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記念日や行事・歴史・人物など気の向くままに書いているだけですので、内容についての批難、中傷だけはご容赦ください。

濱口雄幸首相が東京駅で右翼青年に狙撃され重傷を負った日

2015-11-14 | 歴史
1930(昭和5)年という年は、暗い年だった。
この頃は、古き良き日本がまだあった時代であるが、同時に軍国主義が台頭し、国際社会からの孤立を深めていった時代でもある。
1920年代、第一次世界大戦後から続く慢性的不況はバブル崩壊後の日本の状況にも似ているといわれる。
1929年10月、アメリカニューヨーク(ウォール街)で起こった株価の大暴落(「暗黒の木曜日(Black Thursday)」)に始まった世界恐慌の影響は、日本にもおよび、関東大震災や「金融恐慌」の痛手から十分回復していない我が国経済を直撃し不況のどん底に落ち込んでいた(昭和恐慌)。
物価と株価の下落によって中小企業の倒産や操業短縮が相次ぎ、賃下げ、解雇の嵐が吹き荒れ、失業者が増大、これに抵抗する労働者によるストライキなどの労働争議鐘紡争議など、*1も参照)や、小作争議、自殺者の増大(自殺者数|年次統計参照)と灰色の日々が続いていたが、この難局をなんとか乗り越えようと努力していた政治家がいた。第27代内閣総理大臣濱口雄幸立憲民政党総裁)である。
その濱口首相が、1930(昭和5)年11 月14日午前9 時ごろ、東京駅右翼青年に至近距離から狙撃され、重傷を負った。
岡山での陸軍大演習に向かうために、運航を開始して間もない神戸行きの超特急「燕(つばめ) 」号に乗り込む直前だった。この状況下、途切れがちな息の下で呟いたという「男子の本懐」が流行語にもなった。
一命はとりとめたものの翌1931(昭和6)年3月、野党の要求を受けて弾丸を抱えたまま登院したが、激しい論戦に病状が悪化し4月13日には内閣総辞職、8月26日に死去した(享年61)。
浜口死去の翌月(9月)、関東軍満州事変を起こし、十五年戦争に突入。翌々年の5.15事件では犬養毅首相が軍人によって射殺されている。濱口首相襲撃は、日本を破滅に向かわせる奔流が次第に勢いを増してゆくのを知らせる前兆でもあった。
浜口首相とその盟友で日本銀行総裁を務めたことのある大蔵大臣井上準之助は内閣発足当時から、死を覚悟していたらしい。                                          
痩せ馬に山又山や春がすみ

浜口首相が、1930(昭和5)年の正月に詠んだ句である(アサヒクロニクル『週刊20世紀』1930年号より)。痩せ馬どころか「ライオン宰相」と呼ばれた浜口首相。金解禁(第一次大戦時に停止した「金本位制」への復帰)、予算削減(軍縮)、対外協調路線を決行するには野党や、軍強硬派からの凄まじい反発がある・・・と二人は予測していた。折りしもロンドン海軍軍縮会議が海軍の軍縮を迫り、この受諾をめぐって統帥権干犯問題が起った。そして、やがて、締結に対する反対論は同条約に不満を持っていた海軍軍令部や右翼団体を巻き込むことになり、軍縮に反発する右翼青年に浜口が銃撃される事件が起ったのだが・・。
「軍部に媚びるな」「軍部が国際関係を無視して計画を進めれば国家は滅亡に瀕すべし」と論じた信念の政治家井上準之助も浜口が亡くなった2年後の1932(昭和 7)年、民政党の筆頭総務として選挙戦中、右翼に暗殺されている(血盟団事件参照)。
この事件以降日本の政党政治は弱体化。また、軍部が政府決定や方針を無視して暴走を始め、非難に対してはこの権利(統帥権)を行使され政府はそれを止める手段を失うことになった。

