今日のことあれこれと・・・

記念日や行事・歴史・人物など気の向くままに書いているだけですので、内容についての批難、中傷だけはご容赦ください。

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名曲「荒城の月」の作詞家土井晩翠の忌日

2012-10-19 | 人物
10月19日の今日は、詩人・英文学者・土井晩翠の1952(昭和27)年の忌日である。
日本の歌で、戦前、海外にも良く知られた名曲がニ曲ある。
一つは「さくら」であり、もう一つは「荒城の月」であり、どちらの曲も今だに、日本の代表的な歌として、欧米の人々に愛されている。「さくら」は、もともとは幕末に、江戸で子供用の箏曲の手ほどき曲として伝承されてきたもの(作者不明)で、原曲には「咲いた桜・・・」という歌詞がついていたものが、その優美なメロディから、明治の改良唱歌運動の一つとして、文部省音楽取調掛撰「箏曲集」(1888年=明治21年刊)に記載されていたもの。これが現代知られている「桜さくら・・」という歌詞に改められた。その旋律はともかくとして、歌詞は新しいものである(原曲「咲いた桜」の歌詞などは、参考の※1参照)。
後世様々な編曲がなされているが、宮城道雄の「さくら変奏曲」が特に有名である。
余談になるが、宮城道雄は、1894(明治27)年4月7日、我が地元である神戸の居留地内に菅道雄として誕生した作曲家・箏曲家であり、十七絃の発明者としても知られる。
以下は、宮城道雄のかっての弟子牧瀬喜代子(宮城喜代子=道雄の嫁・貞子の姪である)と吉田恭子の「さくら変奏曲」の演奏である。今、よく聞く曲とは違った味がある。
さくら変奏曲(上・下) 宮城道雄- YouTube
現在の弟子による演奏曲は以下参考の※2:「宮城道雄の世界」のここで聞けるが、皆さんはどちらが好みだろうか。
また、宮城は、父親の故郷であり自身が8歳で失明する前に育てられた土地、福山市鞆町から見える鞆の浦にインスピレーションを受けて創作したといわれる、1929(昭和4)年発表の「春の海」は、フランス人女流ヴァイオリニスト、ルネ・シュメーと競演され、世界的な評価を得ることとなった。
日本では、小学校における音楽の観賞用教材として指定されているほか、特に正月には、テレビ・ラジオ番組や商業施設等でBGMとして使用されているため、非常に有名である。
ルネ・シュメーという人部についてはどんな人かよく分からないが、来日したシュメーが「春の海」を気に入り、1932(昭和7)年の来日時に、尺八のパートをヴァイオリンで演奏したものを録音し、このレコードは、日本、アメリカ、フランスで発売されたそうだが、以下のものが、その時の録音だろうか。尺八でなくヴァイオリンで聞いても素晴らしい曲である。
"Haru no Umi" (The Sea in Spring) for Koto and Shakuhachi -YouTube

さて、本題に入るが、「荒城の月」は、土井晩翠の作詞に、
瀧廉太郎が曲をつけた歌曲である。
この「荒城の月」が発表されたのは1901(明治34)年で、東京音楽学校(現東京芸術大学音楽部)が、同年に発行した音楽教科書『中学唱歌』(※3また※4参照)に掲載された。
 当時、小中学生用の唱歌といえば、外国曲に日本語の詩をつけたものが主流であった。
東京音楽学校では、この風潮に一石を投じて日本独特の唱歌を作ろうと企画、中学生用の教科書を作る時、いくつかの詩を公開し、それに付ける曲を募集した。
 当時同音楽学校の研究科生だった滝はこれに応募し、見事3曲(「荒城の月」他「箱根八里」〔作詞:鳥居忱〔とりいまこと〕、「豊太閤」〔作詞者不詳〕)に曲をつけて応募したところ、3曲とも採用されることになったという。
ただ、「豊太閤」は瀧廉太郎作曲と言われているが、もともはとドイツ民謡であったとか・・・(※3の明治34年『中学唱歌』参照)。そうすれば、その外国民謡を滝が日本の歌にアレンジしたということだろうか。彼はこれにより、賞金15円を得たと言われているようだ(※4の『荒城の月』が聖歌になった参照)。
ちなみに、1901(明治34)年当時の綿糸紡績職工平均賃金1日男約30銭、女約20銭〕 (1日115時間労働、残業で18時間になることも少なくなかったという)、物価はビール大瓶19銭、牛肉100g7銭、理髪15銭の時代(朝日クロニクス「週刊20世紀」1901年号)だから、滝の作曲料は今の時代に比すと安いのか高いのか・・・?

