はしだてあゆみのぼやき

シナリオや小説を書いてる橋立鮎美が、書けない時のストレスを書きなぐる場所

いち原作ファンとして映画版『この世界の片隅に』の見過ごせない改変について その5

2017年03月20日 | Weblog
5.問題提起2:すずは愛国婦人? 彼女は何に激怒したのか?

 本作のクライマックスの一つである、玉音放送前後の描写について読み解いていきたいと思います。
 そこで、「すずは愛国婦人だったのか?」という問いを立てたいと思います。

 映画版の感想を読んでいて驚いた点のひとつに、すずを愛国婦人(=戦争をする軍や国に積極的に協力する女性)と解釈している人が少なからずいたことです。
 確かに、原作漫画でも能動的な解釈が不可欠で、読み取るのが大変な箇所ではあります。すずを愛国婦人と誤解する要素があるのも理解できますが、原作漫画を精読して「すずは愛国婦人ではありえない」という結論に達していたので違和感が大きかったのです。

 それまで軍や戦争を遠くのもの、自分には直接関係のないものとして遠ざけてきた、または意識してこなかったすずという女性が、玉音放送の直後に逆上して徹底抗戦を叫んだ。
 この心情の変化が『この世界の片隅で』という作品の要の一つであることは間違いありません。とても長くややこしい検証となると思いますが、お付き合いいただけたら幸いです。

(1)映画版での描き方を読み解いてみる

●放送前の状態を振り返っておく

 すずの激昂を検証するにあたって、ユーカリの木から爆撃機(B29?)を見上げるところから彼女の心情を確認していきましょう。

 「そんな暴力に屈するもんかね」

 原作漫画にもあった、“敵”(直接的には爆撃機であり、交戦相手である米軍および連合国軍)に対して抵抗する意思を初めて見せる台詞です。後に玉音放送の直後に怒りを爆発させる、怒れるすずの萌芽とも言える場面です。
 意外なことに、すずはこの瞬間まで“敵”について口にすることはありませんでした。怒りや反発を見せることはもちろん、話題にすることすらしていません。姪晴美と右手を奪った爆撃に対しても、呉の市街地を焼け野原にした空襲に対しても、敵を意識することはありませんでした。代わりに、何もできなかった自分を責め、自分の心が歪んでいると認識して心が壊れてしまいました。
 普通の主婦どころか、相当にユニークな精神の持ち主です。
 そんなすずがついに“敵”を認識して対抗心を見せるのですが、きっかけは原爆――広島から障子を飛ばしてくるほどの圧倒的な暴力だったと見るのが自然です。


 次の場面では、米軍の爆撃機がばら撒いた伝単(ビラ)を丸めて落とし紙(便所用の尻拭き紙)を作っています。ここで映画版で追加されたすずの台詞に注目したいと思います。

 「何でも使うて暮らしつづけるのがうちらの戦いですけん」

 今まで戦争を遠ざけ、何が敵であるかも意識してこなかったように生きてきたすずが、暮らしを続けることを「うちらの戦い」と認識しはじめたという重要な改変です。
 では、ここですずが口にする「戦い」とは誰とのどういう戦いでしょうか? 当然、この時点での「戦い」と言えば大東亜戦争であり、敵は米軍をはじめとする連合国であると解釈するのが自然でしょう。

 日常を破壊する“戦争そのもの”という抽象的なものから、日常生活をなんとか守ろう、屈するまいとしているという解釈をする人もいるかもしれません。けれど、すずが“戦争そのもの”と戦う決意を固めていたのであれば、玉音放送を聞いた直後に徹底抗戦を叫んで戦争継続を訴えたことと決定的に矛盾します。この矛盾を解消しないかぎり、ここでの「戦い」の敵は、国が戦っている米軍(連合国)と解釈せざるを得ないでしょう。
 実際、この時点ですずが戦争を遂行しているもう一つの勢力、日本(軍)を敵や暴力で抑圧してくる存在として認識している描写は全くありません。


●怒りの瞬間

 こうして大東亜戦争に主体的に参加する意識をもったすずに、8/15がやってきます。
 ノイズまみれの玉音放送を聞いたすずは、淡々と終戦を受け入れる近所の人々の前で怒りを爆発させます。そして、呆然とするご近所さんをよそに、怒りのまま水を汲みに走ります。家の陰で晴海を思って泣き崩れる義姉・径子を傍目して……。

 ここに至るまでの流れを考えると、ここでのすずの怒りの対象は“敵”つまり米軍に代表される連合国軍であると解釈するのが最も自然であるように思えます。

 米軍(=原爆という圧倒的暴力)への怒りや憎しみからようやく徹底抗戦を決意したのに、国が戦争を辞めると一方的に宣言してしまった。
 まだ、敵への怒りは収まっていない。
 最後まで戦いぬきたい。
 この結末には納得できない。

 映画版を見ていると、すずの憤りをこのように解釈したくなります。直前のシーンで自分なりの「戦い」をすると口にしているのですから。すずを戦争協力に積極的な愛国婦人だったと解釈する感想を散見したのも、映画での描写を一つ一つ辿っていくと頷けます。

 しかし、果たしてこの解釈でいいのでしょうか?
 原作との相違点は後で詳述しますが、ここで一つの疑問を投げかけておきます。
 敵との徹底抗戦を望んで怒ったのなら、どうしてすずは水汲みに走ったのでしょうか?

