はしだてあゆみのぼやき

シナリオや小説を書いてる橋立鮎美が、書けない時のストレスを書きなぐる場所

いち原作ファンとして映画版『この世界の片隅に』の見過ごせない改変について その5-2 

2017年03月20日 | Weblog
5.問題提起2:すずは愛国婦人? 彼女は何に激怒したのか? (後半)

(2)原作漫画を読み解いていく

 では、原作に沿ってこの一連の場面を読み解いていきましょう。
 繰り返しますが、ここは原作漫画でも解釈が難しいシーンの一つで、精読と能動的な解釈が要求される箇所だと思います。
 私が初めて原作を読んでいた時も、玉音放送直後に怒りを露わにするすずにあっけにとられました。どうしてこんな言動をするのかと狼狽えて、何度もページを遡って読み返しました。作中で語られていない知識も動員して、ようやく一つの解釈にいたりました。
 その時の私の解釈を以下に、整理していきます。

 大前提として、原作漫画ではすずが国策や戦時動員に消極的である様子がしばしば描写されていたのを押さえておきましょう。
 海軍記念日の講演会の知らせを前にした義母サンとすずの態度の対比を見てください(上巻 p.123)


 「寝んようにせんと……」とすずはいかにも行きたくなさそうです。一方、普段温厚そうなサンは「行ってみたいねエ!」と漏らし、それを聞いたすずはひっくり返っています。
 すずにとって海軍主催の講演会は退屈そうなものでしかなく、行きたがる人がいることさえ想像できなかったことがよくわかります。実際、後のコマですずは講演中に居眠りしています。

 ここに象徴されるように、すずにとっての戦争とは「波風立てずにやり過ごすもの」でした。
 そんなすずがユーカリの木から爆撃機を見上げるシーンで、初めて怒りや抵抗心を見せるところまでは映画版と同じです。


●伝単丸めのシーンの意味

 原作漫画では伝単を扱うすずが淡々としています。
 直前のシーンで屈しないと決意した米軍からの降服を勧めるメッセージが書かれている紙を、すずは無表情のまま淡々と丸めていきます。伝単を撒いた米軍への怒りを秘めているようには見えず、無関心であるように見えます。(下巻 p.90)


 「届けて燃やしんさるだけです」
 「こうして揉んで落とし紙にするほうが無駄がなくてええ」
 
 これまでに描かれてきたすずの、生活者の視点が戦争協力に優先する態度がここでも一貫されています。米軍への抵抗心を抱いたすずは例外的な状態で、いつもの戦争には無関心で日常に埋没しているすずの姿に戻ったように見えます。

 また、周作が指摘しているように、拾った伝単を国や軍に届け出ないのは間諜行為として憲兵に摘発される行為です。
 戦争に協力する愛国婦人としてはあり得ない行為であるわけです。

 この伝単のシーンの前後では、どちらも怒れるすずが描かれています。前には米軍の暴力に屈しないと静かに決意するすずが、後には徹底抗戦するんだと怒りを露わにするすずがそれぞれ描かれています。すずの気持ちはこの場面だけ冷えていて、前後の感情の流れとは明らかに浮いていて、不自然です。
 なぜ、作者であるこうの氏は「怒りを忘れたかのような、それまでと同じ生活優先のすずの態度」「模範的な愛国婦人像に明らかに反した言動」を挟んだのでしょうか? 

