今日のことあれこれと・・・

記念日や行事・歴史・人物など気の向くままに書いているだけですので、内容についての批難、中傷だけはご容赦ください。

詩集『にんげんだもの』で知られる書家・詩人相田みつを の忌日

2011-12-17 | 人物
今日12月17日は書家・詩人、相田みつを(本名:相田 光男)の1991(平成3)年の忌日である。
相田 光男は、1924(大正13)年5月20日、栃木県足利市に生まれる。生家は、同市家富町にある名刹、鑁阿寺(ばんなじ。「足利氏宅跡(鑁阿寺)」として国の史跡に指定)の東に位置していたされている。
旧制栃木県立足利中学校在学中に書や短歌、絵に親しみ、同中学卒業後は歌人・山下陸奥に師事。1942(昭和17)年、歌会で生涯の師となる曹洞宗高福寺(鑁阿寺の西となりに位置するお寺)の武井哲応と出会い、在家しながらを学んだという(。※1参照)。
1943(昭和18)年、書家を志して岩沢渓石に師事、本格的に書の修行を積み、30歳のころ、独得の世界観を独特の書体で、短く平易な自らの言葉で表現する作風を確立。1954(昭和29)年第1回古典を足利市で開催。その後も足利市などで毎年開催されるようになった。
1974(昭和49)年、紀野一義のベストセラー『生きるのが下手な人へ』(※2)で紹介され、1984(昭和59)年、詩集『にんげんだもの』(文化出版局)を出版、のちにミリオンセラーとなる。つづく第2詩集『おかげさん』(1987年、ダイヤモンド社)の出版を機に、広く作品が知られるようになる。1991(平成3)年の今日(12月17日)67歳にて、永眠するが、最期まで仕事への意欲は衰えず、「一文字を書いた大作だけを集めた展覧会を開きたい」というのが、長男・一人との最期の会話であっという( Wikipedia-相田みつを)。今、「書の詩人」、「いのちの詩人」とも称されている。
東京・有楽町の東京国際フォーラム地下1階に相田みつを美術館(※3)がある。
今年、没後20年を迎えた相田みつを超有名人し、それまで相田の詩を読んだり、書を見たことのない人をも、本屋また美術館に駆けつけさせたのは、現民主党・党首そして、首相にも上り詰めた野田佳彦であった。
「ズル菅」と酷評され、まわりから止めろやめろと言われながらも首相の座に居座り続けていた菅直人が退任決意後の今年(2011年)8月29日の民主党代表選での勝因の一つが、同代表選投票前の演説だった。
「どじょうはどじょうの持ち味がある。金魚の真似をしても出来ません。」と自らを「どじょう」に例えたくだりは、相田みつをの作品を下敷きにしたものであった。
原典は、先にもあげた相田の第2詩集『おかげさん』に収録されている「どじょうがさ 金魚のまねすることねんだよなあ」という作品。この詩で、自らをどじょうのような泥臭い人間に例え華やかな金魚と対比させたことで、一歩一歩良い国にしてゆくという今の日本で一番大切なことを訴え、中間派の多くの票を獲得し、見事民主党党首に選ばれ、新首相にも指名された。この詩は、同じ民主党の輿石東参院議員会長(当時)の紹介で知ったという。
しかし、民主党代表選第1回目の投票では小沢グループが推す海江田万里経済産業相に破れながら、過半数を獲得した候補がいなかったため決選投票となり、「ドジョウ演説」で反小沢派が野田側に回ったため勝つことができたといわれているが、その実は、民主党代表選前より、増税推進派の野田を財務省が一丸となって後押ししたからこそ民主党代表選に勝て、首相の座をも掴めたと言われている。決選投票で、野田側に回った議員は、第1回目の投票では小沢グループと同じく、この円高とデフレの中での増税は反対していたはずの者たちである。
世界一の借金大国日本の野田政権は、与党内の意見も纏められないため、国会で論議する前に外国へ出て行って増税を公約し、その上で、国民に増税を押し付けるような強権的政治手法採用をしている。
そして、問責決議を2つ残したまま国会を閉じ、重要法案は先送り。無駄減らしも増収策も全く進展がない。今の激動の世界とは別の時間が流れるかのように、内向きな政策ばかりである。もう少し、「どじょう演説」でしたように、真っ当な政治を泥まみれになってして欲しいのだが、相田の詩の引用も、所詮は、イメージ戦略としての「どじょう演説」でしかなかったということだろう。もともと小物の政治家が出来ることはそんなことであったのだろう。だってそれだけの「にんげんだもの」・・・。口先だけでは政治は出来ない。・・・しかし、今の大変な時代に、日本の首相になろうとする人物にこの程度の人しか現れない現実は非常に悲しい。しかし、そうなったのにもいろいろと原因が、あったのだろうが、政治の道具として詩を引かれた相田にすれば、いかにも不本意・・と泣いたかも知れない・・・。