「男子の本懐」(「男としての本望」といった意味)・・・。なんと懐かしく感じられる言葉だろうか。この時代、浜口などの政治家には良かれ悪しかれ、まだ、武士道精神の残っている者もいた。
戦後、商売に失敗して貧乏のどん底にあったときの、私の親父の口癖も「武士は食わねど高楊枝痩せても枯れても武士は武士。」であった。昭和の時代に生きた父も、もとを辿れば紀州藩の武士の出であることに誇りを持っていたようだ。あだ名は石部金吉。商才はあったが商人としては、あまりにも生真面目すぎ、融通の利かないところが、戦中・戦後の混乱した世の中での商売には不向きであったようだ。ともあれ、私達がまだ若かった頃には、男子として生まれた者の生き甲斐としてよく使われたこの言葉も、万事「金々々」の今の世の中では、政治家の口からも聞かれることはなくなり、「死語」となっている。
城山三郎の『男子の本懐』(1980年、新潮社/1983年、新潮文庫)をもとに浜口雄幸(首相)と、井上準之助(蔵相)の二人を描いた同名のNHK長時間ドラマ(1981年)があった。北大路欣也(井上首相):近藤正臣(井上蔵相)が演じていた。
そのNHKアーカイブス(番組)はここで見れる。
また、NHKの歴史情報番組『その時歴史が動いた』(2002年9月11日 “昭和を揺るがした銃弾 〜ライオン宰相・浜口雄幸狙撃の時〜”)でも扱われていた。これを見ると浜口首相の簡単な経歴から暗殺に至るまでの経過が、わかりやすく要約されている。以下を見られるとよい。1 /5~5/5まである。

Historical test ( Lion prime minister ) -1 /5

上記を見てわかるように、深刻な不況の中、1928(昭和3)年、それまでの納税額による制限選挙が撤廃され、25歳以上の成年男性による初の普通選挙(第16回衆議院議員総選挙)が行われた。
この選挙では事実上2党の戦いとなった。つまり、対外強硬路線・公共投資の積極的拡大を政策に掲げた軍人出身の田中 義一率いる与党・立憲政友会と、憲政会政友本党が、旧憲政会幹部であった濱口雄幸を総裁として結成して出来たばかりの野党第1党立憲民政党協調外交緊縮財政で不況を乗り越えることを政策に掲げての戦いであった。
選挙結果は、立憲民政党が惜しくも与党政友会にわずか1票差で敗北したが、どちらも過半数を得られない「ハング・パーラメント」(宙ぶらりん議会)となり、残る32議席がキャスティングボートを握る情勢となった。
しかし、政友会はこの選挙での露骨な選挙妨害や、金権選挙で国民の反感を買い、その後のスキャンダルもあり、田中儀一内閣は、1929(昭和4)年7月2日総辞職に追い込まれた。
代わって政権についたのが謹厳実直な濱口雄幸であった。濱口内閣では、外務大臣に外務省から幣原喜重郎を起用し、その協調外交は幣原外交と呼ばれた。日本の国力、実力を知る濱口は、英米との対決は不可能であることを理解していた。このことは国民生活の負担の軽減と見事にリンクする。戦後不況、社会不安が増大する中で、軍拡から軍縮に転換し、その軍縮余剰金を財源に、国民負担を軽減する施策を提示したのである。
また財界から信任のある井上準之助蔵相を起用して金解禁、緊縮政策、産業合理化を断行した。また政友会の反対を排除してロンドン海軍軍縮条約を結んだことが右翼からの反感を買い、濱口首相が東京駅構内にて右翼青年に銃撃される結果になったことは先に書いた通りである。

さて、それでは、浜口雄幸内閣は経済面での目的を達成することができたのだろうか?結果的には、「緊縮財政での経済立て直し」は失敗に終わっている。
明治以来、軍備拡張が当たり前の空気がある中で、第一次大戦後、戦争から平和へ、軍拡より軍縮へ、積極財政から緊縮財政へという政治家の信念を貫き通す浜口の姿勢は高く評価する声がある一方で、反面デフレ不況を悪化させ、国民生活を圧迫し社会不安を増大させるなど、経済政策においては酷評されることもある。

