今日のことあれこれと・・・

記念日や行事・歴史・人物など気の向くままに書いているだけですので、内容についての批難、中傷だけはご容赦ください。

神戸市長選で革新系候補が当選。六大都市全ての市長が革新系となる

2011-10-28 | 歴史
1973(昭和48)年10月28日投票の神戸市長選挙で、社会・共産・公明・民社推薦の宮崎辰雄候補が自民推薦の前代議士を破って当選。これで太平洋ベルト地帯の6大都市首長は、全て革新系となった。上掲の写真は、上から時計回りに、大島靖大阪市長、船橋求己京都市長、飛鳥田一雄横浜市長、宮崎辰雄神戸市長、本山政雄名古屋市長と都知事美濃部亮吉(写真、文:朝日クロニクル「週間20世紀」1973年号より)。
宮崎辰雄は、神戸市助役を経て、1969(昭和44)年から神戸市長を5期20年(1969年 – 1989年)務めた他、財団法人神戸都市問題研究所(※1 )の創設者・理事長としても活躍した。
「最小の経費で最大の市民福祉」を基本理念に、「山、海へ行く」のスローガンの元、神戸のシンボル「六甲山」を大胆に削り取り、その土砂を神戸港の埋め立てに利用することで、ポートアイランド六甲アイランドなど巨大な人工島を次々に造成。1981(昭和56)年には神戸ポートアイランド博覧会協会会長として「新しい”海の文化都市”の創造」をテーマーに「ポートピア'81」の開催を成功させ、この博覧会の成功は、1980年代後半の「地方博ブーム」の火付け役ともなり、また、埋め立て地の売却益や、外国金融機関からの起債を中心に、国からの補助金に頼ることなく自力で神戸市を大きくする行政手法を展開。一連の宮崎行政は、都市経営のモデルとして「株式会社神戸市」と呼ばれ、国内外から大きな注目を浴びたものだ。
宮崎が市町退任後のことであるが、そのポートアイランドの南側沖合には、1995(平成7)年、1月17日、あの直下型の阪神淡路大震災(マグニチュード7.3)に遭遇後、街の回復に努めるが神戸の歴史的にも最も重要な港が被害にあったため、神戸港へ入港の船も大阪港など他の都市港にとられ、産業も1部他都市へ移転するなど今も苦戦を強いられている。そのため、市民おなかに賛否両論ある中、神戸市の再生をかけて、新たにポートアイランド沖南側に人工島が建設され、2006(平成18)年2月16日に神戸空港が、開港したが・・・・・。現在、空港の利用数が当初の目標数にいたらず、この空港建設費を補う予定にしていた土地売却や、企業誘致など進まず、震災後の神戸の財政がピンチに陥っているが・・・。そこには、宮崎が市長をしていたときからの神戸沖空港建設問題が絡んでいる。この空港問題に触れる前に、当時の社会問題を少し振り返ってみよう。
日本の戦後改革に次いで、日本社会を大きく変えたのは、高度経済成長期であり、それは、一般には1954(昭和29)年12月から1973(昭和48)年11月までの約19年間をさすといわれている。つまり、先に述べた革新系の宮崎が自民推薦の前代議士を破って神戸市長に当選し、神戸が革新自治体となった頃までである。
この間には1964(昭和39年)後半から1965(昭和40)年に掛けておきた証券不況も乗り越え成長をしているとき、アメリカ経済の衰退が進み、1971(昭和46)年8月、ニクソン・ショック(金ドル交換停止)、円切り上げもなんとか乗り切り、日本経済の規模は、国内総生産(GDP)では、名目で約13,5倍、実質で約5倍に増加し、都市から農村への人口移動の激増、産業構造の転換がもたらされるが、その半面、こうした経済成長の陰で社会公共投資や福祉支出は低水準にとどまり、また生活環境の破壊が起こり「水俣病」や「イタイイタイ病」、「四日市ぜんそく」といった公害病の発生、大量生産の裏返しとしての、ゴミ問題などの公害の問題や交通戦争そして、過密化という都市問題と地方の過疎化という問題が同時進行することになった。