英語教育の哲学的探究2

柳瀬陽介が個人の資格で運営する英語教育の研究と実践のためのブログです。

Exploratory Practice

2007年05月06日 | 随想

以下は、この三月に、某教育委員会の連絡協議会であいさつをした時の内容です。

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先日、神戸で開催された英語教育研究の国際会議に出席しましたので、その時に学んだことをお話してあいさつに代えたいと思います。
http://yosukeyanase.blogspot.com/search/label/Exploratory%20Practice


私なりにまとめますと、その会議では英語教育研究の第三の波について討議されました。第一の波は1980年代中頃に標準化された科学的研究の波です。簡単に言いますと、実験心理学の真似をすれば、現場に役立つ知識が得られるのではないかという期待があったわけです。ですが、厳密な実験研究のフォーマットに従おうとしますと、どうも現場の感覚や認識とは離れてしまいます。


そこで第二の波が起こりました。アクション・リサーチです。英語教育界では1990年代中頃までにはずいぶん普及したのではないかと思います(日本はちょっと遅れましたが)。第一の波に比べて、第二の波は、現場でアクションを起こすことを重視して、そこから学ぼうという姿勢を明示しました。これもよかったのですが、折からの時代の風潮にあおられ、現場はとにかく何かアクションを起こすことを次々に求められました。予算獲得や「アカウンタビリティ」のために、他人にわかるような形で次々にアクションを起こし、その結果を第三者にもわかるような形で測定し報告せよといった命令が各地で実践者に下されました。その中で多くの現場が「改革疲れ」を起こしてきました。「また次のアクションか。そして報告書か。勘弁してくれよ」といったわけです。


そうして第三の波が起こりつつあります。それがExploratory Practiceです(ここではとりあえず「探索的実践」あるいは「探求的実践」と訳しておきます)。これはアクション・リサーチよりも、もっと現場の実情に適った活動をしてゆこうとする動きであると私は理解しています。本日は時間がありませんからその主な特徴を二つだけあげておきます。(cf http://www.momiji.h.kyoto-u.ac.jp/activities/lecture1.htm )


一つは理解を重んずるということです。改善のためのアクションを起こすことも大切ですが、そのまえに実践に関わる全ての者がしっかりと自分たちの実践を理解しておくことが重要だというわけです。「理解」なんて報告書に書きにくい事は、「アカウンタビリティー」全盛の昨今では軽視されがちかもしれませんが、相互理解なくして、共同体の実践がうまくゆくはずはありません。また人間は、それが子どもであれ、大人であれ、自分をちゃんと理解してくれる人のためには、何かをしよう、何とか役に立とう、善処しよう、とするものです。まずは理解を、それがたとえ数値になりにくいにせよ大切にしてゆこうというのがExploratory Practiceの第一の特徴です。


第二の特徴は、inclusivenessということです。関係者全員を巻き込むことです。Exploratory Practiceでは、研究者としての教師は学習者を、独自の実践者と考え、学習者の声をできるだけ聞き取ろうとします。教師が聞きたいことだけを聞くのではありません。学習者は「研究データ源」ではないのです。学習者の生態をありのままに理解しようとするのです。もちろん学習者の声には明らかに間違った見解も入っているかもしれません。でもそれならそれで、なぜそのような見解を抱くように至ったのか、そもそもそれは間違っていると本当にいえるのかと、学習者をもっとよく理解しようとするのがExploratory Practiceの特徴といえるかと思います。


考えてみますと、今までは「研究者(あるいは行政者)>教師>学習者」というヒエラルキーがなかったでしょうか。研究者(あるいは行政者)は、教師をあまり理解しようとしないままに次々に「正しいこと」を押し付けます。教師は学習者を理解しないままに、勉強を押し付けようとします。そのような権力関係で相互理解の可能性をつぶしてはいけないと思います。その意味でExploratory Practiceは教育実践の民主化であり人間化であると私は考えています。


現在、小学校への英語教育導入で全国各地が大騒ぎになっています。行政の皆様にお話している研究者の端くれとしての私は、行政者と研究者が、まず小学校の先生方のことをよりよく理解しようとすることが重要であることを自戒を込めて訴えたいと思います。小学校の先生方の不安や具体的な問題を無視してはいけません。それらを正しく理解することからすべてが始まります。そして小学校の先生方が、新しい英語という教科(あるいは活動)でも、引き続き児童のことをよく理解することを続けることが必要です。決して「これが時代の流れだから」とか「もう決定したことだから」といった曖昧な言葉で、権力を押し付けて、私たちのよりよい相互理解による教育実践の自己改善の芽を摘んではいけないと思います。


