申し訳ありません、移転します

2007年にこのブログに移転した「英語教育の哲学的探究2」ですが、このブログは、英語の処理機能とFirefoxとの相性がよくないので、本日2007年5月12日(土曜)より、「英語教育の哲学的探究2」は、

http://yanaseyosuke.blogspot.com/

へ移転することとしました。

お手間をおかけして誠に恐縮ですが、もしよかったらブックマークの変更をお願いいたします。ご迷惑をお詫びします。
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Zone of Proximal Development

子どもは周りの社会-文化的環境に助けられて言語も習得するというポイント(Zone of Proximal Development: ZDP)を印象的にするために、Leo van Lier (2004) The Ecology and Semiotics of Language Learning: A Sociocultural Perspective. Kluwer Academic Publishers: Bostonの37ページで使われた表現です。思わず笑ってしまったので、ここに掲載しておきます。

For example, if in response to the baby's "Goh!" above the adult had responded: "Notice, small fellow, that this particular canine, which you have somewhat amgiguously referred to as 'Goh,' -- presumably your immature approximation of the word 'dog' -- is of the sub-species 'mutt,' characterized by crooked paws and lopsided ears, found originally in the foothills of Neasden, and recently promoted to the status of domestic companion in the Bavarian hinterland," the baby might not have made much headway linguistically, cognitively or socially, in spite of the vastly superior level of information provided. The close connection between the learners' actions and the adults' rejoinder relates to the notion of the ZPD.


http://en.wikipedia.org/wiki/Zone_of_Proximal_Development
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知識人の役割

以下は、ある官僚の方が、文系の研究者を前に行った講演の要旨です。旧ホームページを整理したら出てきたので、このブログでも再掲します。

世論のemotionalな暴走を牽制し、counterbalanceとしての長期的かつ抽象的思考を提供するのが「知識人」の役割である。現代日本では学者は自分の研究の蛸壷に逃げ込むか、大衆と同化し評論家になるかのどちらかに傾いていることが多く「知識人」としての役割を果たしていない。また日本にはquality paper等の知識人のforumもない。知的エリートが存在しない(もしくはその存在を認めない)のは、世界的な観点からすれば歴史的にも地域的にも極めて特殊なことである。実務家の一人としては、日本の学者----特に文系の学者----に頑張って欲しいと願わざるを得ない。しかし日本のアイロニーの一つとして、憲法で守られている分野の競争力が弱いということがある。皆さんの自浄作用を期待します。

この言葉からすると、私はとても知識人の役割を果たしていません。妙に世間に迎合した安直な言葉をウェブに垂れ流す評論家もどきになっているからです。「ウェブは基本的に自己顕示欲の巣窟」ということを私はこの10年余りのネット生活で感じるようになってきました。もっときちんとした学術的な仕事をしなければならないと思います。

ただ私はウェブも自己顕示欲も善用できると楽観もしています。ウェブという公共空間も、そこに集う各人の自己顕示欲も、うまく使いこなせば、良識ある知的共同体を日本の英語教育界に作り出すことに貢献できると信じています。ブログを続けている次第です。

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Exploratory Practice

以下は、この三月に、某教育委員会の連絡協議会であいさつをした時の内容です。

******


先日、神戸で開催された英語教育研究の国際会議に出席しましたので、その時に学んだことをお話してあいさつに代えたいと思います。
http://yosukeyanase.blogspot.com/search/label/Exploratory%20Practice


私なりにまとめますと、その会議では英語教育研究の第三の波について討議されました。第一の波は1980年代中頃に標準化された科学的研究の波です。簡単に言いますと、実験心理学の真似をすれば、現場に役立つ知識が得られるのではないかという期待があったわけです。ですが、厳密な実験研究のフォーマットに従おうとしますと、どうも現場の感覚や認識とは離れてしまいます。