この当時TV番組では、1972(昭和47)年1月1日から放映されていた笹沢左保の同名小説をテレビドラマ化した『木枯し紋次郎』の主人公が新しいヒーローとして人気を集めていた。本作は、これまでの股旅物の主流であった「ヒーロー然とした渡世人がバッタバッタと悪人達をなぎ倒し、善良な人々を救う」といったスタイルを排し、他人との関わりを極力避け、己の腕一本で生きようとする紋次郎のニヒルなスタイルと、主演の中村敦夫のクールな佇まいが見事にマッチし、空前の大人気番組となり、劇中紋次郎が口にする「あっしには関わりのねぇことでござんす」の醒めたセリフが、学生やサラリーマなど若者の間での流行語にもなっていたが、その当時の世相について、私の手持ちのアサヒクロニクル「週刊20世紀」(1973年号)冒頭には、以下のように書いている。
”「世界各国に比べ日本の若者はとりわけ強い不満をもっている。」という調査結果が1973(昭和48)年に発表された。調査をしたのは当時の総理府で、米英仏独だけでなく北欧、アジアの国々の10代20代を調べて比べたものだ。「国は国民の福祉や権利を守っていると思わない」と答えた日本の若者は他の国よりも断然多いし、「産業開発を優先しすぎて個人の生活を不幸にしている」と思う若ものの数も他国に比べてかなり高かった。家庭の暮らし、学校や職場の生活、友人関係、社会生活などについての不満度はいずれも驚くほどに高い。戦後50年足らずのうちに、日本の開発は恐ろしい速さで進み、世界有数の過密社会・競争社会が生まれていたのだ。農作物の輸入が増え、食料自給率が減った。地価が高騰し、土地成金が輩出し、人々は大都市の息苦しさに喘ぐようになった。開発優先の政治、カネがものをいう政治への不満は強い。・・・が、政治を変える筋道は見つからない。戦後の日本では「カネカネ、ハヤクハヤク」の考え方が人々の心を汚染した、と歎いたのは日本を良く知るバーナード・リーチだが、そうして作り上げた社会こそが若ものの不安・不満を助長したのだろう。”・・・と。
これを読んでいると、この時代には、日本だけでなく世界中の若者が21世紀初頭の社会の姿について暗い見通しを持っていたといえる。当時紋次郎のしらけたセリフが流行った要因が出来上がっていたわけである。
1973(昭和48)年に発表された当時の総理府調査を今、私は確認できていないが、以下参考に記載の※2:「福祉社会」の【表3-171】1人当たり社会保障給付費の国際比較(単位:ドル)の1973年のところを見ると、この時点では他国に比べて極端に低いことは理解できる。
そのような背景があったからこそ、1960年代末には、東京・大阪・京都・沖縄で革新知事が誕生し、1970年代前半、反公害や福祉政策・憲法擁護を訴え、革新首長が相次いで誕生することとなった。
そして、高度経済成長時代後半にはその政策の見直しが迫られ、公害対策基本法の制定(1967年)や当時通産大臣であった田中角栄が日本列島を高速交通網(高速道路、新幹線)で結び、地方の工業化を促進し、過疎と過密や、公害の問題を同時に解決することを提唱した『日本列島改造論』(1972年6月発刊)へと繋がることになる。
この『日本列島改造論』の発刊された翌・7月に田中が首相となり、この本に促された構想が即具体化されると、日本列島改造ブームが起き 、『日本列島改造論』で開発の候補地とされた地域では土地の買い占めが行われ、地価が急激に上昇した。この影響で物価が上昇してインフレーションが発生し、1973(昭和48)年春頃には物価高が社会問題化する。その対応に苦慮しているうちに、同年10月に起きた石油ショックによる相次いだ便乗値上げなどにより、さらにインフレーションが加速されることとなってしまった。