 この不自然さを解消するために、片渕監督はここに“暮らしを守る≒銃後の戦い”という思考を匂わせる台詞を追加しました。すでに見てきたように、すずがこの場面で国の戦争に参加する意識、愛国婦人的な意識に目覚めていれば、前後の怒りを一見スムーズに繋ぐことができます。

 けれど、私は原作漫画を次のように解釈しました。
 前後に描かれる二つの怒りが同じものではない、直接的には連続していないと明示するために、淡々とした日常を優先させるそれまでのすずを描いたのではないか。
 そう、ユーカリの木での静かな怒りと、玉音放送の激しい怒りは別のものだと明示するために、あえて間に愛国婦人ではあり得ないクールダウンしたすずを描いたのではないかと思うのです。


●玉音放送の怒りの瞬間

 米軍への怒りでなければ、すずは何に怒っていたのでしょうか? すでにわかっている人も大勢いるでしょうが、あえてここまで引っ張ってきました。
 戦争継続を諦めた日本国や日本軍への怒りです。そして、敗戦の決定を素直に受け入れた国民(具体的にはそばにいた隣保の人々)への怒りです。

 「最後の一人まで戦うんじゃなかったんかね?」
 「いまここへまだ五人も居るのに!」
 「まだ左手も両足も残ってとるのに!!」
 「うちはこんなん納得出来ん!!!」

 これらのすずの怒りの台詞のうち「最後の一人まで」「まだ五人も」「まだ左手も両足も」「納得出来ん」といった部分に注目した場合に、ありうる解釈であるのは異論はないと思います。
 作品内で描かれている以外の知識を導入することになりますが、「最後の一人まで戦うんじゃなかったんかね?」というのは当時国が率先して掲げていたスローガン「一億総玉砕」を想起させる言葉です。
 原作漫画では直接的には描写されていませんでしたが、「一億総玉砕」的な考えが宣伝されていて、すずも影響を受けていたことが怒りの言葉からうかがえます。

 ここで、太平洋戦争を扱った既存の作品でもお馴染みの国策プロパガンダの概要を簡単に書き留めておきます。

 国民全てが武器を手にして玉砕覚悟で戦い抜かなくてはならない。(映画では省かれていますが、原作漫画ではすずも竹槍訓練に参加している様子が描かれています)
 なぜならば、この戦争は天皇陛下が大儀・正義のために始めた聖戦だからである。
 故にどのような犠牲を払ってでも、この聖戦を遂行するのが正しい日本人のあり方である。

 今までこうしたスローガンを掲げていたのに、一転して敵に降参すると国や軍が言い出しました。
 そのことに対して、すずは激怒したわけです。
 なぜか? 上記プロパガンダの「どのような犠牲を払ってでも」の「犠牲」をすずはすでに払っていたからです。

 かけがえのない右手と姪の美晴の命、そして原爆で生家の家族は全員生死不明という大きすぎる被害をすずは受けました。
 けれど、その被害は日本国民すべてが聖戦のために払うべき「尊い犠牲」であるとされていました。国や軍はそう宣伝し、社会全体もその理想を受け入れていました。だからこそ、すずは自分が受けた大きな被害を「尊い犠牲」として正当化して、諦めて受け入れていたわけです。「聖戦なのだから仕方がない」「日本人すべてが払う犠牲なのだから、自分が受けた被害も享受するしかない」と。

 なのに、国は一転してその正義を取り下げて、敗北を受け入れたと言いだした。
 自分が払った犠牲は何の為だったのか? 無意味だったのか!?
 その苛立ちが、次の台詞に集約されています。

 「うちはこんなん納得出来ん!!!」

 この解釈は以下の2つの描写からも裏付けられます。

 1つは、映画版で削除された言葉。
 「この国から正義が飛び去っていく」
 当初の激昂が去った時に、すずの心に浮かんだのがこの言葉です。この時のすずにとって“正義”が関心の的であったことは、とても大事な点です。
 正義のために耐え忍んできたのに、その正義を掲げていた側が正義を投げ捨てた。おそらくは自分たち自身が犠牲を払うのを避けるために。
 先に犠牲を払わされたすずにとっては、正義の取り下げは裏切りに他なりません。怒りがこみ上げるのも当然です。

