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伊藤博文が 初代兵庫県知事に就任した日

2014-05-23 | 歴史
天智天皇の治世に兵の武器の倉庫の意味である「つわものぐら(兵庫)」があったことが地名の由来とも言われる「兵庫」(兵庫県のことは※1を参照)の地に、国際貿易港としての「神戸港」が開港(「兵庫」として開港)したのは、1868年1月1日(慶応3年12月7日)のことであった(神戸港のことは※2参照)。
この開港は、1858年(安政5年)、日米修好通商条約により、1863年1月1日(文久2年12月7日)に開港が定められていたが、兵庫は天皇のいる京都御所に近かったこともあり、朝廷の反対によりなかなか開港が許可されなかったがロンドン覚書によって5年後のこの日、「兵庫津」(かつての大輪田泊)より東にある「海軍操練所」があった辺りを事実上の「兵庫港」として開港が実現したものであった(兵庫開港要求事件)。
1868年(明治元年)鳥羽・伏見の戦い- の勃発(慶応4年1月3日[1868年1月27日])、幕府軍の敗北((慶応4年1月27日[1868年1 30日])、を知った徳川慶喜はまだ兵力を十分に保持しているにも関わらず大坂城を脱出し、開陽丸に乗り込み、海路を執って江戸へ向かった。
鳥羽での薩摩との衝突が戊辰戦争の始まりであり、五稜郭落城(
詳細は箱館戦争を参照)をもって終わりをつげるが、「鳥羽伏見の戦い」は、3 倍以上の兵力を擁する幕府軍が惨敗に終わったが、これを機に近畿以西の諸藩の殆どが新政府方につき、世に言う「三百年の天下をたった三日でつぶした」戦いであり、正に、NHKで放送されていた歴史情報番組『そのとき歴史が動いた』・・・であった。その敗因等は以下を参照。

「鳥羽・伏見の戦い - 旧幕府軍の敗北」 そのとき歴史が動いた(1/4 .)(
「鳥羽・伏見の戦い - 旧幕府軍の敗北」 そのとき歴史が動いた(2/4 .)
「鳥羽・伏見の戦い - 旧幕府軍の敗北」 そのとき歴史が動いた(3/4 .)
「鳥羽・伏見の戦い - 旧幕府軍の敗北」 そのとき歴史が動いた(4/4 .)

「鳥羽・伏見の戦い」の敗戦を知った知ったイギリス公使ハリー・パークスは、幕府から各国外交団の保護不可能との通達があったため兵庫へ移動した。
この時、「神戸事件」(備前事件とも呼ばれる)が勃発した。
神戸事件とは(1868年2月4日(慶応4年1月11日)に神戸(現・神戸市)三宮神社前において備前藩(現・岡山県)兵が隊列を横切ったフランス人水兵ら2人を負傷させた事件である。
この時、自らも現場に居合わせたイギリス公使ハリー・パークスは激怒し、折しも兵庫開港を祝って集結していた各国艦船に緊急事態を通達、アメリカ海兵隊、イギリスの警備隊、フランスの水兵が備前藩兵を居留地(現・旧居留地)外に追撃し、生田川の河原で撃ち合いとなった。
そして、神戸に領事館を持つ列強諸国は、同日中に、居留地防衛の名目をもって神戸中心部を軍事占拠し、兵庫港に停泊する日本船舶を拿捕(だほ)した。
この事件は、兵庫開港(現・神戸港)に伴い、大名行列と外国人の衝突を避けるために徳川幕府によって作られた「徳川道」(=西国往還付替道)を通らず、西国街道を進んだことが事件の引き金の一つとなってしまった。以下参照。