このような中、田中内閣は1972(昭和47)年には老人医療の無料化(※3)、1973(昭和48)年には年金給付額の大幅な引き上げなどを行なうなど、1973(昭和48)年を福祉元年と位置づけ、社会保障の大幅な制度拡充を実施した(※4参照)が、これは、東京をはじめ全国の主要都市で、「福祉と環境」を掲げた、革新自治体の誕生や参議院での保革伯仲が予測される状況にあったなど、当時の政治状況への危機感からのものであり、福祉国家の明確なビジョンに基づく成果ではなく、政権維持のための政治論理によるものであったといえる。企業も低成長時代に対応した減量経営を進め、超効率社会を目指した。GNP(国民総生産。注:GDPとは違う。)第一主義に軌道修正をくわえ、もっとゆとりある生活を求めた日本人は、この石油危機を境にふたたび馬車馬のように働き続け、単身赴任・過労死というそれまでに見られなかった現象にあらわれるように、すべてが企業中心に動き出すという、企業社会(※5)、会社人間を生み出すことになっていった。
1973(昭和48)年3月に刊行され「空前の大ベストセラー」となった小松左京の『日本沈没』は、日本列島が地殻変動によって沈没し、日本人が国土を喪失し、ユダヤ人のような流民の民となるといった壮大なSF小説であったが、これも、前年に田中内閣が打ち出した「日本列島改造論」に対する皮肉なアンチテーゼ(、最初の命題の反対の理論・主張。逆のテーマを持つ物)であったかもしれない。
前置きが長くなったが、ここっで、本題に戻る。
北側が山、南側が海の東西に細長い地形の神戸は大都市でありながら平らな市街地が少ない。そのため、明治時代には、神戸の中央を流れる旧湊川を埋め立てて、一大市街地を造成して出来たのが「新開地」の誕生である。埋立事業は、そんな神戸市が発展するための必要欠くべからざる宿命的なプロジェクトであったともいえる。
敗戦後の神戸の復興機である昭和20年代から30年代にかけて、故・原口忠次郎市長(在職1949年-1969年。※6)時代に始まった東部、西部の海面埋立事業を皮切りに、技術者(工学博士)でもあった原口の発想「山、海へ行く」のスローガンによる土地造成事業を受け継いだ宮崎辰雄市長による昭和40年代以降のポートアイランドや六甲アイランドといった巨大な人工島建設へとつながる、巨大プロジェクトであった。
神戸空港建設計画は、そもそも、戦後間なしの戦災復興都市計画として、1946(昭和21)年の「市復興基本計画要綱」に初めて登場するが、その具体的な神戸沖空港建設の計画は、1969(昭和44)年5月に当時の運輸省の関西新空港構想(※7)に始まっている。
一方、当時の大阪国際空港関西国際空港と区別する上では伊丹空港と呼ばれている)の交通アクセスの良さは、同時に周辺住民の騒音被害と背と腹の問題を抱えていた。1970(昭和45)年には、国際博覧会史上アジアで初めての開催かつ、日本で最初の国際博覧会となる「大阪万博」に合わせて3千メートルの滑走路を増設。ジェット化はさらに進み、深夜にも郵便用の飛行機が飛んだ。1969(昭和44)年から「静かな夜を返せ」と住民たちが夜間飛行差し止めなどを求め相次いで国を訴えた(大阪空港公害訴訟については、コトバンク又、Wikipedia参照)。
周辺の11市でつくる「大阪国際空港騒音対策協議会」も「空港撤去」を旗印にしていた。こうした動きを受け、当時の運輸省でも、後の関西国際空港につながる新空港の海上建設を模索され、この構想では、関西新空港予定地(関西第二空港予定地)は神戸沖の他にも、播磨灘、淡路島、大阪・泉州沖が想定されていたが、大都市圏からのアクセスの利便性により神戸沖が有力視されていた。
第1期宮崎辰雄市政の時代は、このように、公害反対を強く主張する革新勢力に力があった時代でもあったことから、1972(昭和47)年の神戸市議会は「神戸沖空港反対決議」を賛成多数で可決した(反対決議案に賛成した市会会派=公明党、社会党、民社党、共産党)。また、翌1973(昭和48)年3月、宮崎市長(当時・保守系)も、市会本会議で神戸沖空港反対を表明。
