創価学会・公明党が日本を亡ぼす

  政教一体で憲法(20条・89条)違反だ!-打首獄門・所払い(=解散)せよ!

「与直し」の真実-38

2016-09-23 07:38:31 | Weblog

「与直し」の真実 「池田大作さん」政治軌跡の検証
      野田峯雄 (2003/10 第三書館)
    ------(172P)---(以下、本文)-------
◆首締め
 〇〇年の五月初め、公明党大阪府本部から大阪府河内長野市の佐生総一郎市議(元公明党市議)のところに五月八日付通告書が舞い込んだ。そこにはこう記されていた(骨子)。
「貴殿は平成一二年四月一四日、河内長野市において『“自・公連立”はこんなに危険」と題するビラを無差別に戸別配付しました。本件ビラは、ナチスヒットラーによる悲劇を引き合いにだすなど読者の恐怖心を煽リ、公明党は危険な団体であリ、創価学会に支配された政教一致の憲法違反の存在であると印象づける悪質な内容であリます……」
 佐生さんの配布したビラが指摘しているのは「創価学会と公明党の組織中枢の実態」。にもかかわらず、当事者とはとても言い難い「公明党大阪府本部」がいちやもんをつけてきたのである。
 舞台は大阪地裁堺支部へ。この公明党大阪府本部と佐生さんの民事裁判(ビラ配布禁止仮処分命令申立事件)は、しかし約四十日後、ということは総選挙の終盤戦突入時、思いがけない展開になった。公明党大阪府本部側が「突然、訴えを取リ下げてきた」(佐生市議)のだ。取リ下げ理由は何だったのか。佐生さんがこう語る。
「都合によリ、それだけです。私は法廷で徹底的に事実を明らかにするつもリでした。しかし突然の中止。脅かしたリ中止したリ、いったい何なのか。そもそも最初の脅しは何だったのか。脅せばこちらが引っ込むとでも考えたのでしようか。とんでもない。彼らの政教一致は歴然としている」
 池田大作さんの支配する巨大組織による恫喝。公明・学会の傲慢だけがやけに目に付く一件だが、同時期、公明党代表の神崎さんも不可解としかいいようのない動きをしている。京都市における〇〇年五月下旬のビラ(白川代議士秘書逮捕の背景や創価学会の政権関与の危険性などの指摘=前述)の配布をとらえ、京都市平安寺の関係者に対してこぶしを振リ上げたものの、やはリ総選挙終盤戦突入時(六月二十日付)に「和解」してしまったのである。その和解条項もきわめて簡素だ。
「一、債務者は今後は本件ビラを配布しないことを約束する。
 二、債権者(神崎さん)は他に何らの法的措置を取らない。
 三、手続き費用(裁判関係費)は各自の負担とする」(骨子、注は筆者)
 本件ビラを配布しないと言うけれど、本件ビラはすでに配布済みだ。じつにヘンな和解のしかたである。
 うっとうしい批判言論を叩きたい。しかし、できたら池田大作さんの政教一致問題を浮上させたくない。でも、おらが池田に抗う者はどうしてもぶつ叩かなければならない。おれは池田の手繰リ人形としての役割をはたさなければならない。が、その場合、あくまでも池田抜き。とにかく叩かなければ。しかし池田抜きは至難…。ここには解がない。神崎さんの苦悩はっきない。もちろん彼にまっとうな思考能力があればの話だが。
 いずれにしろ、総選挙のドサクサにまぎれて池田大作さんたちは傲慢きわまリない言論封殺に狂奔したのだった。全国の数百人の非学会員たちの心身を、後光(警察)を背に圧迫したのだった。それはいうまでもなく政教一致犯罪である。
 このような前代未聞の言論封殺の狂風を卷き起こす過程で、彼らは次のようなとんでもない騒ぎぎを発生させてもいる。
①六月十二日、池田大作さんたちが北海道警に名誉毀損罪(ビラ配布)で刑事告訴したケース=そのひとリ、札幌市三条の八さん(女性)はビラを配布していなかった。
②六月半ば、池田大作さんたちが山口県警に告訴したケース=ビラ配布とはまったく関係のない場所にいた下松市のYさん(女性)が巻き添えにされた。
③六月十六日、池田大作さんたちが広島県警に告訴したケース=この対象は十五人とすこぶる多い。後にそのうちの二人がビラ配布に関与していないことが判明した。
 つまリ、池田大作さんたちは言論封殺のみならず人権蹂躙(名誉毀損)をも平気で展開していたのだった。彼らは「真偽なんてどうでもいい、いかようにもデッチアゲ可能、とにかく裁判ザタに持ち込んで脅すことに意味がある」と考えているのではないか。批判的な市民たちのクビをグイツと締めとずる、悲鳴をあげさせる、封殺する、排除することにこそ意味があると。