そこで第二の波が起こりました。アクション・リサーチです。英語教育界では1990年代中頃までにはずいぶん普及したのではないかと思います(日本はちょっと遅れましたが)。第一の波に比べて、第二の波は、現場でアクションを起こすことを重視して、そこから学ぼうという姿勢を明示しました。これもよかったのですが、折からの時代の風潮にあおられ、現場はとにかく何かアクションを起こすことを次々に求められました。予算獲得や「アカウンタビリティ」のために、他人にわかるような形で次々にアクションを起こし、その結果を第三者にもわかるような形で測定し報告せよといった命令が各地で実践者に下されました。その中で多くの現場が「改革疲れ」を起こしてきました。「また次のアクションか。そして報告書か。勘弁してくれよ」といったわけです。


そうして第三の波が起こりつつあります。それがExploratory Practiceです(ここではとりあえず「探索的実践」あるいは「探求的実践」と訳しておきます)。これはアクション・リサーチよりも、もっと現場の実情に適った活動をしてゆこうとする動きであると私は理解しています。本日は時間がありませんからその主な特徴を二つだけあげておきます。(cf http://www.momiji.h.kyoto-u.ac.jp/activities/lecture1.htm )


一つは理解を重んずるということです。改善のためのアクションを起こすことも大切ですが、そのまえに実践に関わる全ての者がしっかりと自分たちの実践を理解しておくことが重要だというわけです。「理解」なんて報告書に書きにくい事は、「アカウンタビリティー」全盛の昨今では軽視されがちかもしれませんが、相互理解なくして、共同体の実践がうまくゆくはずはありません。また人間は、それが子どもであれ、大人であれ、自分をちゃんと理解してくれる人のためには、何かをしよう、何とか役に立とう、善処しよう、とするものです。まずは理解を、それがたとえ数値になりにくいにせよ大切にしてゆこうというのがExploratory Practiceの第一の特徴です。


第二の特徴は、inclusivenessということです。関係者全員を巻き込むことです。Exploratory Practiceでは、研究者としての教師は学習者を、独自の実践者と考え、学習者の声をできるだけ聞き取ろうとします。教師が聞きたいことだけを聞くのではありません。学習者は「研究データ源」ではないのです。学習者の生態をありのままに理解しようとするのです。もちろん学習者の声には明らかに間違った見解も入っているかもしれません。でもそれならそれで、なぜそのような見解を抱くように至ったのか、そもそもそれは間違っていると本当にいえるのかと、学習者をもっとよく理解しようとするのがExploratory Practiceの特徴といえるかと思います。


考えてみますと、今までは「研究者(あるいは行政者)>教師>学習者」というヒエラルキーがなかったでしょうか。研究者(あるいは行政者)は、教師をあまり理解しようとしないままに次々に「正しいこと」を押し付けます。教師は学習者を理解しないままに、勉強を押し付けようとします。そのような権力関係で相互理解の可能性をつぶしてはいけないと思います。その意味でExploratory Practiceは教育実践の民主化であり人間化であると私は考えています。


現在、小学校への英語教育導入で全国各地が大騒ぎになっています。行政の皆様にお話している研究者の端くれとしての私は、行政者と研究者が、まず小学校の先生方のことをよりよく理解しようとすることが重要であることを自戒を込めて訴えたいと思います。小学校の先生方の不安や具体的な問題を無視してはいけません。それらを正しく理解することからすべてが始まります。そして小学校の先生方が、新しい英語という教科(あるいは活動)でも、引き続き児童のことをよく理解することを続けることが必要です。決して「これが時代の流れだから」とか「もう決定したことだから」といった曖昧な言葉で、権力を押し付けて、私たちのよりよい相互理解による教育実践の自己改善の芽を摘んではいけないと思います。


児童だけでなく小学校の先生方の'quality of life'を守るのが行政者そして研究者の仕事ではないでしょうか。

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「俺がこの世を変えてやる」の危うさ

研究とは時にあまりにもまどろっこしく、役に立たないもののようにも思えますが、クールな態度というのは堅持しなければならないものでしょう。身体運動の実践家の言葉です。