 すごく不思議な行動です。敵への怒りと水汲みからの畑の水やり。この二つには何の繋がりもありません。目の前の隣保の仲間に徹底抗戦を貫こうと説得しないのはなぜでしょうか? 敵への怒りが原動力だったならば、そのほうが自然ではないでしょうか?

 映画では勢いに任せて流れていきますし、すずの行動の大枠は原作の描写に沿っているのでスルーしてしまいがちなのですが、かなり変な行動をとっています。支離滅裂と言ってもいいくらいです。
 怒りのあまり気が動転していたという理由を導入するならば、どんな奇怪な言動もアリになってしまいますが、他に説明できるでしょうか?

 では、すずの怒りの対象は米軍以外に向けられたものだったのでしょうか?
 ここでは「何かおかしいぞ?」という疑問点を残して、次の段階に移ります。


●怒りが覚める時

 怒りに任せて汲んだ水で、すずは畑に水を撒こうとします。その時、呉の町に一枚の太極旗が掲げられ、風にはためくのを見てすずは崩れ落ちました。

 「飛び去っていく……うちらのこれまでが それでいいと思っていたものが」
 「ああ……海の向こうから来たお米……大豆 そんなもんでできとるんじゃなあ……うちは……」
 「暴力で従えて……じゃけえ、暴力に屈せんとならんのかね」

 原作から台詞(すずの心の声)が変更され、一部で物議をかもしている場面です。
 私はこの改変に怒り心頭なのですが、この台詞の改変の妥当性を検証するのは、ここではひとまず置いておきます。

 ともかく怒りに駆られていたすずは、敗戦直後に掲げられた太極旗を見て、これまでの日本の植民地主義の暴力を悟って、怒りから覚めます。そしてそのまま泣き崩れて後悔にくれます。
 そういう感情の流れなのですが、前段から引き継いだ疑問点がここでも引っかかることになります。

 すずの抱く怒りは、そもそも日本が暴力を振るっていたことで消えてしまうようなものだったのか? という疑問です。
 米軍への怒り、恨み、屈服しないという抵抗心といった感情は、日本の正否や善悪に関係なく持ち続けることができるのではないでしょうか? 特にすずは米軍の軍事攻撃の直接的な被害者ですので、日本がどうであれ怒りを保持するほうが自然ともいえます。

 仮に日本が植民地からの食料に頼らず、食料自給率が高かったならば――日本の植民地経営が理想的で人道を踏み外したものでなかったのであれば――、すずは怒りのままに徹底抗戦を主張し続けてもよかったのか? なんて揶揄する設問でも立てたくなるのです。

 となると、すずの怒りは米軍以外に向けられたもの、例えば巨大な暴力を行使する者すべてに対する純粋な抵抗心だったのでしょうか? 
 米軍も日本軍も暴力で他者(より弱い存在)を虐げてきたから良くないという倫理観に根差した怒りだったのでしょうか。一度は徹底抗戦のために協力しようと決意した日本軍も暴力を振るう主体だったと理解したので、怒りが覚めて泣き崩れるしかなかった。
 なるほど、この解釈で映画版での怒りの描写は一通り説明できそうですが……。

 そうだとすると、別の問題が持ち上がります。
 なるほど、悪しき暴力を振るうすべてに抵抗しようというのがすずの怒りの正体だったとしましょう。では、連合国軍も日本軍も弱者を虐げる暴力を振るってきたのが明らかになった時点で、その双方に抵抗する新たな戦いを決意しなければなりません。反暴力の戦いは、日本軍に協力する形でしか成し得ないわけではないのですから。
 なのに、すずが全ての植民地主義に抵抗する戦いを始めた描写はその後ありません。
 被植民地の独立闘争のように、宗主国の圧倒的な暴力に対抗するために暴力を批判しつつ武力闘争に走るというのは、ひとつの立場としてあり得なくはありません。けれど、そうした闘争や活動にすずが身を投じることはありませんでした。
 ひとしきり泣き崩れただけのすずに、反植民地闘争の戦士を重ねるのは無理というものです。

 長々と解釈を試みてみましたが、クライマックスでありながら映画版のすずの心情変化は上手く読み取れないということを確認したかったのです。

 反米上等の愛国婦人だったとすれば、植民地への暴力に気づいて怒りが覚めた説明が付きません。
 反暴力の立場だったとすれば、その場で泣き崩れてそれきりの態度と矛盾します。

 この結論に納得出来ないようでしたら、各々で映画版の描写を元に解釈を試してみてください。ただし、片渕監督がわざわざ原作を改変してまで消去した“正義”という概念を使わずに解釈を組み立ててください。
 極めて困難だと思います。
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