「荒城の月」と言えば、音楽の授業で、明治の西洋音楽黎明きにおける近代音楽の代表的な作曲家の一人であるの滝廉太郎の曲として、大多数の人が知っていると思うのだが、このような、瀧廉太郎の知名度に対して、現代、その作詞者である土井晩翠については、どれだけの人がどれだけのことを知っているのだろうか・・・。
正直、そういう私も、土井晩翠が「荒城の月」の作詞者である事は、知っているものの、そのこと意外は以外に知らないのである。それで、お勉強のため、彼のことについて、知らべて、このブログを書いてみようと思ったのである。

(一)
 春 高楼の花の宴 巡る盃影さして
 千代の松が枝(え)分け出でし 昔の光今何処(いづこ)
(二)
 秋 陣営の霜の色 鳴きゆく雁(かり)の数見せて
 植うる剣(つるぎ)に照り沿(そ)ひし 昔の光今何処(いづこ)
(三)
 今 荒城の夜半(よは)の月 変はらぬ光誰(た)がためぞ
 垣に残るはただ葛(かづら) 松に歌(うと)ふはただ嵐
(四)
 天上影は変はらねど 栄枯(えいこ)は移る世の姿
 映(うつ)さんとてか今も尚 ああ荒城の夜半の月

漢詩の伝統が脈打つ格調高いこの新体詩(※5)は、七五調の歌詞(今様形式)と哀切をおびた西洋音楽のメロディが見事に融合した楽曲であり、又、詩の一・二番の「対句」は大変鮮やかであり高い評価がされている。
第1連(連=長い詩を構成する一区切りの単位、聯、節ともいう)は春で花に盃、第2連は秋で霜に雁の取り合わせである。
和歌などの世界で、夏と冬の歌がまったくないわけではないが、それはマイナー的な存在であり、歌にはやはり春と秋こそがふさわしい。また、第1連では栄える様子を、第2連では枯れ果てる様子が描かれている。
そして、第3連、第4連では、荒れ果てた城あとを照らす月。人の世は変わっても、月とそれをとりまく自然はひたすら廻(めぐ)り続ける世の転変を、ぐっと引いた離れた位置から見つめる視線は、晩翠の他の詩でも見られる。
こんな晩翠の男性的な漢詩調詩風は、当時女性的な詩風の島崎藤村と並び称されていた。
この詩の集約とも言える第4連は、“空にある月の姿は昔も今も変わらないが、地上の栄枯盛衰の有様を見て、その時々の姿を写し取ったはずの光は今はない。しかし、今荒れ果てた城跡に立って荒城を照らす月の光を見ると、この城の栄枯盛衰が目の当たりに想像され、まるで当時の光が写し取った光景を自分の目の前に披瀝してくれようとしているように思われる。ああ、荒城にかかる夜半の月よ」というほどの意味なのであろうが、それでは、晩翠がどこの「荒城」をイメージしてこの詞を構想したのだろうか?
晩翠がモデルとしてイメージしていたたであろう場所は、以下参考の※6:『日本ペンクラブ電子文藝館』の物故会員 土井 晩翠には、晩翠が瀧の没後45年祭(昭和22年)に列しての感慨の一文を添えられており、これによると、晩翠が、東京音楽学校からの依頼を受けて、この「荒城の月」を作詞したのは、1898(明治31)年、晩翠28歳の時であり、その時、真っ先に頭に浮んだのは、それより数年前に、第二高等中学東北大学の前身校の一つ)の修学旅行で会津を訪れた際に、間近に目にした鶴ヶ城(若松城)だったようである。
戊辰戦争で壊滅状態となり、有名な白虎隊の悲話も残る鶴ヶ城。そんな、秘話を念頭に置きながらも作詞の上で材料を供したのはやはり、彼の故郷である宮城県仙台市の青葉城(仙台城)址であったようだ。
歌詞一番にある「千代」とは非常に長い年月を意味し、「千代木」(ちよき)が松の異名であること。
また、伊達政宗が、もともと「千代」(せんだい)を「仙台」(仙臺)と書き改め、現在の仙台市につながっているため、仙台出身の晩翠が「仙台」の掛詞である「千代」と書き、「ちよ」と読みを替えて「仙台」のことを暗に示しているとも考えられること。
歌詞二番の「秋陣営の…」の部分は、上杉謙信七尾城攻略の時に詠んだ漢詩 「九月十三夜陣中作」(※7)の「霜は軍営に満ちて秋気清し数行の過雁(かがん)月三更・・・」をふまえたものと思われるし、又、ここに登場するは、東北から北陸にかけての地方で越冬する渡り鳥であこと(宮城県伊豆沼に冬鳥として多く飛来することから1965年には宮城県の県鳥にも指定されている(※8)。
そして、歌詞の三番「垣に残るは唯かづら、松に歌ふは唯嵐」は青葉上の実況である。・・・と、瀧の没後45年祭(昭和22年)に列しての感慨の晩翠の一文にも書かれているからである。
この歌の荒城のモデルとなった場所としては、他にも仙台在住当時の晩翠が、よく立ち寄ったとされる岩手県二戸市の九戸(くのへ)城址も言われており、瀧廉太郎の場合は、自分が子ども時代を過ごした大分県竹田市の岡城址を見て曲を構想したとされており、ほかに、滝の父が仕事の関係で、竹田の前にいた富山県富山市で、小学校1年から3年までの多感な時期を過ごしており、彼が通っていた小学校が富山城の敷地内にあった事などから、富山城址も候補に挙がっており、現在これら5ヶ所に「荒城の月」の歌碑が設置されているようだ。
晩翠は、鶴ヶ城を思い浮かべながらも、彼の故郷の青葉城や他の城での歴史的出来事なども想像しながらの作詞だったのだろう。