現在の私は、あくまでも縁のあった人達に、現代の常識として広まっているトレーニング法や稽古法を見直し、発想を転換してもらうことを促すために活動しているのであって、"正しい"稽古法を広めているわけではないのである。


 また、私のこうした立場の堅持は、かつて「これが正しい」とか「最高」と言って絶対化して人々に普及させようとした大小のカリスマ達が繰り返してきた結末の惨状が、あまりにも明確に目に浮かぶからかもしれない。


 「俺がこの世を変えてやる」という意気込みは、いつの間にか支配欲に呑み込まれ、名誉欲に転がされ、権力欲に乗っ取られ、"世の為""人の為"と言いな がら、そうした諸欲の泥沼から抜けられなくなって、周りを見回せば自分の顔色をうかがうイエスマンばかりに取り巻かれているという事になっていたりする。


甲野善紀 

http://www.shouseikan.com/zuikan0703.htm#4

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生きるために許す

「神が私たちの罪を許したように(容疑者の罪を)許したい。簡単なことではない。だが、憎めばそこから動けなくなる。明日を生きるためにも、許したい」。

銃乱射事件で孫娘二人を殺されたアーミッシュのイーノス・ミラーさん(63)の言葉です。(毎日新聞2007年4月5日)


敵を許すことは、聖書が教えることです。しかし聖書の教えは生きるためのものです。違反する人を罰しようとする戒律や律法ではなく、守ろうとする人を生かそうとするのが聖書の教えかと思います。

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統合的な英語教育研究

2007年3月30日に田尻悟郎先生(島根県東出雲町立東出雲中学校教諭、4月より関西大学教授)は、NHK教育テレビに二回登場しました。最初は「英語デビュー大作戦」の再放送、二回目は地味ですが非常に評価の高い「視点・論点」でした。最初の番組で蝶ネクタイをして転げまわって英語の楽しさを伝えていた田尻先生が、「視点・論点」では正面からカメラを向き、明確な論旨で切々と「教師の力量」について語ったところに、私は田尻先生の引き出しの多さというか奥深さを感じました。

「視点・論点」に関しましては、あるメーリングリストで次のようなまとめが流れましたので、ここでもそのまとめを投稿者の許可を得て掲載します。

●「良い授業」とは一方的な知識の注入ではなく、生徒が自ら学び、仲間と協力し、知ることの喜び、関わることの喜びを感じられることの授業である。

●生徒への話し方も重要なポイントであり、教師の声のトーン、言葉の選択、表情などは、生徒が心を開くかどうかの分かれ目となり、これもプロの教師として求められる力量である。

●生徒指導というと、問題が起こった後の事後指導というイメージが強い。本来は生徒をどのように育てたいかという、明確な目標を持ち、在学期間中だけではなく、卒業後何十年にもわたって、生徒がたくましく、心豊かに生きていくための指針を与えることが生徒指導である。

●生徒に寄り添い、鍛え、共に汗を流すことによって、生徒は教師を信頼し、自らを高めようとする。

●教員の資質向上のため、教育委員会が研修会や研究会を実施しているが、必ずしも成果を上げているとはいえない。

●研修会の成功の鍵を握るのは、研修会の内容と講師、参加する教員の意欲とプロ意識である。

●それぞれの先生方は研修で学んだことを基に、自ら継続的に研鑽し、生徒からアンケートをとって、授業のアセスメントを行ったり、作品や活動、レポートなど、生徒のアウトプットを分析したりして、授業の質を高める努力をして頂きたい。

●教師の力量として案外見逃されがちなのが、行事で生徒を育てる力である。

●行事は単にやればいいというものではなく、それぞれの行事で生徒をどのように成長させるかという視点が必要である。

●残念なことに行事についての研修はほとんどない。

●活気のある学校は、生徒会活動が活発であり、行事に積極的に関わる姿勢は、企画力・運営力・協調性など、社会に出てから必要とされる力を育む。


こういった論点だけ見ますと、すぐに「これは英語教育ではない」などとコメントする英語教育研究者(あるいは時として英語教師)の方々もいらっしゃいます。ですが、私はあの素晴らしい田尻英語教育実践は、こういった問題意識を持ち続け、かつそれを行動にしていったからこそ可能になったと考えています。