11.靖国と池田大作さん
◆無名戦士たち
 東京都千代田区の皇居外堀の脇にある国立千鳥ケ淵戦歿者墓苑と同区九段北の靖国神社の距離は四百五十メートル余リである。そこを何度も往復した。「千鳥ケ淵戦没者墓苑」を手がかリにいわゆる靖国問題へ接近したいと考えたからだ。両者の違いは何か。
 千鳥ケ淵戦没者墓苑の面積は一万六千平方メートル。靖国神社の約六分の一である。クスやマテバシィなどの常緑高木に囲まれているせいかひどく狭い感じを与える。その奥の六角堂の地下に身元不明の戦没者たちの納骨室が設けられていた。彼ら三十四万六千柱は神(英霊)とは呼ばれない。引き取リ手のない無名の戦死者だ。「無名」は、ここが、墓苑という名称にもかかわらず墓地埋葬法による墓地ではない点、単なる「死者の管理地」だという点と呼応している。要するに彼らは、祀られることなく、ましてや美化されることなく、ただそこにいるだけ。いわば幽明の境に横たわつているようにみえなくもない。
 六角堂の裏手にまわる。すると、ツツジやツゲなどの群れの中に約七メートル四方の何も生えていない白くのっベリとした場所がある。六角堂の納骨室がいっぱいになリ一九九〇年に設けられた新納骨室だという。地中から少し頭を突き出したそれはコンクリートの浄化槽を連想させる。
 屋根も塀も献花台もない。

◆生者の驕リ
 靖国神社には「身元」の明確な二百四十六万六千余柱が祀られている。彼らには「名前」がある。しかも「神」もしくは「英霊」と呼ばれる。それにしてもなぜヤスクニなのか。なぜ神(英霊)なのか。この疑問を払拭することができない。ヤスクニは天皇と国家によって、一九四六年以降は宗教法人靖国神社によつてひたすら美化されてきた。
 その作業の具体的な対象には、たとえば沖縄の師範学校と中学校(当時)の男子生徒や高女の女子生徒たち二千六十人が含まれてもいる。これに関連して注視すべきなのは、一九四五年一月、大日本帝国軍大本営が沖縄に「皇土防衛のため極力敵の出血消耗を図リ妨害す」という役割を押し付けていた事実である(帝国陸海軍作戦大綱〕。沖縄は「死」を強制されたのだ。そして彼らは
死してのち自分を殺した者の継承者の手で「神(英霊ごのレッテルを貼られ二度目の深い恥辱を受けている。少なくとも生者による死者のはてしない美化は生者の驕リと狡猾しか示していない。
 靖国神社の境内を歩きながら私は、千鳥ケ淵戦没者墓苑の無名戦死者や沖縄の二千六十人の対極にいる死を強いた戦争指導者たちのことを思った。
 一九七八年、靖国神社は東条英機元首相たちA級戦犯十四人を「昭和殉職者」として合祀した。
 なぜ一九七八年だったのか。これは日本経済が高度成長を終え、断続的に大小の不況に見舞われながらも次なるステージを求めもがいていた時期。つまリA級戦犯合祀はその動揺のさなかに現出させた権力者たちの欲望の表現である。こうした流動パターンは今日のそれとひどく似ている。
 とてつもない不況。閉塞感。有事法制化。日本国憲法の扼殺の動き…。小泉純一郎首相はこれらを背景に靖国参拝を強行したのだが、そもそも「ヤスクニ問題」の起点はどこなのか。一九四五年八月十五日である。
 このあと幾多の「八月十五日」が過ぎた。しかし、靖国神社を美化し続けてきた天皇と国家が先の大戦を心底から謝罪したことがあったろうか。ない。
 としたらヤスクニ問題はその無賁任の沼から何度も噴き出し、合祀や分祀や国立墓地構想などとはいつさい関係なく、ますます肥大化していくに違いないのである。
       ---------(177P)-------つづく--

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