私は、相田みつをの詩の書かれたカップや小さな一輪挿し(上掲の画像)など人から貰って持っているし、詩も読んだことはあるが、それほど真剣に読んだことは無いので、どじょう演説で超有名になって以降、改めて、菩提寺のお上人から、『にんげんだもの』と、『一生感動 一生青春』の詩集2冊があるので読まないかとの話があったので、お借りして読み直してみた。
私には、相田の作品の詩がどれだけ素晴らしいのかについて、その文学的価値判断をする能力は無いが、「良い言葉」を集め書又詩集だとは思っている。
私は、子供の頃から新人熱心なお祖父さんや母親に連れられて頻繁にお寺参りをし、お坊さんから仏の教えを色々と説いてもらい、仏教の勉強会にも参加し、自分でも本を買って、仏教について浅はかではあるが勉強もしたこともあることから、相田の詩集を読むと、どうしても、詩を読んでいるというよりも、簡単な分かりやすい言葉で書かれた仏教の教本のように見えてしまう。

例えば、上掲に掲載のものは、私の信仰しているお寺の本山が、本山並びにその末寺のお坊さんに、1人1つづつ仏の教えを簡単な言葉で書き表したものを綴じこみ式ではなく、腹式の折りたたみ方で綴った教本『心の宝』というもののなかから、相沢のものに近い感じの一文を抜き出したものである。
これを日めくりのように1日1ページづつめくって読み、繁忙な日常生活のなかでつい仏の教えを忘れて行動をしないよう心がけているものであるが、ただ、簡単な言葉で語りかけるように書いてはいるものの、相田のもののように、世間一般の人を対象に、詩集として発行したものではなく、あくまでも、仏教を信じている私たち宗派の信者を対象にしたものであるため、簡単に書いてはいるものの、相田の書いた詩といわれるものよりは、多少、説法臭いところがあると感じる人がいてもそれは仕方の無ことだろう。
相田の作品については、作家の立松和平も、相田を「思想の語り部」と評し、「難しい言葉を一つも語らないで、仏教の根本的な哲理のようなものを語ってしまう。そして、それを読んだ人に『なにかが残る』んですね。残る――ということは、その先の世界があるということです」( “特集- 「こころに響くことば~書の詩人 相田みつを展」 「あなた」への応援歌”. 毎日新聞. 2011年4月2日。Wikipediaより) と語っているようだ。
仏教は、どの宗派であろうと、仏(仏陀として目覚めた仏教の開祖釈迦)の教えを説いているが、釈迦は、人の生き方(死に方にも通じる)を教え、この教えは、「この世(現世)に偶然に起こることは何もない。」という基本の上に成り立っている。
つまり、すべてのことには原因と結果があるということ。だから、今の自分やここにあるすべてのことに原因があるのなら、すべての原因を変えなければ良い結果は生み出されないということを言っているのだが、仏教ではこれをカルマの法則という。カルマとはサンスクリット語で行為という意味である(カルマ⇒参照)。
しかし、釈迦は、又、全てのものは何一つとして単独で生起する独立した存在ではなく、必ず他の力を借りて起るものであり、他のものとの関わりにおいて成立している。つまり、原因だけでは結果は生じないとし、直接的要因()と間接的要因()の両方がそろった(因縁和合)ときに結果はもたらされるとする(因縁果)。
そこで、縁起と呼ぶによってすべての事象が生じており、「結果」も「原因」も、そのまま別の縁となって、現実はすべての事象が「此」と「彼」とがお互いにもちつもたれつの相依相関して成立していると説いているのである(※5)。
だから、人と人との出会い、夫婦になるような「縁」も然り、ご互いに同じような心のレベル(因縁・縁起・徳【仏教の徳=波羅蜜の遵守】)により一緒になったことになり、そうでなければ、二人は引き合わされることはなかったことになる。そんな二人の間にもしなにかあれば相手をせめる前に自分の心(仏性)に悪いところがないか考えてみる必要がある。自分が変われば相手も変わる。相手の心を変えたければまず自分を変えることの大切さを知っておかなければいけないのではないか。
相田みつおの初版の詩集『にんげんだもの』も、最初のページに掲載された以下の一行の詞から始まっている。