学校教育において、英語の授業は、孤立して存在しているわけではありません。生徒は「英語学習者」「第二言語習得者」だけであるわけではありません。英語の授業は、生徒が生きる社会状況、学校文化、教師や生徒間との人間関係の中に成立しているものです。生徒は「英語学習者」である前に人間です。思春期の揺れ動く心をもった人間です。そういった人間的側面を無視して、あるいは捨象して、よい英語教育実践や英語教育研究ができるとは私は思えません。そもそも英語教育とは英語という言語を通じてのコミュニケーションの教育なのですから。

もちろん私とて、研究などにおいて、あえて興味範囲を絞り、専門性を高めることの利点を否定などしません。そういった専門化のないところには研究のブレイクスルーも生まれないでしょう。しかし細分化された専門的知識は、つねに統合的で複雑な現実を背景にして考察されなければなりません。また統合的で複雑な現実を、過度に単純化することなく、そのままに記述しようとする研究も必要かと思います。たとえそれが「多くの専門(=科) に分かれた学問(=学)」という意味での「科-学」にふさわしくないにせよ。( ‘Science’という言葉も、ラテン語で「知識」を意味する ‘scientia’ からきていますが、それも、 ‘from scient-, sciens (present participle of scire to know) + -ia -y; akin to Latin scindere to cut, split’ とMerriam-Websterは語源解説しています)。

英語教育研究も、もっと学習者のいる人間的状況について、実証的かつ理論的にアプローチするべきだと私は考えます。

 

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やすきには流れない

以下は、メディアの自己批判ですが、私は自戒の言葉として読みました。

学会で、授業で、講演で、ネットで、私は過度の単純化をしていないか。そうやって自分の勉強不足をごまかしていないか。うーん。きちんと勉強しなければ。

私たちメディアは今、自らやすきに流れていると思う。読者・視聴者のレベルに合わせるといいながら、実は自分のレベルが低いから面倒な話を避けているのではなかろうか。ややこしい話を分かりやすく説明するには一段と深い取材、勉強が必要だからだ。
で、物事の複雑さに目をつぶり、すぐ白か黒か、敵か味方かを決めつける。結果、過激で勇ましい方が勝ちとばかりに、世には攻撃的な言葉があふれる。

        与良正男「やすきには流れない」毎日新聞2007年4月23日

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保守とは何か

私という人間を形容する言葉は何だろう、と思っていたら"liberal conservative"という言葉が浮かんできました。(けっこう暇だね、私も)

私は、文化的・政治的には"liberal"、というより「ストライクゾーン広し!」のような人間かと思いますが、本質的なところでは、口語でいうところの「おそれ」です。

果ては全体主義的国家から、末は官僚主義まで、私は、人工的な計画の実施をけっこう「恐れ」ています。ハイエクのいう「設計的合理主義」--世界や人生を設計図どおりに作り変えようという知性--を警戒しています。そのような知性の驕慢にはしることにより、私たちが気づいていないかもしれない昔からの知恵が失われているかもしれないことを「怖れ」ています。

さらには、人間にはなかなか理解しがたいが、実は真にして義なることがあるのではないかと「畏れ」てもいたりします。ですからこの世俗的な日本の中の、「科学主義」がしばしば見られる中途半端な人文社会系の学界に属するにもかかわらず「神」などを信じたりしています。私は本質的なところで"conservative"なのではないかと最近思うようになってきました。

まあ、歳を取ってきただけのことかもしれませんが。

 

下は、西部邁氏の言葉です。

人間は合理的なことしか理解できないわけね、でも自分の理解を超えた不合理なことがある、だから信じるんだと。自分には保守すべきものが何であるか分かりやすく言うことが難しい。難しいからこそ、それがあるはずだと探し始める。ところが、世間の右翼や自称保守は、保守すべきものが「ここにある」と思ってる。そんなものがあれば苦労はないって。