児童だけでなく小学校の先生方の'quality of life'を守るのが行政者そして研究者の仕事ではないでしょうか。


統合的な英語教育研究

2007年05月06日 | 随想

2007年3月30日に田尻悟郎先生(島根県東出雲町立東出雲中学校教諭、4月より関西大学教授)は、NHK教育テレビに二回登場しました。最初は「英語デビュー大作戦」の再放送、二回目は地味ですが非常に評価の高い「視点・論点」でした。最初の番組で蝶ネクタイをして転げまわって英語の楽しさを伝えていた田尻先生が、「視点・論点」では正面からカメラを向き、明確な論旨で切々と「教師の力量」について語ったところに、私は田尻先生の引き出しの多さというか奥深さを感じました。

「視点・論点」に関しましては、あるメーリングリストで次のようなまとめが流れましたので、ここでもそのまとめを投稿者の許可を得て掲載します。

●「良い授業」とは一方的な知識の注入ではなく、生徒が自ら学び、仲間と協力し、知ることの喜び、関わることの喜びを感じられることの授業である。

●生徒への話し方も重要なポイントであり、教師の声のトーン、言葉の選択、表情などは、生徒が心を開くかどうかの分かれ目となり、これもプロの教師として求められる力量である。

●生徒指導というと、問題が起こった後の事後指導というイメージが強い。本来は生徒をどのように育てたいかという、明確な目標を持ち、在学期間中だけではなく、卒業後何十年にもわたって、生徒がたくましく、心豊かに生きていくための指針を与えることが生徒指導である。

●生徒に寄り添い、鍛え、共に汗を流すことによって、生徒は教師を信頼し、自らを高めようとする。

●教員の資質向上のため、教育委員会が研修会や研究会を実施しているが、必ずしも成果を上げているとはいえない。

●研修会の成功の鍵を握るのは、研修会の内容と講師、参加する教員の意欲とプロ意識である。

●それぞれの先生方は研修で学んだことを基に、自ら継続的に研鑽し、生徒からアンケートをとって、授業のアセスメントを行ったり、作品や活動、レポートなど、生徒のアウトプットを分析したりして、授業の質を高める努力をして頂きたい。

●教師の力量として案外見逃されがちなのが、行事で生徒を育てる力である。

●行事は単にやればいいというものではなく、それぞれの行事で生徒をどのように成長させるかという視点が必要である。

●残念なことに行事についての研修はほとんどない。

●活気のある学校は、生徒会活動が活発であり、行事に積極的に関わる姿勢は、企画力・運営力・協調性など、社会に出てから必要とされる力を育む。


こういった論点だけ見ますと、すぐに「これは英語教育ではない」などとコメントする英語教育研究者(あるいは時として英語教師)の方々もいらっしゃいます。ですが、私はあの素晴らしい田尻英語教育実践は、こういった問題意識を持ち続け、かつそれを行動にしていったからこそ可能になったと考えています。

学校教育において、英語の授業は、孤立して存在しているわけではありません。生徒は「英語学習者」「第二言語習得者」だけであるわけではありません。英語の授業は、生徒が生きる社会状況、学校文化、教師や生徒間との人間関係の中に成立しているものです。生徒は「英語学習者」である前に人間です。思春期の揺れ動く心をもった人間です。そういった人間的側面を無視して、あるいは捨象して、よい英語教育実践や英語教育研究ができるとは私は思えません。そもそも英語教育とは英語という言語を通じてのコミュニケーションの教育なのですから。

もちろん私とて、研究などにおいて、あえて興味範囲を絞り、専門性を高めることの利点を否定などしません。そういった専門化のないところには研究のブレイクスルーも生まれないでしょう。しかし細分化された専門的知識は、つねに統合的で複雑な現実を背景にして考察されなければなりません。また統合的で複雑な現実を、過度に単純化することなく、そのままに記述しようとする研究も必要かと思います。たとえそれが「多くの専門(=科) に分かれた学問(=学)」という意味での「科-学」にふさわしくないにせよ。( ‘Science’という言葉も、ラテン語で「知識」を意味する ‘scientia’ からきていますが、それも、 ‘from scient-, sciens (present participle of scire to know) + -ia -y; akin to Latin scindere to cut, split’ とMerriam-Websterは語源解説しています)。

英語教育研究も、もっと学習者のいる人間的状況について、実証的かつ理論的にアプローチするべきだと私は考えます。