濱口内閣(井上蔵相)の財政・経済政策の中心は金解禁(金輸出解禁策)であった。
日本は1897(明治30)年に金本位制を確立させ、金の輸出が行われていたが、第一次世界大戦中に欧米諸国が相次いで金の輸出を禁止したため、日本でも1917(大正6)年になって禁止していた。
ところが、欧米諸国は大戦後相次いで金本位制に復帰、日本もこれらに続こうとしたが、関東大震災や金融恐慌といった混乱のためかなわなかった。金解禁の主な目的は為替相場(為替レート)の安定と、輸出の拡大による国内産業の活性化である。
ただ、金輸出を解禁して円為替相場を安定させるとしても、どの水準で安定させるのかが問題であった。
第一次世界大戦前の日本では、金2分(1/5匁・0.75g)を1円相当(、1ドル=2.005円)としていた。しかし、金輸出が禁じられてから10年以上を経て、内外の経済状況は大きく変化しており、実際の為替相場は、関東大震災時1923年(大正12年)の100円=38ドル前後(1ドル=2.630円前後)を最安値として、1928年(昭和3年)当時には100円=44ドル前後(1ドル=2.300円前後)となっていた( Wikipedia)。このため、金解禁時の平価価の価値基準を禁止前の平価(旧平価、1ドル=2.005円)のまま解禁するのか、それとも実体経済に合わせた平価にするために通貨価値を落とす(平価切下げ)のか・・・その選択が問題となっていた。
旧平価は日本が不況に陥る前の平価であり、これによる金解禁は円高なり、円高は輸出には不利であり、せっかくの輸出活性策も相殺されてしまうことになる。そのため、東洋経済新報社高橋亀吉石橋湛山らはグスタフ・カッセルの提唱している購買力平価説に基づき、大戦や関東大震災後の日本経済の実力に合わせて、平価切下げを行った上で金解禁を行うべきであると、「新平価解禁論」(円安)を主張した(*2参照)が、濱口政権は「旧平価による金解禁」を実施した(1930年1月)。
しかし、なぜ、濱口政権が、円高になれば、輸出が減退し、輸入が増進し、貿易収支の悪化を招きかねない「旧平価による金解禁」を実施したのか?
本当のところはよくわからないが、当時、日本国内が長い不況に喘いでいる一方で、軍拡の動きも活発であった。そのような中、濱口政権は軍部の動きを抑え、同時に日本を不況から脱するためには、金解禁が不可欠であると考えていたようである。つまり、金解禁により、事実上の円切上げ(円高)にともなう貿易収支の悪化という効果が、
金流出の拡大=金保有高の減少→紙幣流通高の抑制→デフレ 
へとつながることを生かして、産業合理化,経済界の整理を促進したかったようだ。
濱口首相と井上蔵相は、その準備として、金解禁に見合った為替相場を維持するために、その前から緊縮財政を実施の上で財政支出を抑えたいわゆるデフレ政策(いわゆる「井上財政」)を取っていた。
そのため、金解禁から半年で日本の国内卸売物価は7%下落。また、対米為替相場は11.1%の円高、アメリカの国内卸売物価は2.3%下落していた。その結果、日本の国内市場は縮小し、輸出産業は円高によって国際競争力を失って不振に陥り、日本経済は二重の打撃を受けることとなった(Wikipedia)。
濱口や井上は、アメリカが恐慌に陥っても世界経済の中心であるイギリス・ロンドンのシティ,が安定していれば、恐慌はじきに収まるものと判断して、翌昭和6年度予算ではさらに大幅な歳出削減をした。これに対して政友会や産業界、一般国民からは、金輸出の再停止か平価切下げ、さらに景気対策を求める声が噴出していた。
しかも、アメリカは金ドル交換を停止していたことから、金解禁直前より投機筋の思惑買いによる円買いドル売りが行われ、解禁後の恐慌の深刻化に伴って貿易の決済資金確保のための需要が加わり、さらに金への兌換と正貨の海外移送が行われるようになった。このため、わずか半年間で2億3千万円もの金と正貨が国外に流れ、元から日本国外に保有していたものの流出分を加えると、2億8千5百万円もの金と正貨が失われてしまった(ドル買事件と金解禁の挫折参照)。
金解禁措置が国際的に円滑に機能すれば、金本位制本来の調節機能から見て、輸出が増え、輸入が減ってバランスが保たれるはずのものであり、大衆も歓迎した。が、それを旧平価により、世界恐慌の中で実施したことによって、いずれもが減少、逆に正価(金、金貨)が海外に流出することになった(為替レート変動と輸出の状況は*3参照)。そして、日本の大不況とその後の社会不安を生み出した原因ともなったのである。
実際には第一次世界大戦後に再建された新たな金本位制は、諸外国においても正貨不足から軒並みデフレの原因となっていたため不況から脱するどころか、むしろ各国を不況に追い込んでいた。FRB議長のベン・バーナンキも、のちにFRBが世界大恐慌への対応に失敗したのは、金本位制を維持しようとしたことが理由のひとつだと語っており、金本位制から早く離脱した国ほど経済パフォーマンスがいいことを証明している(*4参照)。
濱口亡き後、1931(昭和6)年末、政友会総裁・犬養毅が組閣した蔵相に就任した高橋是清は、直ちに、一般に「.高橋財政」と呼ばれる金輸出再禁止.・日銀引受による国債発行と財政支出(軍事予算)等の拡大を実施し、1932(昭和7)年以降は、こうした諸政策の効果もあって、景気は回復に向かった(リフレーション政策。*3も参照)。
当時、リフレーション政策はほぼ所期の目的を達していたが、これに伴い高率のインフレーションの発生が予見されたため、これを抑えるべく(出口戦略参照)軍事予算の縮小を図ったところ軍部の恨みを買い、二・二六事件( 1936〔昭和11〕年2月26日から2月29日)において、赤坂の自宅二階で反乱軍の青年将校らに暗殺された(*5参照)。五・一五事件 (1932〔昭和7〕年5月15日)で犬養が暗殺された日から4年後のことである。高橋在任中は主に積極財政政策をとり、井上準之助が行った緊縮財政としばしば対比されることが多い(*6「日本史のお話」の井上財政と高橋財政)。