そして、同年10月28日投票の神戸市長選挙では、空港問題が最大の争点となるが、これまで宮崎市長を支持していた自民党が宮崎の「空港反対」に不快感を示して対立候補を立てたため、逆に、これまで市長不支持だった共産党が市長支持派に加わり、社会・共産・公明・民社が推す宮崎が、革新系市長として再選されることになったことから、翌年の答申では泉州(現在の大阪府南部)沖となった(※8:「神戸空港を考えよう」の★「神戸空港計画」が歩んだ波乱の歴史参照)。
先にも触れたように、高度経済成長と共に社会問題となっていた公害、環境問題に対する世論の関心の高まり、成田・伊丹を契機とする、反騒音・反公害運動の活発化は無視できなかったわけであり、政治基盤がまだ、安定していない宮崎市長には空港建設方針を取り下げなければ落選間違いなしの背景があったことから、「空港に固執し政権の座から転落するか、空港を断念して政権を死守するかという厳しい選択を迫られていたわけだ。
国政の選挙でも同じことだが、民主主義国家による選挙においては、政治家は、国民の投票によって選ばれるわけであるから、どうしても、国民の支持がなければ当選することが出来ないが、その国民は世論に左右される。しかし、この世論というものは一体誰がどのように作り出しているのか・・・。
マスコミが意見を述べる場合、自分たちが行なったアンケートなどの結果をもって、世論・世論と言うが、今朝(2011・10・28)朝日新聞天声人語に、以下のようなことが書いてあった。
”うそには3種類ある、と言ったのは19世紀英国の宰相ディズレーリだった。すなわち、普通のうそ、ひどいうそ、そして統計数字であると。統計に限らず数字は水物で、例えば質問の仕方でがらりと変わる。いささか古い国内の例だが「規則を曲げて無理な仕事をさせることもあるが、仕事以外でも人の面倒をよく見る」という課長を良いと答える人は84%いた。ところが前後を入れ替えて、「仕事以外でも人の面倒をよく見るが、規則を曲げて無理な仕事をさせることもある」だと47%に減ったそうだ。”・・・と。私など現役時代仕事上、このようなテクニックは自分でも人を説得するときによく使ったし、又、逆にいろんな場面で、このようなことを意識的に利用して使っている人を多く見てきた。だから、アンケートなどの統計数字も、質問側がある種の思惑を持って質問すれば、その回答も、質問側の期待した思惑通りになる事を知っている。だから、マスコミの行なうアンケートが全てそうだとは思わないが、かなり多くのアンケートに、そのような意図を持って行なわれたと感じるものがあるので、マスコミが、アンケートの結果をもって、それを「世論」と言っていても・・・そんな魔物のような世論を、私はいつも懐疑的に見ているのだが・・・。
1981(昭和58)年3月 ポートアイランド第一期事業が完成し、記念事業として「神戸ポートアイランド博覧会」が開催され、予想入場者数を310万人上回る1,610万人が来場。60億円の黒字を計上し、神戸市の都市経営が国内外から評価されたものの、港湾都市神戸市にとって、将来的にも、隣接する大阪との都市間競争に打ち勝って西日本の経済中枢都市の位置を占めるには、当時、海上輸送だけではなく航空輸送を確保することが欠くことの出来ない戦略的インフラだと考えられていた。だから、まだ勢いのあった当時の神戸であれば、空港を持つことによって、もっと、神戸を発展させることが出来たかもしれないし、宮崎市長自身は空港建設をすべきだった考えていたようである。
結局、空港建設問題が政局に利用され、選挙民が空港への反対の意思表示をしたことになってしまった以上、空港建設反対は、当選至上主義の選挙制度の持つ限界を表しているともいえるだろう。