「そのときの出遭いが 人生を根底から変えることがある よき出逢いを」(5p)・・・と。そして、10P目には、

「いいことは、おかげさま わるいことは 身からでたさび」・・・の詩が掲載されており、この詩に続いて、

“縁起十二章 おかげさま人生”と題して以下のように書かれている。

一、 ばかのおかげでお利口がひかる 利口ばかりじゃ世の中は成り立たぬ。
二、 落ちてくれる人のおかげで合格できる のぼせ上がるとバチが当たる。
三、 負けてくれる人のおかげで勝たせてもらう どっちか負けなければケリがつかぬ。勝つことばかりが人生じゃない。
四、 脇役のおかげで主役が生きる 主役ばかりが人生じゃない。
五、 職場があるから働ける 職場のおかげでストもできる。
六、 後輩のおかげで先輩になれる 威張ることはないんです。
七、 子供のおかげで親になれる 子供がいなければいくつになってもただの年寄り。
八、 嫁のおかげで親になれる あんまりありがたくないけれど・・・・
嫁という字は「女が古い」て、書くんですねえ・・・よくもまあ ・・・。
九、 相手(縁)がなければケンカもできぬ 一人じゃ夫婦ゲンカもできません。
十、 聞いてくれる人のおかげでぐちもこぼせる あなたのぐちを聞いてくれる人は あなたにとって観音さまです。
十一、下水のおかげで水も流せる 汚いもの、いやなものをみんな引き受けて・・・下水はいつも土の中。
十二、読んでくれる人のおかげで書かせていただく この下手な文章も。

この詩の注釈として、以下のように書かれている。
“世の中、役に立たぬものは一人もいない。だから仏典にもあります。
「生きとし生けるもの、一切の存在は、みんな仏だ」(一切衆生悉有仏性=いっさいしゅじょうしつうぶっしょう.。仏性参照)と。
そして、“縁起について、この世の物ごとは、すべていろいろな関係の中で、起こったり、消えたりするということ。単独に存在するものはひとつもないということ。(中間略)お互いが関係しあって、生かし、生かされている・・・(中簡略)それが縁起であり、縁起は仏教の根本的な考え方です。”・・と補足している。

