これは面白い」と言って呼んでくれた一九九三年が初めで、乙骨さんとも何回かご一緒になり、矢野さんとは二〇〇九年に、「自公連立政権の落日」というテーマの時に初めてお会いしています。

矢野…いまのお話にあつたように、昭和四四年の八月頃に日新報道から藤原弘達さんが書いた創価学会を批判する本が出版されるという情報が耳に入りました。しかし当初、私はたいして興味をもちませんでした。 というのも失礼ながら、いくら人気評論家の藤原弘達さんが書いた本だからといって、その手の本が何万部も売れるもんじやない、だから放っておいた方がいいという判断もありました。
 その一方で、創価学会の方では過敏に反応し、なにやらやっておるという話は聞こえてきました。しかし、もしここで公明党の委員長・書記長がこの問題について発言すれば、政治マターになって火がついてしまいます。だから、この問題については「表向きは静観する」と竹入さんが判断し、私も同意見でした。というのも、この時期、衆議院の解散総選挙が指呼の間に人っており、事実、年末の一二月二七日には総選挙が実施されました。この選挙で公明党は、二五議席から四七議席へと躍進しましたが、政治マターとならないよう沈黙を守ったから、大マスコミも他政党も騒がずで選挙に直接の悪影響はなく議席の倍増を果たせた。選挙に勝つ一因になったという意味では、党の判断は正しかったと思います。

乙骨…いま矢野さんから概略、ご説明がありましたが、言論出版妨害事件とは、具体的には昭和四四年の八月に「創価学会を斬る」の出版を告示する電車の中吊り広告を日新報道が出稿したところ、直ちに創価学会が反応し、創価学会の渉外局長などを務めた公明党の藤原行正東京都議が、池田大作会長(当時)の指示によって、著者の藤原弘達氏を訪ねて出版の中止を要請することで始まりました。藤原行正さんは著書「池田大作の素顔」の中で、公明党副委員長でもあった北條浩総務(後の四代会長)から学会本部に呼び出され、池田大作氏から直々に「創価学会を斬る」の出版を止めるよう指示されたと書いていますが、私自身も藤原行正さんから直接、同様の話を聞いています。
 しかし藤原都議の要請は、藤原弘達氏に「出版妨害だ」と拒否されたため、藤原都議は、出版元の日新報道に接触し、出版の取止めを申し入れたが、これも拒否されてしまった。

遠藤…そうでした。まず、藤原弘達先生の自宅に藤原行正都議が訪ねて来て、出版の中止を迫りました。しかし弘達先生に拒否されると、今度は私ども日新報道に直接、出版をやめろといってきたのです。都内のホテルで藤原行正都議と面談しましたが、出版中止を蹴ると、「バカヤロー」ですからね。ひどいものでした。

 当初、距離を置いていた公明党に“説得”の指示
矢野…藤原行正さんが池田さんの指示で、藤原弘達さんや日新報道と接触していたという事実は後になって聞きました。藤原行正さんは公明党の都議ですが、先ほど申し上げたように、竹入委員長と私は当初はこの事件に距離を置いていましたから、藤原行正さんが接触していた事実すら知りませんでした。後々には公明党の言論出版妨害事件などと言われましたが、ことの本質は創価学会の批判拒否体質に原因があるのです。そもそも言論出版妨害と批判された行為は池田さんの指示で、創価学会主導で始まったことです。
乙骨…藤原都議の工作が失敗したことで、創価学会なかんずく池田大作氏は、言論出版妨害などやめればよかったんです。藤原都議自身も、「藤原弘達氏の意志は固いので中止を求めても無駄だ」と池田氏に進言したと言つています。ところが池田氏は、「藤原君の判断などどうでもいい」と言って、今度は秋谷栄之助総務(後の五代会長)と二人で交渉に行くように指示。
 藤原都議と秋谷総務が藤原弘達氏に接触しますが、藤原弘達氏の拒絶にあい不調に終わる。しかも、この交渉の模様を藤原弘達氏がテープに録音していたことから、後に言論出版妨害の動かぬ証拠となってしまいました。

川崎…自前の議員と幹部による工作が失敗した結果、より大きな政治力を使って出版を止めようと、その後、自民党の田中角栄自民党幹事長への依頼に発展していったんですね。

矢野…先ほど申し上げたように、竹入さんと私は事件に関与することを避けていました。おできと同じで、さわればさわる程大きくなると思っていたのです。しかし、池田さんや創価学会にすれば、これが気に入らない。創価学会を守るために公明党はあるのに、ちっとも汗をかかないというわけです。
 そこで、竹入さんになんとかしろとの指示が来た。具体的には、藤原弘達さんと面識のある田中角栄自民党幹事長を使って説得しろということのようでした。それで竹入さんが角栄さんに、出版中止の仲介を内々に依頼したのです。

川崎…竹入さんからの依頼を受けた田中角栄さんは、例の「ヨッシャ、ヨッシャ」で引き受けて、藤原弘達さんに電話して出版の取止めを要請した。しかし、ケンもホロホ口に断られてしまう。
 そこで直談判で説得しょうということで弘達さんを料亭に呼び出して説得したが、それでも弘達さんは角栄さんの説得に応じない。応じないばかりか角栄さんの関与を暴露したことによって、創価学会・公明党の言論出版妨害事件が大きな政治問題、社会問題へと発展していくこととなってしまった。

矢野…角栄さんから、どうもうまくいかないという連絡が竹入さんに入り、今度は竹入さんから「矢野、お前も来い」と言われまして私も同席しました。二度目の直談判は、昭和四四年一〇月二三日、会談場所は「のぶ中川」という赤坂の料亭でした。
 料亭の二階の部屋が三部屋用意されていました。一番奥の部屋で竹入さんと私が待機する。真ん中の部屋が角栄さんの控え室。そして一番手前が藤原弘達さんと角栄さんが折衝する部屋というしつらえでした。交渉が成立すれぱ、私たちも合流し手打ちをするという段取りだったのです。
 しかし藤原弘達さんは頑強で、出版そのものの取り止めはもちろんのこと、「初版は出してもいい。出した上で大半は創価学会で買い取るから増刷はしないと約束して欲しい。そうすれば、うまみの多い仕事を回す」とこちらから出した条件にも一向に首をタテに振りません。困った角栄さんが、私たちの部屋に「おい、弘達、ダメなんだよ。固くてダメだ。全然、聞き入れようとしない」と泣きをいれてきましたが、私たちとしても「ハイ、そうですか」とは言えません。竹入さんが「なんとか頼む、もうー押し、二押ししてみてくれ」と頼みこみましたが、結局、会談は物別れに終わり、角栄さんも匙を投げてしまいました。

遠藤…弘達先生から「おい、田中の角さんが出てきたぞ」と聞かされた時には驚きました。創価学会・公明党の政治力は天下の自民党幹事長まで動かすのか、と。しかし弘達先生から「角さんには、『そんなことしてちゃ総理になれませんぞ』と言ってやった」と聞き、安堵しました。
 しかし、それからでした。脅迫電話や無言電話、脅しの手紙・葉書による攻撃がエスカレートしたのは。

川崎…角栄さんの仲介が終わるまでは様子見で、攻撃を控えていたんでしょう。
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