ただ、以下参考の※9:「神戸空港を取り巻く情勢をどうみるか、その1」でも書かれているように、宮崎市長が建設に賛成意見であったならば、次回の1977(昭和52)年選挙で方針変更を主張し、政治生命をかけて立候補すべきであっただろうがそれをしなかった。そのくせ、彼の回顧録を読むと、神戸空港建設の撤回声明は「一世一代の不覚」、「本心に反した反対声明」、「偽りの誓い」とかいった言葉であふれており、市民に対して「空港建設撤回という心にもない公約」をしたことを心の底から「後悔」している。助役16年、市長20年、計36年の政治生活のなかの「最大の判断ミス」だといっているという。
伊丹空港の騒音訴訟問題があったことなどから、1973年の時点では、神戸沖に拠点空港を新設し、伊丹は廃止するというのが運輸省内の大方針にもなっていたといわれる。にもかかわらず、それまで、空港建設に積極的であった神戸市が世論に推されて、土壇場になって「変節」したことから運輸省が激怒し、「神戸市には絶対空港はつくらせない。」と当時の幹部が断言して以降、神戸市は運輸省から「出入り差し止め」を宣告され、新空港建設計画は、大阪・泉州沖を候補地に絞り、地元の説得に乗り出すことになったわけである。
ところが、泉州沖空港計画が具体化するにつれて、宮崎市長が1982(昭和57)年になって神戸沖空港計画(国内線専用空港として)をふたたび蒸し返し、それも驚いたことに、建設反対決議をしたはずの社会党や共産党までが空港反対から空港建設へ一斉に「転向」。この段階から市当局、議会各派、市職労を含めての市役所挙げての空港建設に邁進する「市役所一家体制」が出来上がってしまった。・・・・と、言っているように、その後、1989(平成元)年 10月 には、神戸市長選挙で宮崎市政継承を掲げ、自民党から共産党まで全政党が支持、推薦する笹山幸俊助役が当選 し、翌年には 神戸市会、兵庫県会で「神戸空港推進」を全会一致で決議し、「市役所一家体制」で神戸沖空港建設へ邁進していく。
神戸空港建設には、大阪国際空港や関西空港があることによる採算の問題、空域の調整の難しさや船舶航路との干渉(ここ参照)、予定地域の活断層など安全性の問題などに疑問を持つ人がおり、早期から反対運動が存在した。
1990年の全会一致の推進議決の段階でも、議会内に空港反対の意見が存在し、社会党と新社会の分裂の要素の一つともなったようだ。また、「神戸空港を考える会」も発足した。しかしこれらの活動は概して限定的で全市民的な運動とは成り得ていなかった。
神戸空港問題が大きな市民活動になったのは未曾有の被害を出した阪神淡路大震災後である。
笹山市長は引き続き空港建設を明言し、震災復興計画に神戸空港計画を盛り込んで「防災の拠点」と位置づけた。しかし震災で日々の生活にダメージをうけた市民の感情とは大きく隔離し、むしろ逆なでしたものとして大きな反発(市民救済より従来型の建設に力点を置くやり方)を招いた。
この時、笹山市長は「市民に財政負担は一切かけない」事を明言した。笹山市長の案では空港埋立地の売却益によって、市税を使うことなく、債務を完済出来るという考えであった。しかし、埋め立てを中心とした土地開発行政、いわゆる「神戸方式」は実質的にはバブル崩壊以前から行き詰ってきていたが、『一度覚えた成功方式』の転換、修正は困難であった(以下参考の※10:「神戸市財政の根本問題」の“神戸の地震は89年に起きたんや!”参照)。
震災前から増加しつつあった市債が急増し、起債残高が一般会計、特別会計等をあわせ3兆円にもなり、財政的に厳しい状況での大規模プロジェクトを危惧する考えなどもあわせ、また、他の地方空港が経営的に成功している例がないこともあって、空港反対は次第に大きな市民運動へと発展した。
1998(平成10)年、住民投票条例の直接請求を求める署名運動が展開されて有効署名は307,797人に達した。この直接請求を受けて「神戸空港建設の是非を問う住民投票条例案」が議会に提案されるが、空港建設推進派が多数を占めていた議会では、大差で否決された。