仏教では、仏性を開発し自由自在に発揮することで、煩悩が残された状態であっても全ての苦しみに煩わされることなく、また他の衆生の苦しみをも救っていける境涯を開くことができるとされる。
菩薩とは、サンスクリットのbodhisattvaを音写した「菩提薩(ボダイサッタ)」を省略した言葉で、その意味は「悟り(菩提、bodhi)を求める衆生(薩埵、sattva=菩薩)」といわれており、一般的に菩薩といえば観音菩薩地蔵菩薩などを思い浮かべるが、最高の悟りを獲得しようと願う心(菩提心)を起こした人は、実はみな菩薩である。
そんな自分の心を豊かにし仏に近づこうとする菩薩行のあり方において、仏教には基本的に、自力によって本願を達成しようとする考えと、他力本願で達成しようとする考えの二つの考え方があるが、自力によっての方は、自分の努力によって、つまり、厳しい修業をすることによって悟りを開けるとする考えで、禅宗(日本では鎌倉時代に始まった曹洞宗と臨済宗など)がそれである。一方、後者の他力本願は、言葉からすると人任せと取れるかもしれないが、そうではなく、救いは人間の力だけでは達成不可能なので、努力だけでなく、仏の力(慈悲)に助けられる(すがる)しかないとする考えで、浄土宗法然)や浄土真宗親鸞)それに法華宗日蓮)などもそれである。
相田は、生涯の師となる曹洞宗の住職から禅(曹洞宗)の教えを学んでおり、彼自身は、自力で本願を達成しようとしたのであろう。そして、又、多くの読者に、それを理解してもらおうと多くの作品を書いたのであろう。だから詩も、出来るだけ優しい言葉を使って非常にわかりやすく書かれているものの、仏教の言葉は、一つ一つを理解するだけで大変難解なものである。私なども分かったようなつもりで分かっていない。だから、正しい教えによる神仏への祈りは必ず通じることを信じて、他力(仏の力)を借りながら少しでも自分の心を豊かにしようと日々精進している。
仏教の教えを基礎とした詩を読んで頭で理解しようとするのも悪くはないが、頭で理解したのと心で理解したのでは大きな違いがある。

相田の詩集『一生感動一生青春』の“はじめに”に以下のように書かれている。

「理屈では人間は動かない」・・・と。

人間を根底から動かすものは、むずかしい理論や理屈ではなくて、全身(いのち)の感動であり、腹のそこからの納得であると思います。理論や理屈では人間は本気で動きません。その証拠に《理動》と言う言葉は辞書にありません。(中間略)
感動こそ人間が人間として生きている証(あかし)だと思っております。・・・と。
そして、「いまここ」と題した以下の詩が掲載されている。

人間が人間として
生きるときに時は
いつでも いま
昨日(きのう)でも明日(あした)でもない
今日(こんにち)ただいまの いま!!
(中簡略)
いつでもどこでも
いま ここが
自分のいのちの正念場
自分の一番大事なところ

いのちのあるかぎりは、いま、ここ、を、自分のいのちの正念場として『一生感動、一生青春』の自分の旗をかかげていきいきはつらつ、いのちいっぱに、生きてゆきたい、と希っております。・・・・と。
そして、第一章の最初に掲載しているのが、先にも書いた初版の詩集『にんげんだもの』の最初にも書かれている「その時の出会いが・・・・」の詩である。

くどいが相田の詩は仏教の教えを詩にしたものだ。相田は、「人間のいのちの根底から動かすものは、理屈や理性や知識ではない人間として深い感動だ。感動には損得計算は一切混じりません。どうか、感動の日々を生きてください」と書いているが・・・日本人ほど自分の宗教を持たない・・・、つまり、宗教心のない民族も珍しい・・・と聞いているが、このような詩だけを普通に読んで、「いま ここに いきる」とはどういうことか・・・など理解し、本当に生きていることの感動を心から感じ取れる人がどれほどいるだろうかな~・・・と思ったりもする・・・。仏教の言葉を、頭で理解するのは大変。「生きる」を理解するには、仏教上では「生かされている」のだということを感じ取れなければいけないのだが・・・・、仏教の本当の言葉の奥深い意味内容はそんなに簡単に誰にでも理解できるはずのもので無く、実践修行しかないのだが・・・。
仏教の教えを取り入れたこれらの詩を読んでいる人たちが、早くそのことに気づき、自力であろうが他力であろうが信心の道に入ることを願って詩を書き続けたのではないか・・・。そう思っていたら、そのことは、以降で述べる詩集『一生感動 一生青春』の中で述べられていた。

