戊辰戦争の主役は『会津藩と庄内藩」であるが、会津藩の悲劇が過大に語られて庄内藩の戊辰戦争は陰に隠れている。
敗れた会津の悲惨さに比べ、連戦連勝だった庄内藩に対し、日本人の判官贔屓もあるのかもしれない。
会津藩28万石に比べ、庄内藩15万石が何故連戦連勝できたのだろう。
その秘密は、軍備の差である。
庄内藩が軍制改革に乗り出したのは慶応3年(1863)という。
第2次征長戦での幕府軍の敗戦を見て、直ちに長沼流軍学を棄て、藩士藩卒一様に「総鉄砲」を命じ藩軍を銃砲隊に統一した。
翌慶応4年正月、鳥羽伏見で旧幕府軍が敗れ、江戸攻撃、会津・庄内追討が必至となると、幕府歩兵隊500、新徴組、大砲組を抱えいれ、庄内に迎えている。
農兵、町兵を銃隊に組織し、無頼の者も受け入れ、戊辰戦争ではヤクザ部隊が活躍している。
とにかく藩民の活用が上手いのだ。
会津の隣、越後の小藩長岡藩も軍制改革が早く、戊辰戦争では長州の山県有朋が率いる最強の奇兵隊を相手に4ヶ月も戦った。
それにしても会津は戦争必至としながら、軍制改革に乗り出したのは慶応4年3月である。幕府歩兵隊の受け入れや諸隊の受け入れも積極的ではなかった。
殆ど藩士だけで戦う事になった。
結果的には、籠城1ヶ月足らずで敗れている。
余りにも古臭い武士道に墨守していた性なのだろうか。
動乱の京都にいながら時勢を読みきれなかった会津は、やっぱり「悲劇」なのだろうか。」
母成峠・戊辰戦争二本松少年隊悲話・そして少年は戦場に消えた/1575円 文芸社
敗れた会津の悲惨さに比べ、連戦連勝だった庄内藩に対し、日本人の判官贔屓もあるのかもしれない。
会津藩28万石に比べ、庄内藩15万石が何故連戦連勝できたのだろう。
その秘密は、軍備の差である。
庄内藩が軍制改革に乗り出したのは慶応3年(1863)という。
第2次征長戦での幕府軍の敗戦を見て、直ちに長沼流軍学を棄て、藩士藩卒一様に「総鉄砲」を命じ藩軍を銃砲隊に統一した。
翌慶応4年正月、鳥羽伏見で旧幕府軍が敗れ、江戸攻撃、会津・庄内追討が必至となると、幕府歩兵隊500、新徴組、大砲組を抱えいれ、庄内に迎えている。
農兵、町兵を銃隊に組織し、無頼の者も受け入れ、戊辰戦争ではヤクザ部隊が活躍している。
とにかく藩民の活用が上手いのだ。
会津の隣、越後の小藩長岡藩も軍制改革が早く、戊辰戦争では長州の山県有朋が率いる最強の奇兵隊を相手に4ヶ月も戦った。
それにしても会津は戦争必至としながら、軍制改革に乗り出したのは慶応4年3月である。幕府歩兵隊の受け入れや諸隊の受け入れも積極的ではなかった。
殆ど藩士だけで戦う事になった。
結果的には、籠城1ヶ月足らずで敗れている。
余りにも古臭い武士道に墨守していた性なのだろうか。
動乱の京都にいながら時勢を読みきれなかった会津は、やっぱり「悲劇」なのだろうか。」
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