2001(平成11)年の神戸市長選挙では、神戸市助役で元空港整備本部長だった矢田立郎(無所属)が初当選。このとき空港反対派は候補者一本化に失敗。以後、議会では、2003(平成15)年の市議会選挙では、建設反対派議員は議席を減らす結果となり、一部の市民グループによって、空港工事差し止めの一連の訴訟が行われたものの、それも、地裁・高裁そして、2007年の最高裁ともに却下される。
開港前の最後の選挙である2005(平成17)年の神戸市長選挙では、タケノコのように乱立した「神戸空港反対派」の候補者をまたも一本化に失敗し、反対派へ投票した人の方が多いにもかかわらず、現職の矢田候補が再選され、2006(平成18)年2月16日、これらの経緯をふまえて神戸空港が開港してしまった(関西三空港の経緯と現状 参照)。
結局、前宮崎市長の中途半端な空港建設への転換以降、その後継の歴代助役上がりの市町が、市会、役所とひとつになって、市民の反対を押し切って強引に空港を作っては見たけれど、利用客は伸びず、空港埋立地の売却益もならず、市の財政を圧迫しつづける結果となっている。これは、国政選挙でも同じだが、組織票で固まっている候補者に対抗して当選するのがいかに難しいことかを顕わしている。
これだけ助役上がりの市長が、長く続けば腐敗も起こるわけで、与党会派が多数を占めている市議には市政への厳しいチェック機能を期待するのが難しく、市職員の支持をえて市長となっている者が、市職員の勝手にしていることに対しての監視の目も甘くなるだろう。又、市長と民間との間に、馴れ合いや、もたれ合いの癒着構造も出来るだろう。
今、小沢一郎政治資金規制法違反の容疑で裁判で裁かれているが、その中の西松建設からの裏金を受け取った、受け取っていないなどの問題も含まれているが、西松建設の裏金が問題になったとき、献金先として名前が挙がったのは、なにも小沢氏だけではなく多くの自民党議員やその他の野党議員、それに自治体首長の名も何人か上っているが、この中には確りと矢田立郎神戸市長の名も上っている(※11、※12参照)。
私は現役時代、飲み友達でもある、ある会社の開発関係の者から聞いた話で、神戸で、大型店等が出店するときには、裏で金が飛び回っており、その人の会社はこのような金の問題には非常にお硬く、そのよう開発がらみの裏金を出さないので、99%決まりかけた物件が、結局、最後には、地元の同業他社に巻き返され、潰れてしまったと歎いていたのを思い出す。
宮崎以降「市役所一家体制」で市長選には次々と助役を推してくる市側に対抗し、それに勝てるだけの大物を市民側が市長選に擁立できなかったことが、このような事態を招くことになってしまったのだが、その結果、ポートピア博開催まで、他都市から注目されていた神戸市が、今どんな状況になってしまっているか・・・・、同じ市民としては、恥ずかしくて書く気もしないので、気になる人は以下参考の※13、又、※10でも読んでみてください。しかし、日本では、民主党をはじめ、どこの党も、その市の将来のために、政略を離れて真剣に取り組むことが出来ないのかと、本当に、情けなくなるが、こんな三流の政治家ばかりになってしまったのも、結局は、国民の政治に対する意識の低さからなのだろうね~。
参考:
※1:-KIUR-(財)神戸都市問題研究所トップページ
http://www.kiur.or.jp/
※2:福祉社会
http://www.wa.commufa.jp/~anknak/ronbun10fukushi.htm
※3:厚生年金・国民年金情報通
http://www.office-onoduka.com/nenkinblog/2008/03/post_130.html
※4:なぜ社会保障制度の財政負担が高くなってしまったのか?