もう、今年も後半月足らずで年が明ける。今年は色々大変な年だった。だが、時の立つのは早いものだ。
相田の『一生感動 一生青春』の中に「正月の正の字」について書いてあるページがある(66p)。そこに以下のことが書かれている。
正月の「正」という字を字引で引くと「何ヘン」で引くか知っているか?・・・。
昔の漢和辞典では「止」と言うへん(辺)で引く。「正」と言う字(※6、※7参照)は、「一に止まる」ということ、つまり、「一を守る」それが「正」であり、それでは、「一」とは何か?
一とは、原点、一とは自分、一とはこの私です。自分が人間としての原点に止まる。それが、正。自分が人間としての原点に立ち帰る、それが正です。そして、自分が自分の原点に立ち帰る月、それが正月だ。つまり、自分が自分になる月、それが正月。自分が自分になるということは、人間としての本来の自分になること。それでは、本来の自分とは何か?
それは今までに何回と書いたこと「そんとく」「勝ち負け」お金の「有る無し」等という比べることをやめた自分、それが本来の自分です。子供のことでいうなら柿の落ち葉を見て「わア、キレイ!!」と感動し、その落ち葉を大事に拾ってきた子供の心、それが子供本来の心です。感動することに金はかからない。感動にそんとくはない。そんとくを離れた人間本来の自分に立ち帰る月、それが正月です。
普段私たちの現実生活は、いつも「そんとく」「勝ち負け」という「比べっこ」にふり回されているから、一年に一ぺんそういう世間的な「比べっこ」をやめて本来の自分に帰ろうというのが正月です。正月になると。寺によっては「修正会」という行事をします。何をどう修正するのか?
昨年やってきたことのあやまち、失敗を反省し、同じことをくり返さないように、自分の原点に立ち帰って、自分のことばかりでなくて、世の中の平安や世界の人々の倖せを祈願するわけです。つまり、正月とは「そんとく」で歪められた自分の軌道修正をする月である・・・・と。
そして、正月になると思い出すのがお釈迦様の言葉「自灯明・法灯明」である・・・と。
お釈迦さまの臨終のお世話をされた釈迦の十大弟子の中でも多門第一といわれるアナン(阿南)尊者が「お釈迦様が亡き後私は何を依りどころに生きゆけばよいのでしょうか?」と聴いたところ、その時の答えが、この「自灯明・法灯明」であり、つまり、「自分を灯とし、自分を依りどころとして生きなさい。法(真理・お釈迦様の教え)を依りどころとし他を依りどころとしてはいけない。」言われたという(※8、また、Wikipedia-釈迦の入滅も参照)。
「自帰依(じきえ)・法帰依(ほうきえ)とも仏典に書かれている。・・・。当てにならないものを当てにするから私達は不安になる。もし、正月の初詣をして、神社やお寺でおあかり(灯明)をみたら、「これが自灯明か」「ううんこれが法灯明か」「自分の依りどころは自分なんだな」「釈迦最後の教えはこれだったのか」「自分の軌道修正をする月、それが正月なのか・・・」と心の中でつぶやいてみてください。いまここに生きている。同時に生かされている、自分のいのちを改めてかみ締めてください。 自分のいのちの尊さを本当に自覚したとき、すべての人の命の尊さが分かるんです。その自覚が平和の原点だと私は思います。・・・と。そして、次の詩が掲載されている。