 もう1つは、家の陰で泣き崩れている義姉径子。
 彼女はすず以上の被害を受けています。母として自分の命より大事な娘、美晴を奪われたのですから。
 すずよりも大人の径子は、人前では気丈に淡々と敗戦を受け入れた様子を見せていましたが、一人になるとすずと同じように無念さのあまり泣き崩れていることが描かれています。
 このタイミングで径子が衝撃を受けるのは、国が掲げた正義を取り下げてしまったために娘の死に与えられていた意味――聖戦のための尊い犠牲という意味が奪われてしまったからに他なりません。
 国が始めた戦争に翻弄され、払わされた犠牲の意味さえ一方的に奪われた悲しみを表現するのでなければ、ここで泣き崩れる径子を入れる必要はないはずです。

 ここまでは、実は映画のみの鑑賞でも勘のいい人なら推測できる内容でしょう。
 伝単の時の愛国婦人的な台詞に惑わされなければ(あの台詞をさして意味のないものだと無視すれば)、すずの怒りの対象が勝手に正義を投げ捨てた国への怒りだというのは読み解けます。

 けれど、この解釈はある矛盾点を抱えています。
 ずっと戦争に無関心で、直前まで愛国婦人ではありえない行動をとっていたすずという人物が、どうして玉音放送の後に極端に愛国主義的な主張を振りかざしたのか? という問題です。
 この点をあからさまな矛盾だとして、すずの怒りの対象が国や軍であるという解釈を否定した人もいるかもしれません。

 そう、確かに原作漫画でも読み解くのが困難な点です。すずの心情の描写自体が不足しているので、想像力を駆使して補完せざるを得ないのですが、私は次のように解釈しました。

 すずの怒りの発端は、自分だけが犠牲を払ったことに対する「納得出来ない」という憤りでした。
 しかし、社会や政治には無関心で、戦争による時局の変化も仕方がないと受け入れるだけだった彼女には、その憤りを自分の言葉で訴える術がありませんでした。胸に沸き起こる「納得出来ない」という憤りを形にするのに使える言葉は、周囲に溢れていた国策スローガン=愛国主義的な言葉しかなかったのではないでしょうか。
 胸に燃える憤りを訴えるための言葉として、当時の日本社会に流布していたほぼ唯一の言葉・思想である国策スローガンを借りて叫んだのだろうと私は解釈しました。

 飛躍した解釈だと驚かれる人もあるでしょう。
 けれど、すずが自分の考えを述べる言葉に乏しく、借り物の言葉に頼るという描写は原作漫画の別の個所にあるのです。

 朝日遊郭のリンと二度目に出会った時の会話がそれです。病院で生理不順による不妊だと診断されたすずがリンに悩みを相談するのですが、その時の会話が強烈なのです。
 すずは当時の普通の良識ある婦人らしい言葉を借りてきたかのように話します。(中巻 pp.38-40)
 

 「(夫や家族が)子供が出来んとわかったらがっかりしてじゃ」
 「出来の良えアトトリを残さんと それがヨメのギムじゃろう」(カタカナ表記にすずの“できあいの言葉を借りて来た感”がにじみ出ています)
 (ヨメのギムが挫折したらどうなるん? と聞かれて)「実家へ帰される」

 これらのすずのタテマエめいた言葉に対して、遊女のリンは自分の実体験からのあけすけな言葉を投げ返してきます。
 「うちの母ちゃんはお産のたびに歯が減ったよ」「しまいにゃお産で死んだよ それでも(子供を産むのが)楽しみなもんかね?」
 「男が生まれるとも限らんが」「出来がええとも限らんが」
 「帰ってどうなるん?」「それ…そんなに恐ろしい事なん?」

 借り物の言葉で良妻賢母的なタテマエを口にしていたすずは、リンの実感のこもった問いかけにタジタジとなり、悩みの立脚点を失っていきます。そして、終いには「(子供は)困りゃあ売れるしね!」「女の方が高いけえアトトリが少うても大丈夫じゃ」「世の中巧うできとるわ」と遊女視点から見た子供の価値をあっけらかんと語られて、すずは絶句するのです。
 こうした会話を通して、すずは「なんか悩むのがあほらしうなってきた…」と良妻賢母的なタテマエが自分自身の実感とは違うことに気づかされていきます。