土井晩翠(どい ばんすい)の生い立ちや作品などは、『「雨の降る日は天気が悪い」序 』『新詩發生時代の思ひ出』に記載されている自伝や作品紹介(いずれも参考※9:「青空文庫」を参照)等を参考にしながら書くと以下のようになる。
土井晩翠、本名:林吉(りんきち)は、1871年12月5日(明治4年10月23日)、仙台・北鍛冶(かじ)町(現・宮城県仙台市青葉区木町通2丁目)の旧家・土井(つちい)家の長男として生まれた。(本来姓は「つちい」だったが選擧人名簿には「ド」の部にあるので、昭和初期に「どい」と改称したことが「「雨の降る日は天気が悪い」序」(※9参照)に書かれている。
父は、和歌や俳諧をたしなむような教養人で、林吉もその影響から読書好きの少年として育つたようだ。
晩翠の筆名は(そう)の詩人范質(はんち)の詩句「遅遅澗畔松・鬱鬱含晩翠」(遅遅たる澗畔〔かんぱん。澗は、渓谷、谷川の意〕の松鬱鬱〔うつうつ〕として晩翠〔冬枯れの季節になってもなお草木の葉が緑色であること。また、その緑〕を含む)に由来するという。
仙台英語塾を経て、1888(明治21)年18歳で第二高等中学に入学、1894(明治27)年に帝国大学(現:東大)英文科に入学。同年末に結成された帝国文学会に加入しその機関紙である『帝国文学』の編集にも携り新体詩を発表。
1897(明治30)年に大学卒業後、1898(明治31)年にはカーライルの『英雄論』を春陽堂から翻訳出版し、翌・1899(明治32)年には、母校二高教授として帰郷。この年、第一詩集『天地有情』(※9参照)を博文館から出版。「星落秋風五丈原(ほしおつしゆうふうごじようげん)」など、漢語を駆使した悲壮・哀感漂う叙事詩をつくりだし、この詩集で島崎藤村(仙台の東北学院赴任中に執筆した『若菜集』で1897年に文壇登場)と並び称され、「藤晩時代」あるいは「晩藤時代」を築いた。
この晩翠絶好調の時期に東京音楽学校から中学唱歌用の歌詞を委嘱され、「荒城月」(のちの「荒城の月」)も作詩された。
作曲した滝との間に同校が介在したため、晩翠と滝が会ったのはたった一度だけしかないそうだ。
晩翠は、1901(明治34)年6月、私費で欧州遊学に出發し、英・佛・獨・伊を廻り、1904(明治37)年末、日露戰役(1904年2月8日 ~1905年9月5日)の最中に歸朝しているが、この時、ライプツィヒ音楽院に留学した滝が肺結核を患ったため帰国することになり、日本郵船の大型客船「若狭丸」に乗って、同船がイギリス・ロンドン郊外のティルベリー(テムズ川河口港)に寄港した際、姉崎正治と共に滝を見舞い最初で最後の対面をしたという。
晩翠は、帰国の翌年また二高に奉職して以来三十年英語教員を務め、1934(昭和9)年、二高を定年退職し名誉教授となる。
その間、第二詩集『暁鐘』(1901年)、第三詩集『東海遊子吟』(1906年)、などを刊行後、大正期はむしろ英文学者としての活躍がみられ、1924(大正13)年には、イギリスの詩人バイロン没後100周年を期して『チャイルド・ハロウドの巡礼』を翻訳刊行。
妻子に次々と先立たれたことで心霊学にも関心を示すようになり、1946(昭和21)年には財団法人日本心霊科学協会の設立に顧問として関わっている。1949(昭和24)年仙台名誉市民になる。
戦後占領期に漢詩調詩が廃れたため、校歌の作詞にほぼ専念し、母校の木町通小学校をはじめ、日本全国の非常に多くの学校の校歌を作詞している。
1950(昭和25)年に、詩人としては初めて文化勲章も受章している。1952(昭和27)年、急性肺炎のため死去した。