徳川道 ~幻の西国街道のバイパス~

このパークス駐日英国公使とは下関での会談等もあり知己関係にある長州藩士の伊藤俊輔(後の伊藤博文)が、下関発の小蒸気船で兵庫港に着いたのは、その翌日のことだった。
この事件が起きた時点では、既に大政奉還していたとは言え、まだ朝廷は諸外国に対して徳川幕府から明治政府への政権移譲を宣言しておらず、伊藤俊輔(博文)が折衝に当たるも決裂するに至るが、伊藤は事の重大さを正確に掴んだでいた。
この事件で、フランス人水兵らが武家の行列を横切ろうとした行為「供割り」は不吉な行為として固く禁じられていた行為であった。日本側から見ると禁を犯した無礼者は切り捨て御免、つまり、切り殺してもよいと武家諸法度に定められていたことをしただけのことであった。したがって、この事件の外交交渉において、日本の武士社会の慣習と国際慣例(万国公法)に無知な誕生したばかりの政権の中にあって、如何に対処すべきかは非常に難しい問題があったのである。
伊藤は、国禁を破って、藩命(萩藩の命令)で攘夷実行のために西欧列強の軍事を学ぶために英国へ留学する途中、上海アヘン戦争に負けた清国の人民が奴隷のように酷使されている様をみて、強い衝撃を受けていた。
そのようなことから、彼は、この神戸事件でも、まかり間違えば、清国同様の憂き目をみることになりかねないと憂慮していた。
同年1月15日(2月8日)、急遽、開国和親を朝廷より宣言した上で明治新政府への政権移譲を表明、東久世通禧を国の代表として、兵庫島上町(神戸市兵庫区。)の運上所(開港と同時に開所していた諸問屋会所においた仮事務所「兵庫役所」)にて交渉が開始された。
東久世は、京都の新政府で参与兼外国事務取調掛で、外国との間に起こった事件の最高責任者であった。その東久世に、いちはやく事件を知らせ、外国に王政復古を宣言し、事件を解決にむかわせたのは伊藤であり、元論この交渉メンバーの中に、英語の堪能な伊藤も参加しており、中心的役割も果たしたことだろう。
一戦を辞せずとする備前藩を説得し、2月9日(3月2日)事件関係者の滝善三郎永福寺において切腹させるにあたり、外国公使にも処刑に立ち合わせると共に、今後の外交問題は、万国公法にのっとって対処することを宣告して、何とか神戸占領を解除させることに成功した。ただ、結果として諸国列強に押し切られる形で滝善三郎という1人の命を代償として問題を解決する形にはなったが、これ以降、明治政府が対外政策に当たる正当な政府であるということを諸外国に示すことになった。
明治新政府ができると、外国と交渉を行い、神戸港や神戸港周辺の旧幕府領を管理するために、慶応4年1月11日、兵庫島上町の諸問屋会所においた仮事務所「兵庫御役所」(運上所)は、1月19日になると神戸港や神戸港周辺の旧幕府領を管理するために兵庫切戸町(兵庫区)の旧大阪町奉行の兵庫勤番所へ移転。
軍隊のあるところが役所にふさわしいとして慶応4年(明治元年)1月22日には兵庫鎮台と改称され、兵庫鎮台東久世が外国事務総督を兼務。伊藤は英語が堪能なことから東久世の下で参与兼外国事務掛となり、2月政府の職制改革に伴って兵庫鎮台が兵庫裁判所と改称されると東久世が兵庫裁判所総督に任命(摂津播磨河内の旧幕府領谷町代官支配地を統治)されると、伊藤は、外国事務局判事に任ぜられた。
さらに、慶応4年5月23日(西暦1868年7月12日)には、兵庫裁判所を廃し、兵庫県を設置。第1次兵庫県が発足した。
江戸時代の末期、現代の兵庫県域には大名が支配していた大名領の外、幕府直轄領(天領)、旗本領(旗本知行所)、公家領寺社領など、130を超える領主によって支配されていた。
慶応4年(1868)5月、旧幕府直轄領等を管轄地として兵庫県(第1次)が設置されたが、配地は徳川天領の域をでていない。多くの大名領は明治4年(1871)まで存続していた(※1の幕末の大名領参照)。
現在の兵庫県庁(神戸市中央区下山手通五丁目10番1号)は繁華街近くにあるが、当時は、江戸時代兵庫津と呼ばれていた神戸市兵庫区中之島周辺にあった兵庫城のあったところである。
兵庫城は花隈城の戦い織田信長に謀反した荒木村重を破り落城させた信長軍の武将池田恒興がその功により、兵庫の地を与えられ築城したものであるが、池田恒興はわずか2年で美濃国大垣城に移封され、兵庫城下は豊臣秀吉の直轄地となり片桐且元が代官として入城していた。そのとき呼称も兵庫城から片桐陣屋と称されていた。
1615年(元和元年)大坂城落城後は尼崎兵庫津一帯は尼崎藩に組み込まれ兵庫城址には陣屋(兵庫津奉行所)が置かれていた。
1769年(明和6年)、上知令により兵庫津一帯は天領となり、尼崎藩の兵庫陣屋は与力同心の勤番所に改築されていた。以下参照。
兵庫勤番所絵図(写)|神戸市立中央図書館 貴重資料デジタルアーカイブズ
明治になってこの勤番所のあった城跡の一部に兵庫鎮台を設け、それが兵庫裁判所に名前が変更、「兵庫県」が成立すると、これが初代の兵庫県庁になったということである。ただし、同年9月に県庁は現在の神戸地方裁判所がある所(神戸市中央区橘通二丁目2番1号)に移動、更に明治6年に現在の兵庫県公館の所に移動している。戦後県庁は違う建物に移り、こちらは現在でも兵庫県の迎賓館として利用されている(現県庁は公館の目の前にあるビルである)。