「うつくしいものを美しいと思えるあなたの心がうつくしい」

ここに、相田の言いたいことが集約されていると思う。正月に、一人でも多くの人が、そのような相田の思いを理解し、釈迦の教えを実践(信仰)しようと心がける人が出てきたら、今は亡き相田が一番喜ぶことだろう。
詩を読むだけなら以下参考の※9で、朗読を聴くなら※10で、又一部解説なら※11で見ることが出来る・・・。
それでは皆さん良い、お正月を・・・・。今年は気まぐれな私のブログを見てくれ有り難うございました。私も今日から正月準備と休養で松の内(1月15日)頃まで約1月このブログはお休みします。又、再開の際は宜しくお願いします。

(画像は相田みつお 著「にんげんだもの」表紙。)
参考:
※1:高福寺
http://www.mamiuda.jp/tera/tera02.html
※2:Amazon生きるのが下手な人たちへ (PHP文庫) [文庫] 紀野 一義
http://www.amazon.co.jp/%E7%94%9F%E3%81%8D%E3%82%8B%E3%81%AE%E3%81%8C%E4%B8%8B%E6%89%8B%E3%81%AA%E4%BA%BA%E3%81%9F%E3%81%A1%E3%81%B8-PHP%E6%96%87%E5%BA%AB-%E7%B4%80%E9%87%8E-%E4%B8%80%E7%BE%A9/dp/product-description/4569579353
※3:相田みつを美術館 Mitsuo Aida Museum
http://www.mitsuo.co.jp/museum/index.html
※4:どじょうはお好き!・・・今日のことあれこれと
http://blog.goo.ne.jp/yousan02/e/ed4b9e7ff34a38a43657511ad7cebba2
※5:縁起・六波羅蜜(ろくはらみつ)
http://www.geocities.co.jp/Bookend-Soseki/6299/repo1.htm
※6:命名字解【促】
http://mei2jikai.blog113.fc2.com/blog-entry-139.html
※7:「正」という字
http://www.bellpo.org/kaicho-blog/vol1-20/vol8.html
※8:自灯明・法灯明
http://www.geocities.jp/chandi1813/ess20jitoumyou.html
※9:相田みつを詩集
http://www.d4.dion.ne.jp/~hanami2/e04/08aida/aida.htm
※10:相田みつを 「にんげんだもの」詩の朗読 1ーYouTube(※2,3.4もあり)
http://www.youtube.com/watch?v=f62LdkgZLuk&feature=related
※11:『生きていてよかった』相田みつを
http://www.din.or.jp/~honda/book8-102.htm
仏教の教えの基礎とは何か
http://hachisu-net.com/issei/kiso.html
第33回 救いは自力本願か他力本願か
http://www1.cncm.ne.jp/~toguchi/ozaki_philosophy/33.htm
根本仏教講義
http://www.j-theravada.net/kogi/index.html
悟りを開く仏教の言葉!
http://www14.plala.or.jp/kesakando/komer.html
『法華経』梵漢和対照・現代語訳 松岡正剛の千夜千冊・遊蕩篇
http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya1300.html
相田みつを - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9B%B8%E7%94%B0%E3%81%BF%E3%81%A4%E3%82%92

最新の画像もっと見る

2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
宗教研究会(名前検討中 (村石太レインボー)
2012-04-23 20:25:02
他力本願 自力本願で 検索中です。
私の自論からいえば、結局 祈るということは自力で他力でも あると思う。結論と相違の解釈~
自力といわれたほうが いい時がある
他力といわれた時のが いい時がある
自力・他力 (よーさん)
2012-04-25 10:12:12
村石太レインボーさん書き込みありが
とう!
宗教の研究をしておられるようですが、私は単なる一仏教徒です。
日本には仏教といっても多くの宗派があり、それぞれに法解釈を巡って論争もあるようですが、昔は、そんなことに興味を持った時もありましたが、今は、何が正しいとかどうとかと言ったことには全く興味はなくなりました。
今までの自分生きてきた中でこれがよかれと信じていることを続けていくだけです。

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。