晩翠は、前にも述べたように、1899(明治32)年4月に、処女詩集『天地有情』(※9)を刊行し、この詩集によって、島崎藤村と並び称される詩人として、非常に高い評価を受けるようになった。また、晩翠は、東京帝国大学文科大学そして大学院で英文学の研鑚を積んだ英文学者でもあった。
そんな彼が、12月に、高知県出身の林八枝と結婚(八枝の兄は東京帝国大学英文科で晩翠の一年先輩であり、八枝が在学していた東京音楽学校=現・東京芸術大学音楽学部の研究生に滝廉太郎がいた。)し、1900(明治33)年1月、29歳の時に仙台に戻り、母校である(旧制)第二高等学校の教授となったのだが、晩翠にとって、この年は非常に大きな節目の年ともなった。
晩翠は、前にも述べたように、この年から、仙台の地で教師として、英文学者として、そしてまた詩人として、新たな一歩を踏み出すことなったわけである。
そして、仙台でも、詩を書いていくのであるが、この年から翌年はじめにかけて書いた詩を作品にまとめて、刊行した第二詩集『暁鐘』詩集が上梓(じょうし=出版)された時、詩壇の反応が全くなかったと、以下参考に記載の※12:「東北大学付属図書館報木遣子」にはある。
そして、ただその中で『暁鐘』にふれた唯一と言って良い評論・小山鼎浦(二高を経て、東京帝大文科哲学科卒業。早稲田・関西大学の教師、「東京毎日新聞」の記者を経ての評論家)が書いた「現今の新体詩家 土井晩翠」という評論で、晩翠の『暁鐘』を『天地有情』と対比しながらかなり強く批判しているらしい。
つまり、『天地有情』におさめられた諸作品を読んで、彼のこれからの詩品の大に発展せんことを待望んだが、東京を去って故郷の仙台で教鞭を執りながら、静かな読書に勤しむ生活を送っている。そのような中から生まれた作品が、読者の期待、待望を裏切るものとなってしまっていると言っているようだ。
言い換えると、仙台で作られた晩翠の作品は詩壇の要求を満たすものではもはやあり得ないといったことが、暗に語られているのだ。
第三詩集『東海遊子吟』(1906)が刊行された時にも、詩壇の反応は全くなかった。
雑誌『明星』に新詩社同人の名前で「土井晩翠氏に与ふる書」という長編の評論が発表されており、この評論の内容を大まかに辿ってみると、冒頭のあたりで日本の近代の詩の非常に急速な変化と進展の様を概括し、その上で1904(明治37)年末日本に帰国間もない晩翠に対して「足下が詩人として如何なる位地にあるかを自覚」せよと告げている。
これに続いて、後に『東海遊子吟』(1906年刊行)におさめられることになる作品について徹底した批判を加えて行く。
その批判の趣旨というのは、内容に関しては、陳腐で、平板、常識的であることを、具体的な作品を取り上げて繰り返し指摘。また表現に関しても、粗雑、単調であり、散文的であると言って、非常に痛烈な批判を行っている。
結論的に、この長い評論の最後の部分で、「而して思ふに、足下は終に詩人の資にあらざるなり」と言い。晩翠は詩人としての資質を欠いている、むしろ学者としてあるべきだといっている。そしてもし「足下猶詩人として日本の文壇に立たむと欲せば、足下、詩界の進歩に後るる十年なるを知らざるべかららざるべからず」と述べている。これはかなり厳しい批判であるが、一面で晩翠の詩の本質を突いていると言わざるを得ないのではないかと思う。・・・と言うのである。
このことは、以下参考に記載の※13:「久保忠夫氏の論文『土井晩翠と与謝野鉄幹』」にも詳しく書かれている。
そこでも、「土井晩翠氏に与ふる書」はもの言いは野卑のそしりを免れないが、いっていることは大体首肯出来る。学者の道を、というのも、早く三十一年三月の「帝国文学」の泰西(西の果ての意=西洋。または、西洋諸国)文学と新体詩が「彼〔晩翠〕が希以英仏独等諸文学に精通せる蘊蓄」と書いているように、博学であり、その運用に妙をえてもいた。
たしかに学者への道も選択肢の一つであり、また、詩界の進歩に十年後れているから、詩人として進むなら研究に精進せよというのにもいわれはある。・・・としている。詳しい事に、興味ある方は一読されると良い。