西部邁「保守とは何かを考える」毎日新聞2007年4月24日

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歯磨きとシャワー

この「信仰」カテゴリー記事は、柳瀬の個人的信仰を告白するものです。このような記事に興味がない方は、どうぞ読むのをお控えください

 私が信仰の薄い者であることは、日頃の私の言動を知る者にとっては周知のことですが、今回の二週間の海外出張でも私は聖書を携行せず、毎日の聖書通読(およびそれに伴なう祈り)と日曜の礼拝も欠席してしまいました(一週目は旅程の都合で、二週目は周りで礼拝をしている教会をきちんと探す努力を怠ったためです)。「まあ、二週間ぐらい大丈夫でしょう。聖書は重いし。」というのが私の気持ちでした。
 実際、私が教会に行き始めて間もない頃に、毎日の聖書通読を勧められた時も、「毎週礼拝に行っているのだから、それ以上に信仰に時間を使わなくてもよいでしょう」と思っていたくらいです。
 ですが毎日の聖書通読は歯磨き、日曜の礼拝はシャワーのようなものでした。私は通常一日三回歯を磨き、一回はシャワーを浴びます。ごくたまにですが、忙しくて歯磨きやシャワーを欠くこともあります。ですが、まったく歯も磨かないし、シャワーも浴びない日が数日続いたらどうなることでしょう。あるいは二週間!きっと自分でも気持ち悪くてたまらないし、周りの人もそれ以上に不快に思うでしょう。
 本日、二週間ぶりに礼拝に出て聖書に接し、祈りを捧げてみると、自分が人生の歯磨きもしていないしシャワーも浴びていない人間になっていることに気づきました。
 毎回の歯磨きを感動しながらする人が少ないように、毎日の聖書通読も常に感涙にあふれることは少ないかもしれません。毎日のシャワーに人生の再生を感じる人が少ないように、毎週の礼拝も完全なる再生であると感じることも少ないかもしれません。しかし聖書通読と礼拝は続けるものかと思いました。少なくともそれは私を少しでも罪から遠ざけてくれます。そしてしばしば歯磨きやシャワーとは比較できない深い魂の喜びをもたらしてくれるものであることは、私がこれまでのわずかの信仰生活でも何度も体験していることです。
 私のような罪多き人間は、せめて人生の歯磨きとシャワーを怠るまいと思いました。
 最後に聖書の言葉を引用します。

 

 

箴言第三章第五節-第七節

(新改訳第三版)
心を尽くして【主】に拠り頼め。
自分の悟りにたよるな。
あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ。
そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。
自分を知恵のある者と思うな。
【主】を恐れて、悪から離れよ。

(New International Version)
Trust in the LORD with all your heart
and lean not on your own understanding;
in all your ways acknowledge him,
and he will make your paths straight.
Do not be wise in your own eyes;
fear the LORD and shun evil.

 

 

罪深き私を洗礼に導いてくださった神様に感謝します。どうぞ私がこれ以上罪に陥ることなきようお助け下さい。アーメン

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“The Religiousness of Science”

“The Religiousness of Science”
Einstein in The World As I See It.

The scientist is possessed by the sense of universal causation. … His religious feeling takes the form of a rapturous amazement at the harmony of natural law, which reveals an intelligence of such superiority that, compared with it, all the systematic thinking and acting of human beings is an utterly insignificant reflection.  This feeling is the guiding principle of his life and work, in so far as he succeeds in keeping himself from the shackles of selfish desire.