http://life-insurance2.cocolog-nifty.com/blog/2011/07/post-8a16.html
※5:企業社会01
http://www.res.otemon.ac.jp/~murakami/kigyoushakai01.htm
※6:銅像 原口忠次郎
http://www4.airnet.ne.jp/soutai/07_douzou/26_ha/haraguti_tyuujirou.html
※7:あゆみ(H20 12) - 関西空港調査会(PDF)
http://www.kar.or.jp/history/ayumi.pdf#search='関西新空港構想'
※8:神戸空港を考えよう
http://kobe.kazamidori.net/airport/
※9:神戸空港を取り巻く情勢をどうみるか、その1、(神戸市長選座談会、その8)
http://d.hatena.ne.jp/hiroharablog/20091216/1260951525
※10;神戸市財政の根本問題
http://www.inouetsutomu.jp/how-to-change.html
※11:NPJ通信 小沢問題をどう考えるか-検察権力・マスコミ報道との関連で (上)
http://www.news-pj.net/npj/kimura/020.html
※12:裏金疑惑の西松建設 関連政治団体
http://www.jcp.or.jp/akahata/aik07/2008-12-21/2008122115_01_0.html
※13:2011統一地方選(神戸市議選、明石市長選、兵庫県議選)
http://koubeno-hige.blog.ocn.ne.jp/blog/2009/08/post_5e91.html
明日への選択 第6部 神戸市長選 揺れる構図
http://www.kobe-np.co.jp/rentoku/shakai/200910asu/04.shtml
神戸市における戦災の状況(兵庫県): 一般戦災ホームページ
http://www.soumu.go.jp/main_sosiki/daijinkanbou/sensai/situation/state/kinki_07.html日本労働運動史
http://www.mcg-j.org/mcgtext/jpnrodo/jpnrodo.htm
生活史研究試論生活「転換点」の意義
http://www.bukkyo-u.ac.jp/mmc01/takashin/Papers/199903_seikatsu/index.html
国立社会保障・人口問題研究所
http://www.ipss.go.jp/ss-cost/j/kyuhuhi-h19/kyuuhu_h19.asp
神戸市・神戸空港の経緯
http://www.city.kobe.lg.jp/life/access/airport/index_04.html
火を噴いた「神戸空港廃港」論:FACTA online
http://facta.co.jp/article/200912004002.html
他都市と比べる神戸市の財政状況 - よこはた和幸
http://www.yokohata.net/c.ball26.htm
厚生労働省:社会保障給付費
http://www.mhlw.go.jp/toukei/list/124-1a.html
国立社会保障・人口問題研究所
http://www.ipss.go.jp/ss-cost/j/kyuhuhi-h19/kyuuhu_h19.asp
1973年[ザ・20世紀]
http://www001.upp.so-net.ne.jp/fukushi/year/1973.html
1973年の政治 – Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/1973%E5%B9%B4%E3%81%AE%E6%94%BF%E6%B2%BB
神戸空港の現状
http://www.jalcrew.jp/kyousen_pub/file/23-054_%E8%88%AA%E7%A9%BA%E6%83%85%E5%8B%A2%E3%83%8B%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%82%B9%E7%A5%9E%E6%88%B8%E7%A9%BA%E6%B8%AF%E3%81%AE%E7%8F%BE%E7%8A%B6%E3%81%AB%E3%81%A4%E3%81%84%E3%81%A6.pdf#search='神戸空港の現状'

最新の画像もっと見る

2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
no philosophy (noga)
2011-10-29 20:00:13