当時の県域は、先にも書いたように「、神戸港を中心にした小さなもので、いくつもの飛地からなる島のような形をしていた兵庫県。
初代知事に任命されたのは後に初代総理大臣となる伊藤俊輔(博文)であった。英国留学で体得した英語を生かし、開港事務を取り仕切ってきた実績を評価されての登用だったが、任期は1年余りと短かった。
冒頭の画像は兵庫県知事当時の伊藤博文(山口県光市伊藤公資料館蔵。)画像は、2009・6・10付、朝日新聞「ひょうごを託す09知事選」特集記事掲載時のものより借用。
憲政2年目の1969年は、2~5代目まで4人の知事(久我通城中島錫胤陸奥宗光税所篤)が次々と送り込まれた(兵庫県知事一覧参照)。当時、港のある長崎、兵庫、神奈川の知事を次々とこなすのが外交畑の出世コースの様であったらしいが、中には1度も兵庫を訪れなかった知事もいたようだ(第5代、税所は、権知事となっているが、権知事は知事がいないところへ置かれたようで、兵庫県には居なかったということだろう)。第4代の陸奥宗光は知事退任後、第2次伊藤内閣で外務大臣として活躍している。
伊藤博文は、天保12年9月2日(1841年10月16日)周防国に出生。したがって、伊藤が、兵庫県知事になったときは、まだ27歳という若さであった、伊藤は、ニツ茶屋村の庄屋 橋本藤左衛門の別邸である橋本花壇(後の花隈の料亭吟松亭)を仮住居としていたそうだ。橋本花壇の所在地は、旧住居表示では神戸市生田区北長狭通6-78(現:中央区花隈町3に該当)。明治2年 (1869年)7月 伊藤が知事を辞し神戸を去るまでの間この地で風雅な生活を送っていたようである(※3参照)。
以前このブログ「首相官邸で伊藤博文主催による仮面舞踏会が開催された」でも書いたが、JR元町の少し西北あたり、「花隈」(もと花隈城の跡地)には明治時代から昭和40年代くらいまでは賑ぎわいだ料亭街であった。そこには、料亭、お茶屋、仕出屋など戦前は120軒を超える店があり、最盛期には「千人近い芸者衆で華やだいといわれる。初代兵庫県令であった伊藤も毎晩花隈に入り浸っていたといい、伊藤に贔屓にしてもらっていたという元芸者のお婆さんのインタビュー記事を神戸新聞で読んだことがある。
何でも、伊藤の妻・梅子は賢夫人のほまれ高かったそうだが、元々は下関の芸者「お梅」だったという。伊藤には英国留学前に結婚した「おすみ」という女がいたが離婚して、お梅を正妻にして梅子と名のらせた。伊藤が思いきって女道楽のできたのは、梅子の内助のおかげで、梅子は女遊びについて一切文句をいわなかったという。伊藤は、私的蓄財はほとんど残さなかったとされているが、女遊びには相当入れ込んでいたのであろう。
そんな伊藤だが、兵庫県知事に抜擢されてからの1年余の短い期間だが色々なことに着手している。
貿易の振興が、国家隆盛の唯一の手段と考えていた伊藤は神戸での国際貿易の振興をはかり、その為、工事なかばの居留地建設の再開と待遇改善、さらに第二の運上所(税関)を作った。また、神戸開港で、外国人との取引を商いにする人もでてくる。
先に開港した横浜では、手真似による意思表示で契約したことで、違約金をとられるなど困ったことのあることは知られていたことから、県は官吏に外国語を身に着けさせるため、早くも洋学傳習所(英学校)を開設した(8月)。校舎は、鳥取藩が藩士教育のため使っていた神戸村(海岸通西ノ町。※4参照)の校舎が兵庫裁判所へ寄付されたものを利用したようだ。資金難から、兵庫町会所(岡方総会所)に移転し明治5年10月明親館に併合されている(※5参照)。
また、宇治野村(現中央区下山手通7丁目)に貧院を建設している。福澤諭吉は『西洋事情』初編 巻之一の中で、老院(今の老人ホーム)、幼院(今の保育園や幼稚園のこと)又、 それに加えて、「身体不具なるか、若(も)しくは虚弱なる者」(今の障害者センターの機能も合わせて持っていた)もの]のことを貧院とっている.(※6参照)。