まだまだ、政党政治の試験的時代と言わざるを得ない状況の中で、政治は最高の道徳と述べて、断固たる姿勢で軍縮を乗り切った濱口の姿勢スタイルは戦前の首相の中でも稀有な存在ではあるが、宮中からの援護や側近の根回しで中央突破を成功させたわけだが、これは、短期的に見て「平和」実現の成果にはなったが長期的に見ると強硬派内に宮中グループへの不満を増幅させることにもなり、後の二・二六事件へとつながった面もある。また、その経済面で失策が、後に禍根を残した。
今となっては果たして浜口が行ったデフレ政策や金解禁が正しかったか否かは歴史の検証が必要なところこであろうが、政治や経済を自分が正しいと思っって決めたことは命を懸けてでもやりぬくという政治家が日本の歴史の中にいたことを思い起こし、救われるような気がする。特に今の時代の政治家を見ていて・・・。


冒頭の画像は、浜口首相が東京駅で右翼青年に撃たれ、重傷を負い運ばれているところ。翌朝の東京朝日新聞。

参考:
*1:1930年籠城闘争・ストライキが先行した鐘紡争議
http://blogs.yahoo.co.jp/cyoosan1218/51970408.html
*2:連載/石橋湛山を語る - 東洋経済新報社 創立115周年
http://www.toyokeizai.net/115-anniversary/series/kosai2-1.html
*3:戦間期日本の為替レート変動と輸出 ―1930年代前半の為替レート急落
http://www.imes.boj.or.jp/research/papers/japanese/kk21-2-5.pdf#search='%E8%B2%BF%E6%98%93%E5%8F%8E%E6%94%AF+1930%E5%B9%B4'
*4:バーナンキFRB議長、米国の金本位制離脱を擁護
http://jp.wsj.com/public/page/0_0_WJPP_7000-412469.html
*5:【二・二六事件】犠牲となった高橋是清蔵相と日銀の国債引受政策
http://www.mag2.com/p/news/8118
*6:日本史のお話
http://www.ab.auone-net.jp/~tsuka21/theme.html
加藤久仁明Blogテーマ:城山三郎
http://ameblo.jp/3291038150/theme-10069472916.html
佐々木常夫 オフィシャルWEBサイト 20. 浜口雄幸 男子の本懐
http://sasakitsuneo.jp/leader/20.html
金解禁と井上準之助の評価―専門家すら騙した城山三郎の嘘―
https://www.kurayama.jp/modules/wordpress/index.php?p=126
デジタルアーカイブ - 新聞記事文庫 編年体一覧:1930年11月(昭和5)
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/directory/sinbun/ymlist/193011.html
0.25%の軍縮で狙撃された浜口雄幸首相
http://ktymtskz.my.coocan.jp/cabinet/hamaguti.htm   
:デジタルアーカイブ - 新聞記事文庫 編年体一覧:1930年11月(昭和5)
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/directory/sinbun/ymlist/193011.html
濱口雄幸 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BF%B1%E5%8F%A3%E9%9B%84%E5%B9%B8

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