晩翠には気の毒な落ちになってしまったが、晩翠の評価が最も高かった頃の詩、「荒城月」は瀧廉太郎の曲と相俟って最高の名曲となっている。何度聞いても、飽き足らないので、最後に此の曲を聴いて、このブログを終りたい。
「荒城の月」の詩は、東京音楽学校が土井晩翠に懸賞応募用テキストとして依頼したもので、この詩に瀧廉太郎が、曲をつけて入選となった作品だが、メロディーだけで伴奏が無く、後に三浦環に頼まれた山田耕筰がピアノ伴奏を付けたものが今日歌われているものとされてる。
山田耕筰はロ短調から短三度上のニ短調へ移調、ピアノ・パートを補い、旋律にも改変を加えた。山田版は全8小節からテンポを半分にしたのに伴い16小節に変更し、一番の歌詞でいえば「花の宴」の「え」の音を、原曲より半音下げて(シャープをとって)いる。
戦前の中国(中華民國)と満州國、日本で歌手、女優として活躍(悲運の運命を辿ったと言ったほうが良い)した李香蘭(山口 淑子)が戦地慰問でかならず最初に歌ったという歌が、「荒城の月」であったといい、これは1942(昭和1)年古賀政男の編曲になるものだそうだ(※14)。

この歌は戦後、新東宝映画 谷口千吉監督「暁の脱走」(1950年公開。 主演 山口淑子=李香蘭、池部良)に取り入れられ、You Tubeでも見ることができる。
彼女の本格クラシック的歌唱力は幼少時に奉天(現:瀋陽)に住むイタリア人オペラ歌手マダム・ポドレソフのもとで声楽を習い、日本では三浦環にも師事したといわれるだけあって、単なる美貌のアイドルスターの歌ではなく、とても素晴らしいものだ。
私は、若い頃から彼女の歌の大ファンである。是非この曲をきいてください。映像は、戦時中の慰問の姿を自らが再現したともいえる場面である。
荒城の月 山口淑子 - YouTube
以下の曲はデューク・エイセスによるものである。これも味があっていいよね~。
「荒城の月」歌:デューク・エイセス - YouTube
「荒城の月」が、国際的に普及したのは声学家(テノール)の藤原義江が、20代の時、1921(大正10)年、英国公演で絶賛され、米国ビクターの申し入れでレコード化(1925年)したことが大きいという。



(冒頭の画像は、土井晩翠。朝日クロニクル「週刊20世紀」1952年号31Pより借用)
参考:
※1: Kenji Bunko Literature
http://homepage2.nifty.com/~bunko/w/soukyokusyu.htm
※2:宮城道雄の世界
http://www.miyagikai.gr.jp/index.html
※3:うたごえサークルおけらの唱歌(年表)
http://bunbun.boo.jp/okera/w_shouka/shouka_sub1.htm
※4:Moto Saitoh's Home Page
http://www.geocities.jp/saitohmoto/index.html
※ 5:新体詩 とは - コトバンク
http://kotobank.jp/word/%E6%96%B0%E4%BD%93%E8%A9%A9
※ 6:『日本ペンクラブ電子文藝館』
http://www.japanpen.or.jp/e-bungeikan/
※7:日本の漢詩① 上杉謙信 【全日本漢詩連盟】
http://www.zen-kanshiren.com/article/contribution/kaichou_tsuushin/30.html