永遠に待ちの政治では、迅速な対応はできない。どこまでも停滞気味である。

現実の内容は、「世の中は、、、、、」の内容であり、理想の内容は、「あるべき姿」の内容である。これは非現実である。
日本語には時制がなく、日本人は現実 (現在) と非現実 (過去・未来) の世界を独立させて並行して言い表すことが難しい。
非現実 (理想) に向かうための現実対応策が語れない。
現実から理想へと一足飛びに内容が飛ぶ。言霊の効果のようなものか。その過程が明確にされない。

時制を考慮することなく自分の思った内容を述べようとすると、現実肯定主義派と空理空論 (曲学阿世) 派のどちらかに分かれることになる。
これでは政治音痴は止まらない。
両者は話が合わない状態に陥り、議論ができない。そこで、悪い意味での数合わせで、民主的に、物事を決するしかないことを日本人は心得ている。
だから、多数がとにかく足並みをそろえる大連立の構想には意味があると考えられているのであろう。

守旧派の世界は理想的ではないが、過不足なく成り立っている。革新派の世界は穴だらけで成り立たないことが多い。
安心と不信の背比べである。だから、政治家は静観が多く、意思決定には手間を取る。
静観には現在時制を働かせるだけで十分であるが、意思決定に至るには意思(未来時制の内容)の制作が必要になる。
意思の制作に未来時制が必要であるということは、自分が意思を作って示すことも他人から意思を受け取ることも難しいということになる。
つまり、社会全体が意思疎通を欠いた状態のままでとどまっているということである。
それで、勝手な解釈に近い以心伝心が貴重なものと考えられている。

時代に取り残されるのではないかという憂いが常に社会に漂っている。
英米人の政治哲学に基づいて次々と繰り出されてくる条約締結の提案には、ただたじろぐばかりである。
自分たちには、哲学がない。理想もなければ、それに向かって踏み出す力もない。
筋道を明らかにされることのない指導者からの励みの要請に民は閉塞感を持っている。玉砕戦法のようなものか。
だから、我々は耐え難きを耐え、忍び難きを忍ぶ必要に迫られることになる。

http://www11.ocn.ne.jp/~noga1213/
http://page.cafe.ocn.ne.jp/profile/terasima/diary/200812

理想と現実 (管理人)
2011-11-03 12:09:46
nogaさん書き込み有り難う!
私など、余り難しいことは分かりませんが、理想と現実をどう調和させてやってゆくかは難しい問題ですね。
今、大阪府の府長をしていた橋本氏が自分の理想とする大阪都構想を実現するための、障害となっている大阪市改革のために、府長を譲り、市長選に打って出ている。
改革派の橋本市と現実修正派の元マスコミ出の市長との争いになる。
橋本氏の大阪都構想には賛否両論があり、非常に困難である事は判るが、今の大阪府の状況などを打開するためには現実路線の修整程度ではなく、大胆な改革をしないといけないのじゃ~ないかと思います。それは、今の神戸市でも同じだろうと思って、注目しています。
しかし、改革には、血を流すような痛みを伴うものです。
戦後、自由や平等なども血を流して勝ち取っていない日本人には、理想論者が多いようだが、痛みを伴う改革を本気でやろうと決意できる人達がどれほどいるのだろうか・・・それが問われる選挙ではないかとも思って見守っています。
今の時代、自分の金のことを考えず、例え自分の収入が10分の1になっても、自分の考えを実現するために行動しようと言う人がこれからも本当に出てくるでしょうか。
理想の実現には、自分のことを犠牲にしても、信念を貫こうと損得抜きで行動を起せる実力派がいなくては、出来るものではない。
人気の高いテレビ番組の「たかじんのそこまでいって委員会」の司会者辛坊治郎 にしても、かっては応援するような口ぶりもしていたが、結局は本を書いたり、司会者として、好きなことを言って金儲けの出来る職業を捨てる勇気などは無い。
要するに口先だけのちょっと頭の良い人と言うだけのことでしょう。
これは、国政の場面でも同じで、民主党にしても、理想をマニフェストに掲げ、選挙に勝っても何一つ実行出来ず、公務員改革どころか、結局は霞ヶ関の書いたシナリオを代行することしか能のない人達の集団であったことを照明している。
今求められているのは、理想を語る人ではなく、それを実行できる力のある人でしょう。
顔の綺麗な、やさしそうな、おとなしそうな、きれいごとを言っている人ではない。
恐い顔をしておろうと、女に弱いとか失言をするとか少々の欠陥のあろうとも、立派に仕事の出来る人が、政界に出てきてもらわないと、今の日本の改革は出来ないだろうと思っています。

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。