神戸ではこの時、神戸病院(神戸大学附属病院の前身)を開設し、医学伝習所(のち神戸医学校と改称)を併設している。兵庫県公館の県政資料館(歴史資料部門)には、神戸病院を建てるために寄附金を集めた「病院購金録」に「伊藤俊介」の名前が見られる(※1の病院購金録参照)。
開港により内外人の流入で、新開港場神戸の風紀と治安は乱れ勝ち。居留地外国人の慰安所として「福原遊郭」が開設されたといわれている。又、伊藤の知り合いのイギリス人から馳梅院を建てること注意されたことが病院建設の動機だったらしい。兎に角、神戸における伊藤の行動と治績はスピーディーであり、めざましいものがあった。しかし、政府に提出した郡県制の建白書『国是綱目』(兵庫論とも)がいれられられなかったことから、わずか11ヶ月の在任期間で憤然と辞表を叩きつけ辞職(明治2年4月10日)した。
今は亡き米花稔氏(べいか・みのる=神戸大名誉教授、経営学)が、神戸新聞に寄せた「まちづくりのちえ」と題する一文には、五つの特徴をとらえ、
「第一は、新興の都市としてのまちづくりが、多様な人々のかかわりあいのなかで進められたこと」
「第二は、古くからの都市に、新しい機能によって規模の大きい新しい部分が加わる時の新旧対立のおそれを、新旧都市の接点を中核とすることによって克服、一体として発展へ進めたこと」
「第三は、まちづくりに区画整理という手法を、地元の人々みずからはじめたこと」
「第四は、まちづくりに必要で、かつ厄介な公的事業のいくつかを、資金の乏しい中で他からの思惑を防ぎつつ進めるために、当時としては新しい株式会社制度を活用するという、一種のシステム化を工夫したこと」
「第五は、港湾都市であり、港湾関連の産業をもって、経済変動の振幅がとりわけ大きいことによって、このような難題が結果的には市民生活の安定、福祉向上についてのきわめて特徴的なとりくみ方を創出することとなったこと」
をあげており、とくに第二のなかで
「すなわち兵庫という古くからの人口二万五千の都市の東に、開港場を中心とする新しいまちづくりが始められた時、旧湊川(今日の新開地)と宇治川との間、当時の坂本村など新旧地域の中間地域をこれからの都市の中核として、ここに次々と公共的施設を設置するという工夫をした。このことは神戸の歴史の中で印象深い部分のひとつである」・・・・それを伊藤俊輔は実行した。・・・と(※7:「海鳴りやまず」の開港と伊藤博文参照)。
当時まだ、27歳の青年がやったことである。立派なものだ。それを讃えて神戸には、伊藤町(いとうまち)の名も残っている。
又、JR神戸駅から楠正成を祀る湊川神社を北上すると大倉山公園と呼ばれるところがある。名称は、明治維新の動乱の中で御用商人として活躍し一代で財閥を築いた大倉喜八郎が、日清戦争後、安養寺山の約八千坪の土地を買い取り広大な別荘を建てた後、神戸市に寄贈したことに由来している.(※8参照)。
当時の安養寺山は松の木が繁り、瀬戸内海や淡路島が望めたそうだ。しかし、この景勝地に建てた別荘に、喜八郎自身はあまり滞在せず、彼と懇意であった伊藤博文が、「昼夜涼風不断、神戸第一の眺望且避暑地に有之」と専ら利用していたという。
その伊藤博文が、明治42年(1909年)ハルピンで射殺され、喜八郎は、伊藤が愛したこの地に彼の銅像を建てて公園として市民に解放する条件で、土地と別荘を神戸市に寄付した。2年後の明治44年10月銅像が建設され、大倉山公園が開園。
湊川神社に立っていた伊藤博文の銅像が明治38年、日露戦争の講和に不満の暴徒に持ち去られていたものを大倉山のシンボルとして再建したものだ。彼の銅像台座には階段状ピラミッドのモチーフが使われている。そして伊藤博文の銅像台座のモチーフは、彼が初代内閣総理大臣であったことから、国会議事堂の屋根の形に採用されるまでになる。
銅像は戦時中に供出されて今はないが、銅像の台座と大倉山の名称が当時を偲ばせている。