※8:宮城県のシンボル
http://www.pref.miyagi.jp/profile/symbol.htm
※9:青空文庫:作家別作品リスト:No.1081土井晩翠 
http://www.aozora.gr.jp/index_pages/person1081.html
※10 :范質(はん しつ)
http://juei.kakurezato.com/s-m-hanshitsu.html
※11:鶴田皓の遊学
http://www004.upp.so-net.ne.jp/t-t-aoba/yugaku.html
※12:東北大学付属図書館報木遣子(Adobe PDF)
http://tul.library.tohoku.ac.jp/kiboko/28-4/kbk28-4.pdf#search='%E5%9C%9F%E4%BA%95%E6%99%A9%E7%BF%A0%E6%B0%8F%E3%81%AB%E4%B8%8E%E3%81%B5%E3%82%8B%E6%9B%B8'
※13:久保忠夫氏の論文『土井晩翠と与謝野鉄幹』
http://www.geocities.jp/gendaibungakushi/kubotadao.html
※14:SP歌謡・回顧と展望:古賀政男と「荒城の月」
http://8315.teacup.com/spkikuchi/bbs/244
小さな資料室
http://www.geocities.jp/sybrma/index.html
童謡・唱歌 | 形式: CD
http://www.amazon.co.jp/gp/product/B00009QI0L?ie=UTF8&tag=worldfolksong-22&linkCode=as2&camp=247&creative=7399&creativeASIN=B00009QI0L
日本の旋律
http://kcpo.jp/info/butterfly/melody.html
暁の脱走 - goo 映画
http://movie.goo.ne.jp/contents/movies/MOVCSTD19550/index.html
暁の脱走
http://www.eiga-kawaraban.com/98/98070903.html
バンコク週報>生活文化コラム>李香蘭アジアの時代に
2003年: 1078号(1李香蘭の出現)~1094号(17抗日運動)
http://www.bangkokshuho.com/archive/2003/oldcolumn/hada/enter.htm
2004年: 1095号(18)ゆれ動く心~ 1146号(69)李香蘭との別れ
http://www.bangkokshuho.com/archive/2004/oldcolumn/hada/04enter.htm
2005年:1148号(70「夜来香」リサイタル)~ 1157号(最終話山口淑子、その後)
http://www.bangkokshuho.com/archive/2005/oldcolumn/hada/05enter.htm
『李香蘭』DVD版(2007年)についてのページ
http://www2.komatsu-c.ac.jp/~yositani/rikouran.htm
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