Quoted in The New Yorker, April 2, 2007, p. 77

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Thinking in the blogshpere

Jeremy WaldronによるWhat Would Hannah Say?(The New York Review of Books, March 15, 2007, pp. 8-12)からの引用です。

ハンナ・アレントは考えること(thinking)の重要性を説き続けました。

Arendt was asked once what she told her students to do during the events of the 1960s and 1970s.  She dismissed the question angrily: "My God!  These are adults!  We are not in the nursery!"
   The worst thing about the question "What would Hannah do?" is the likelihood that it -- or the cult that generates it -- becomes a substitute for thinking for ourselves.  The nature of thiking is one of the most important concerns of Arend's social and political theory.  Thinking is the "habit of examining whatever happens to come to pass or to attract attention"  in inner dialogue, in a sort of conversation with oneself, where every mental reaction is subject to criticism and in which the inner critic is also held to answer back and forth. (p.12)

うーん、しかしアレントを、自分の中の複数の参照枠の一つとして用いるなら「アレントならどう考えるだろう」というのも悪くはないと私は思うのですが・・・。しかし著者は続けます。

The paraphernalia of thoughtlessness is legion.  Clichés and jargon, stock phrases and analogies, dogmatic adherence to established bodies of theory and ideology, the petrification of ideas -- these are all devices designed to relieve the mind of the burden of thought, while maintaining an impression of intellectual cultivation.  Could the question "What would Hannah think?"  become a device of this sort?  I very much fear that it might, and that we have to find ways of engaging with her work that do not contribute to this danger.  (p. 12)


なるほど。考えてみますと、このブログ空間というのは「無思考空間」になりつつあるのかもしれませんね。常套句やら何やらという上の指摘はそのまま当てはまりそうですし、"What would he/she think?"どころか"What does he/she think (or say)?"ばかりに関心が移りかねませんからね。

その意味で、このブログ空間に必要なのは、静かさと相互信頼なのかもしれません。

Thinking is possible, she [Arendt] says, among people who know how to talk back and forth with one another -- that's how one learns to think.  But thinking will atrophy in an environment that lacks the stillness that allows us to concentrate in inner dialigue or, more ominously, in a social environment where distrust among people makes first outer conversation, then inner conversation impossible.  (p. 12)

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Person of the year in 2006

ご承知のように2006年はYouであり、
Web2.0やYouTubeなどが取り上げられました。

その中で比較的冷静だと思われたのは
Steven JohnsonによるIt's all about us
というエッセイ。

TIME December 25, 2006 /

冒頭は
If Web 1.0 was organized around pages, Web 2.0 is organized around people.
で始まり、

For some, it has power-to-the-people authenticity. For others, it signals the end of quality and professionalismなどと続きます。

しかしなるほどと思わされたのは次の箇所。

The fact is that most user-created content on the Web is not challenging the authority of a traditional expert. It's working in a zone where there are no experts or where the users themselves are the experts.

活字型旧メディア強しといったところでしょうか。


そしてWeb 2.0の恩恵をもっともこうむるのはlocal communityに関することだろうと予測。

確かにそうかもね。
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The right kind of globalization

Muhammad Yunasの言葉です。

I suppose globalization ... but it must be the right kind of globalization.
The rule of 'strongest takes all' must be replaced by rules that ensure the pooerest have a place and a piece of the action.
TIME, December 25, 2006.

凡庸といえばあまりに凡庸。
しかしこの当たり前さこそは尊重しなければならないと思います。
凡庸だからといって馬鹿にすることは、自分も時折やってしまうことだけど、止めにしよう。
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Friedman and Galbraith

TIME, December 25, 2006の物故者特集で、
Milton FriedmanについてはLawrence Summersが

If Keynes was the most influential economist of the first half of the 20th century, Friedman was the most influential of the second half. Republican Richard Nixon once pointed out that "we are all Keynesians now." Equally, any honest Democrat will admit that we are all Friedmanites now. (p. 102)

とフリードマンの影響力の強さを強調。

一方、John Kenneth Galbraithについては、
Amartya Senが次のように描写。

If Walter Bagehot was right to think that "one of the greatest pains to human nature is the pain of new idea," then John Kenneth Galbraith caused a lot of pain in the world. He forced people to think and rethink about an astonishingly broad range of ideas. (p. 100)

これを比べただけでも私はガルブレイスの方が好きです。
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