上掲の画像は、在りし日の大倉山公園の伊藤博文の銅像(絵葉書。年代不明)である。


参考:
※1:兵庫県HP:歴史資料
http://web.pref.hyogo.jp/pref/cate3_642.html
※2:神戸市HP:神戸港の歴史
http://www.city.kobe.lg.jp/life/access/harbor/rekishi.html
※3:初代兵庫県知事 伊藤博文寓居跡
(Adobe PDF)
http://osaka-siseki.cocolog-nifty.com/blog/files/vol.2-2006-5-21-6.pdf#search='%E4%BC%8A%E8%97%A4%E5%8D%9A%E6%96%87+%E6%A9%8B%E6%9C%AC%E8%8A%B1%E5%A3%87'
※4:神戸の歴史とその歩み:神戸の歴史とその歩み: 「神戸」という地名の由来について
http://haikara.kimec.ne.jp/01/001.html
※5:神戸元町商店街>HISTORY:洋学伝習所
http://www.kobe-motomachi.or.jp/cont08/cont08-165.htm
※6:情. 初編 巻之1貧院 - 近代デジタルライブラリー - 国立国会図書館
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/761234/42?tocOpened=1
※7:海鳴りやまず
http://singetu.ddo.jp/uminaritamazu/
※8:神戸市:KOBEの本棚 第20号
http://www.city.kobe.lg.jp/information/institution/institution/library/bunkodayori/hon_20.html

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