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「シチリアの晩祷事件」が起こった日

2008-03-30 | 歴史
1282年の今日(3月30日)は、「シチリアの晩祷事件」が起こった日。
当時、フランス統治下のシチリアは支配者であるフランス王家の傍流にあたるアンジュー家と被支配者のイタリア系住民とが激しく対立をし、一触即発の状態にあった。
1282年3月30日のこの日、アンジュー家の兵の一団がパレルモでシチリア住民である若い人妻にしつこく手を出したことに激怒した彼女の夫がナイフでその兵を刺し殺したことから、フランス兵たちが剣を抜き犯人を追おうとするが、たちまち大勢のシチリアの住人たちに取り囲まれ、兵士たちは一人残らず殺され、この住民による暴動は忽ちのうちにシチリア全土に拡大し、シチリアにいた兵士だけでなくフランス系の住民もほぼ全員虐殺されアンジュー王家(Angevins)は追放された。
1282年、パレルモ郊外のサント・スピリト教会での復活祭(春分の日〔3月21日頃〕を過ぎて最初の満月の次の日曜日」)は3月29日、シチリアでは、復活祭翌日月曜日に祭りを行うのが慣わしだそうでであり、この日教会前には大勢の市民が晩祷(夕刻の祈り)を行うために集まっていた。シチリアの住民が暴動を開始したとき晩祷を告げる鐘が鳴ったことから「シチリアの晩祷(晩鐘)」という名で呼ばれることになる。
この事件はヴェルディ作曲のオペラ「シチリアの晩祷(邦題は「シチリア島の夕べの祈り」)」や、フランチェスコ・アイエツの絵画など多くの文芸作品や芸術作品の題材となった。この暴動を起こした住民が口にした合言葉「Morte alla Francia Italia anela(フランスに死を、これはイタリアの叫びだ)」の各単語の頭文字が「マフィア(mafia)」の言葉の由来との説があるが、これは、文章的にも不自然で、後世の創作である可能性が高いという。
5世紀以降、イタリア半島東ローマ帝国ゲルマニア地方の諸民族、アラブ人などの外国勢力の侵略を受け、また外国の勢力に後押しを受けた小国、公国王国が乱立し、相争う状態に陥った事で政治的な統一性は失われていった。そのような状況下でカトリック教会は唯一安定した組織だと見なされ、大きな政治権力を握るようになった。ローマにいる教皇はイタリアの一部を直接統治していたが、その影響力はイタリア全域にとどまらずキリスト教化されたヨーロッパ中に及んでいた。また9世紀以降、イタリアをみずからの領土だと主張する神聖ローマ帝国と教皇の対立により、イタリア半島はしばしば戦場となった。(教皇派と皇帝派の対立)
11世紀初頭になるとイタリア中部や北部の都市、特にヴェネツィアミラノフィレンツェなどが海運や商業によって繁栄するようになり、名目上は神聖ローマ帝国の傘下にありつつも、実質的には独立した政治的権限を持つ都市国家へと発展する。 12世紀には北イタリアの都市国家群がロンバルディア同盟を組織し、イタリアでの実権をバルバロッサ(赤髭王)として知られる皇帝フリードリヒ1世から防衛している。
一方、アラブ人や東ローマ帝国に支配されていたイタリア南部やシチリア島では、ローマ教皇の求めでロベルト・イル・グイスカルドをはじめとするノルマン人ヴァイキングが征服を行いイタリア半島の南を占領。1071年、ロベルト・イル・グイスカルドの弟のルッジェーロ1世がシチリア全島を占領。この功によりルッジェーロ1世はロベルトからシチリア伯位を与えられた。1130年には、ルッジェーロ1世の子のシチリア伯ルッジェーロ2世は、対立教皇・アナクレトゥス2世から王位を得てオートヴィル朝(俗に言う「ノルマン朝」)シチリア王国が成立した。
シチリア王家と神聖ローマ皇帝(ホーエンシュタウフェン家)の政略結婚により両家の血を引く、フリードリヒ2世が成人するとイタリア半島統一の意志をあらわにしたが、ロンバルディア同盟などの反抗によりフリードリヒは統一を果せず、彼の子孫がその意志を継いだ。
1258年にフリードリヒ2世の庶子マンフレーディが実質上のシチリア王になりローマを脅かすようになると、皇帝によるイタリア統一を危惧したローマ教皇は、フランスのアンジュー家の手を借りた。フランス王ルイ9世の末弟であるシャルル・ダンジューは、ローマ教皇からシチリア王カルロ1世(Carlo I)として戴冠され、教皇の承認を得て十字軍を称してアンジュー、プロヴァンスの兵に加え、フランス中から兵を集めイタリアに進撃し、同年、ベネヴェントの戦いでマンフレーディを討ち死にさせ、シチリアを占領した。さらに、1268年にシチリア王位を求めて北イタリアに侵攻してきたコッラディーノもタリアコッツォの戦いで捕らえ処刑することにより、ホーエンシュタウフェン家を完全に滅亡させ南イタリアの支配に成功したが、1282年にシチリア住民の暴動事件(シチリアの晩祷事件)が発生したため、シチリア島を脱出しなければならなくなった。
・・・・が、この「シチリアの晩祷」事件には黒幕がいたとされている。シチリア王となったシャルル1世の野望はとどまるところを知らず、シチリアさらには東ローマ帝国の征服と地中海帝国の建設を夢見、綿密な政治工作を次々と講じていたが、これに脅威を感じていた東ローマ皇帝ミカエル8世パレオロゴスは、アンジュー家による地中海支配を恐れるアラゴン王国やイタリア海運都市国家と組み、厳しい軍事物資などの徴発を受けたシチリア住民の反フランス感情を煽る工作活動を行って「シチリアの晩祷」事件をを引き起こさせ、シャルルをナポリに追放。マンフレーディの娘婿にあたるアラゴン国王ペドロ3世率いるカタルーニャ兵のシチリア侵攻につなげた。
ささいな諍いをきっかけに起ったように見られるシチリアの晩祷事件は、時の権力者によって扇動され、結局、フランスとスペインを巻き込む何年間もの戦争にまで発展し、このことによりシチリア王国は二つに分裂し、半島側はナポリ王国と呼ばれることとなった。ダンテの「神曲」では、フランス人大虐殺事件「シチリアの晩祷」をひきおこしたことによってニコラウス三世が地獄に落ちたと歌っている(以下参考に記載の「ダンテと沙漠と詩」地獄編第19章参照 )。シチリアといえば、「ゴット・ファーザー」など多くの映画の舞台となっているが、マフィア(伊:Mafia)とはシチリア島に存在する結社を指す。19世紀末よりイタリア南部を本拠として恐喝や暴力により勢力を拡大、市民生活にまで影響を及ぼす存在となる。イタリア統一戦争によって1860年、統一イタリア王国にシチリア島が統合されたことが、歴史の変換点となった。王国とはいっても集まった人間の中身は右から左までばらばらでありシチリアの住民たちはそれまでの政治的な圧迫の記憶から中央に強い不信感があり、ここから伝統的に中道である大地主と保守的な宗教勢力に勃興する労働運動、さらにファシストによる混迷が生まれマフィアの躍進する素地が出来ていったといわれる(詳しくはマフィアを参照)。
(画像はフランチェスコ・アイエツ画「シチリアの晩祷」フリー百科事典Wikipediaより)
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