 この場面に象徴されるように、すずには自分の言葉で考えて口にするという習慣がありません。そもそもそういう教育を受けていませんし、彼女の才能は言葉よりも絵を描くことにあるからです。
 だから、玉音放送を聞いた後、敗戦が宣言されて自分の払った犠牲が無意味にされた時も、その怒りを表現するには世の中に溢れている言葉を借りてきて、すがるしかなかったのだと私は考えます。
 彼女が叫んだ「一億総玉砕」的な怒りの言葉が借り物の言葉だったとすれば、その後すぐに萎れてしまったこととも辻褄があいます。

 すずの激昂した言葉に賛同する人はいませんでした。近所の人々の醒めた驚きの顔を見て、すずはすぐに怒りを鎮め、力なくうなだれます。怒りの言葉が心の中の実感に深く根差したものであったのならば、賛同されなかったからといって簡単に怒りが醒めることはなかったでしょう。
 これはリンの言葉によって良妻賢母的なタテマエが簡単にぐらついたこととも、相似を成していると考えられます。

 これが多分に想像力で補完した解釈だというのは自覚しています。想像によって原作漫画の情報不足を補完しているという点では、私も片渕監督も同じです。なので、どちらの解釈が説得力があるか、納得できるかは読者の判断に任せて、次の段に移りたいと思います。


●飛び去った正義

 前段で触れましたが、すずの怒りが覚めるタイミングが原作漫画と映画版では決定的に違っています。
 怒りが受け入れられなかったすずは、すぐに意気消沈して水汲みにでかけます。義姉径子がラジオの片づけをしているのと同じように、日常生活に埋没しすることで逃避しようとしているかのようです。
 そして、映画版で削られ、迂遠な植民地主義の正否に差し替えられたあの心の声が大きく写されます。

 「飛び去っていく」
 「この国から正義が飛び去っていく」

 怒りの対象が、それまで掲げていた正義をかなぐり捨てた国であるなら、この言葉は不可欠です。片渕監督はインタビュー(https://webnewtype.com/report/article/92131/)で「あのシーンですずさんは日本という国をいきなり背負わなくてもいいんじゃないか?と思ったんです」と語っていますが、怒りの対象がすずを裏切った国であると読み取れば、ここで国が出てくるのは当然であり、必然というものです。……ひょっとして片渕監督は原作漫画でのすずの怒りの対象が、国や軍以外だと解釈していたのでしょうか? 

 映画版の不可解さはさておき、原作漫画でやや引っかかるのは、主語が“正義”であることです。まるで“正義”が飛び去る主体、例えば鳥であるかのように表現されています。さながら“正義”という鳥がが自主的に大日本帝国という枝に留まっていたのに、勝手に飛び去っていったかのようです。
 その“正義”を錦の御旗として掲げていた国が、都合が悪くなると途端に手放したことにすずは納得いかなかったはずなのに、「正義を手放した」というような表現にはなっていません。

 なぜでしょうか? 
 この時点では、すずは飛び去っていく“正義”をまだ信じていた、信じていたかったのかもしれません。
 皆が信じていた“正義”は本物だった。それなのに国や日本人が背を向けたので、“正義”は飛び去っていった。それでも、自分だけはまだ正義を信じ続けたいと考えていたのでしょう。

 そこで、太極旗が揚がるのを目にします。
 “正義”が失われたことに、怒るのでも悲嘆にくれるのでもなく。生き残るために“正義”を捨てて敗北を受け入れたのでもなく。敗戦を寿ぐように植民地の旗が掲げられたのを見たすずは、そこで初めて気づいたのでしょう。信じた“正義”がそもそも紛い物であったことに。米軍の爆撃機を見上げてあれほど憎んだ“暴力”が、自分の足元でより弱い立場の人々に振るわれていたことにに気づかないふりをしてきたことに。

