はしだてあゆみのぼやき

シナリオや小説を書いてる橋立鮎美が、書けない時のストレスを書きなぐる場所

いち原作ファンとして映画版『この世界の片隅に』の見過ごせない改変について その8

2017年03月20日 | Weblog
8.消えたくすのき公

 ずいぶんと攻撃的な書き方になってしまったので、指摘の主旨は今までと同じながらもっと軽くて笑える点について言及したいと思います。

 少々細かい点なのですが、映画版で削除されて残念だったもののひとつが、くすのき公です。
 楠公飯で楠木正成が出てきただろうって?
 いや、もっと深くて情けない意味がくすのき公には込められていたと思うのです。

 そもそも、原作漫画で楠公飯が出てきた回の戦中レシピのエピソード。あれが、ただの戦時中の生活の知恵やほのぼの描写だと思ってる人がいるんじゃないかと不安に思っています。
 映画の宣伝でもすずが笑いながら調理しているシーンが出てきますが、ほのぼのした日常生活を印象付ける【だけ】のシーンじゃないと思うのですよ。

 結論から言うと、あれは台所に国策プロパガンダが入ってくる様子を描いているわけでしょう。
 楠公飯という名称自体が、楠木正成の人気というか知名度にあやかっているわけですが、楠木正成が天皇への忠を貫いた理想の軍人像として、国威発揚の宣伝キャラとして盛んに使われいたのは周知のことだと思います。
 だからこそ、少ない米でかさを増す不味い炊き方に「楠公飯」だなんて大仰な名前を付けて流行らせようとしたわけです。

 あまりにも不味かったので楠公飯のプロパガンダは失敗しただけじゃないか? という向きもあるかもしれません。
 けれど、その前に出てきた春の野草レシピもプロパガンダの一環と解釈するべきだと考えています。

 原作漫画では、摘んできた野草や食材を描いたスケッチブックの一角にマンガちっくな「くすのき公」がしつこく描かれています。(上巻 p.113-115)


 野草レシピもくすのき公=国威発揚の宣伝キャラとセットで描写されていることには意味があると勘ぐるべきです。

 そして、調理法を説明するナレーション部分は文語調になっていて、文字媒体から得た情報を元にすずが野草を調理していることが暗示されています。
 映画版では、野草の調理法を教えてくれた刈谷さんが本(おそらく雑誌)を見ながらすずに説明している描写になっており、文字媒体を通して知った知識であることが明示されています。これは良改変だと思います。さらに、ノベライズ版では刈谷さんの婦人雑誌が情報源であることが明示されています。

 これらの描写から、野草の調理法も楠公飯と同じ雑誌の記事から得た知識であると考えるが妥当だと思われます。

 それで、野草レシピも雑誌を通して得られた知識として何が問題が? 
 たとえ国策プロパガンダだったとしても、役に立つ知識が得られたのならいいじゃないか。

 そういう意見もあるでしょう。
 しかし、プロパガンダというのは一見して役に立ちそうな情報とセットになることで流布されるもの。そういう面を描いていると見るべきだと思うのです。
 原作漫画には他にも、連載一回分丸々使って戦中の『愛國いろはかるた』を紹介するだけの回もあったりと、日常生活に戦争や国策プロパガンダが忍び込んでくる描写を意図的に盛り込んでいます。


 さて、台所向け国策プロパガンダゆるキャラとして登場したこの「くすのき公」。一回だけの捨てキャラではありませんでした。原作漫画では、もう一度登場シーンががあります。
 それが、戦後の闇市で残飯雑炊を食べた後のカットです。(下巻 p.191)


 「UMA~」とローマ字(敵性言語の文字!)で感嘆するすずと径子の上空に、くすのき公が飛んでいます。
 これが意味するところは明らかですが、あえて解釈しておきます。
 こうの氏は、この残飯雑炊に舌鼓を打つ場面で、楠公飯や野草レシピのことを思い出すようにと読者に強いているわけです。残飯雑炊と台所に入ってきた国策プロパガンダ料理を関連付けて読み取るようにと。

 さらに嫌なことを指摘しておきます。残飯を雑炊にして食べているのは敗戦直後の最も食糧難が厳しい時期だったからで、本来は人間の食用ではありません。軍の食堂から出る残飯というのは、本来養豚業者が豚の餌として回収するものです。

 つまり、米軍にとっての豚の餌に、味においても栄養面でもはるかに劣るものを、大日本帝国は国策プロパガンダで国民に広めようとしていたわけです。
 すずや径子は美味しさに破顔していますが、食を通して圧倒的な貧しさ、国力差というものを思い知らされている瞬間でもあるわけです。
 完敗とはこのことです。情けなさや居た堪れなさに、笑うしかありません。

 天駆けるくすのき公は澄ました顔をしてますが、居た堪れなさに飛び去った(=昇天した)と解釈するのが妥当でしょう。
 そして同時に、実際の占領軍との接触が増えることで、くすのき公に代表される戦時中の国策プロパガンダが、すずたち庶民の中からも消えていったことも象徴しているのだと思います。

 映画版のすずが野草を調理する様を見て「戦争中も厳しい食糧事情の中、工夫してたんだなあ」と感心したり、ほほえましく思う人もいるようですが、原作漫画ではこういうどんでん返しの伏線でもあったことを忘れて欲しくないわけです。

 原作漫画を読んだ時から、ゆるキャラ「くすのき公」は好きなキャラだっただけに(上巻で一番好きなキャラかもしれない)、映画版で消されてしまったのは残念でした。
 映像化しづらい要素だと思い覚悟はしていましたが、ここでも大日本帝国の情けなさを意味する描写はカットされるのかよと思ったのです。


 ちなみに、映画の脚本やコンテに準拠しているらしいノベライズにおいては、残飯雑炊の美味さに感動した理由は、塩や醤油といった調味料が不足している中で久しぶりに口にした濃い味付けだったからだとされていました。
 ……嘘じゃないでしょうし、そういう面があったことは否定できません。でも、残飯雑炊と対比すべきはくすのき公が広めた戦中のレシピだということは、改悪してほしくなかったと思うのです。
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