 ここでのすずの察しの良さが、不自然という評があるのは頷けます。元々察しが悪く、言葉による思考や表現は不慣れなすずらしからぬ描写ではあります。それまで朝鮮人をはじめとする植民地出身者への暴力や差別が全く描写されていなかったために、太極旗だけで一気に悟ってしまうのは飛躍があると感じるのも当然だと思います。
 けれど、映画版のように米や大豆という生活物資を媒介としても、スムーズに植民地主義の暴力を自覚できるかといえば、疑問が残ります。

 ただ、太極旗を目にした時のすずは、普通の状態ではなかったことも考慮しておく必要があると思います。“正義”だの“暴力”だの“植民地主義”だの考えるのは、それまで描かれてきたすずの人物像に似合わないのは確かですが、それを言うなら玉音放送に激昂したすずから否定しなくてはなりません。愛国婦人さながらに徹底抗戦を叫ぶすずは許容しておきながら、植民地主義の暴力に気づいて後悔するすずを「らしくない」と否定するというのではご都合主義ではないでしょうか。

 以下は、個人的な妄想含みの解釈になりますが、この時すずは生まれて初めて“正義”や“暴力”、さらに言えば国や戦争という社会について真剣に考えていたのではないかと思うのです。敗戦という衝撃と「納得出来ない」という憤りが、すずに今まで考えずに済ませてきた社会や正義について考えることを強いていたのではないでしょうか。
 原作漫画の描写に沿って表現するなら、自分たちを置き去りにして飛び去っていく“正義”について必死に考えている時に、この最大の不幸を喜ぶかのように植民地の旗が翻るのを見たわけです。敗戦の今まで掲げることができなかった旗があること=去っていった“正義”が抑圧していた証だと理解するのも、ありえない話ではないと思います。

 そして、最後にすがった“正義”も偽物だったと気づかされたすずは、絶望するしかありませんでした。
 それまで戦争に無関心、(主観的には)無関与を続けてきたすずに、戦争の責任を引き受けさせるのは少々強引な展開とも言えます。むしろ、「積極的に戦争に協力したことはない」「世情に流されていただけ」という言い訳や逃げ道を塞ぐために、わざわざすずに徹底抗戦を叫ばせて、国の掲げた“正義”に固執させたかのようです。
 ここでもう一度、2.で引用したこうの氏のインタビューを振り返ってましょう。

「庶民は自分たちが悪いという罪の意識も責任感もないまま、簡単に戦争に転がってしまうことがありうることを、いまの時代に伝えなくてはいけないと思ったのです。」


「責任感もないまま、戦争に転がってしまう」からといって、仕方がなかったと免罪されるわけではないという価値判断が、このすずの絶望を描かせたのだと私は解釈します。


●まとめ

 長くなりましたので、ここまでの検討をまとめておきます。
 原作漫画からの変更点は絶対量で測れば少ないと言えます。それでも、原作漫画と明らかに矛盾する展開は避けつつ、いくつかの重要なポイントがずらされています。その結果、与える印象が大きく変わってしまうばかりか、肝心の怒りの対象が特定できなくなってしまっています。

 1.伝単を紙として再利用する場面で、すずが戦いに主体的に協力、参加しているかのような台詞を追加。
 2.“正義”をめぐる心の声を削除。正義の話が植民地からの米や大豆の話に差し替えられる。
 3.1と2により、すずが激昂した対象は正義を捨てた国や軍ではなく米軍? というミスリードが生まれ、慟哭に至るまでのすずの心情変化がうまく追えなくなってしまっている。
 4.原作漫画にあった「正義に固執するという形での戦争への支持、執着→後悔と絶望」という流れが曖昧化されている。

 4.については、後で項目を立てて詳細に見ていきたいと思います。