西日の窓
九十二歳になる鶴牧は、思い出したくないことを思い出す作業に、じんわりと汗をかいていた。離れとなっている自室の西側の窓から、真夏の夕日が斜めに差し込んでいる。
「暑いな。冬場はいいが、夏場の西の窓は鬼門みたいなものだ」
癖になっている愚痴っぽい言い方を、誰も居ない部屋の壁にぶっつけた。
「あの戦争の記憶を書き出してくれだって。イイカゲンなものだ。下っ端の辛さは、中央の安全な部屋で、机の上でしか戦わなかった人間に解るものか」
ある出版社からの依頼である。この際だから書いてやろう。と思って引き受けた。「あなたの戦争体験」という仮の表題が付いている。
依頼主がどのようなルートで鶴牧を選んだのか? 四百字詰め一ページに○千円の値が付いていた。別に執筆料が欲しい訳ではない。鶴牧は戦後の東京で、様々な仕事をした。数種類の特許も取得した。幼馴染の静子と結婚し、二人の娘を授かり、地獄の日々から、明るい未来のある生活を勝ち取ってきた。
定年後は金銭的に困る環境ではない。だから、面倒な作業などしたくは無かったが、こと戦争体験といわれれば、どうしても納得のいかない戦争だったから、引き受けたまでだ。
突然訪ねてきた出版社の若者は、二十代後半に見えた。
「戦争体験といっても、何を書けばいいんだい」
鶴牧の問いに、若者は名刺を出しながら、「あの」と口ごもり、何の苦労も無いような真っ直ぐな眼差しで鶴牧を見た。「戦争体験といっても、何を書けばいいんだ」と、鶴牧の再度の問いに、会社からのマニュアルを、淀みなく言い始めた。
「はい。今年は戦後七十年という年です。僕をはじめ、先の戦争の発端は何だったのか? 良く知らない人が多いと思います。また、戦士となって出兵した男性も女性も、戦う意味をシッカリ理解していたのか? そして、その人たちが戦地に行って、何を見聞し、何を体験し、何を思ったのか。そういったことを体験者に書いていただき、戦争の悲惨さ、戦争の無意味さ、戦争という人間らしいというか、人間らしくないというか、そういうことを、皆さんと共に考える時期になっていることを知っていただくためです」
鶴牧は若者の涼しげな顔を見ながら、戦地で無くなった戦友たちの顔を思い出していた。みな、若かった。鶴牧は二十歳を過ぎたばかりだった。赤紙が来た時、母親は泣いていた。父親は無口になり、四歳違いの弟が、「兄ちゃん、死ぬなよ」と言った。日本中が戦闘モードになっていたような気がする。誰も、悲しい顔などしなかった。当然、泣き顔など他人に見せられるわけがない。負け戦など、誰も想像しなかった。
「では、宜しくお願いします」と、若者が帰っていった。
鶴牧は若者の後姿を見送りながら、戦争の知らない現代の若者たちは幸せだと思った。この幸せを続けてゆくには、戦争の無い世界にしなければならない。
戦争体験者はどんどん少なくなっていく。苦い体験を話したがらない体験者だっているだろう。それほど、厳しく、悲惨。特に何一つ良いことの無かった戦地のことなど、思い出したくもないことだ。
一週間ほど鶴牧は、迷い続けていた。
「えらいことを引き受けちゃったな」
机の引出しを開け、思いに迷ったときに見る箱を取り出した。大きな懐中時計が入っている。菊の御紋の付いた時計だ。組紐が付いている。いつ持ってみてもずしりと重い。
針は止まっている。あの頃のことが浮かんできた。大陸へ渡ったこと。真夜中に指令された行動。思い出すだけでも身震いがする。この体験を赤裸々に書くべきか? 迷う。
菊の御紋の付いた時計を貰えたのは、戦闘機に乗ると決まった時だったか。あやふやな記憶になりつつある。鶴牧には、思い出したくない記憶である。
特攻機に乗るために訓練を重ねた。出陣した戦友はみな還って来なかった。特攻機の無くなった日本で、特攻機が出来上がるのを待っている間に終戦となった。でなければ、太平洋の藻屑になっていたにちがいない。
しかも、その戦争の終わり方が尋常ではない。広島、長崎に落とされた核爆弾。日本人の誰もが予想だにしない威力。一人でも事前に知っていた者がいただろうか? 未熟な子供が、戦争慣れした大人と戦ったようなものだ。被害だけが拡大した。街は瓦礫と化し、何十万人という死者。核爆発に飲み込まれた人々の悲鳴が聞こえるようだ。
生き残った日本全土の人々は、涙を流している暇もないほど暮らしに困り、夫や息子の戦死した家族に、二重三重の苦しみが圧し掛かってきた。
鶴牧は、記憶を引き出すだけでも疲れてしまった。隅のベッドにごろりと横になり、テレビを点けた。国会前のデモ隊が映し出された。インタビューを受けている若者が何か言っているが、耳の遠くなった鶴牧には、ただゴモゴモと聴こえるだけだ。字幕が出ているが、緑内障で視野の狭い眼では読む気も起きない。
「おじいさぁ~ん」
母屋の方から娘の呼ぶ声がした。それだって、慣れているから「おじいさぁ~ん」と聴こえたまでだ。でなければ、テレビの画面からの音か、聞き分けられなかった。
「おじいさん、また玉葱の刻んだのを用意すればいいの」
娘が渡り廊下を走ってきたようだ。
「血圧に良いからって、毎日じゃあ飽きるでしょ」
「いいんだよ。それを一品追加してくれ。あとのオカズは少なくていいんだから」
鶴牧は、戦争に行った自分が生き残り、こうして食べたいものを食べられていることに感謝した。同期の戦友の死体を被って、命拾いした経験だってあるのだから。
「ああ、嫌だ、嫌だ。戦争なんて、何の得にもならん。誰も幸せには出来ない」
頭を抱えて原稿用紙を睨んだ。書きたくなかったら書かなくても良いんだよ。と、もう一人の自分が言う。
国会では何とか法案がどうのこうのと審議しているらしい。あの戦争の体験者は現在何人生き残っているのだろう。悲惨な戦争の反省は生かされているのだろうか?
「暑いなぁ」
「おじいさん、エアコン使ってよ。熱中症になったらアッという間にあの世行きだからね」
娘が冗談を言いながら、エアコンのスイッチを入れた。
「もう、何も思い残すことはない」
「そんなこと言ったって、何か書いているじゃない」
「役に立つかどうかのものだ。シッカリ読んでくれれば書いた甲斐があるってことだが」
娘が部屋の中を一通り見回した。毎度のことだが、鶴牧の体調の変化を見逃さない工夫らしい。
鶴牧はまた机に向かった。室内は丁度良い温度のようだ。
「う~ん、眠くなったなぁ。この年寄りに戦争の体験を書き出せだなんて。どのようなことが起きても、戦争なんだから、生きるか死ぬかの瀬戸際だもの。人間らしい気持ちなど持って居られるものではない。上官が言ったよ、「お前等は鬼になれ」って。俺は鬼ではない。と逆らった気持ちを持っていたが、いざ、銃声が聞こえ、銃弾が飛んでくれば、やるしかない。それが戦争ってものだ」
鶴牧はブツブツと呟きながら、原稿用紙の升目を睨むばかりだ。
「ああ、嫌だ、嫌だ。思い出すだけでも嫌だ。こんなこと引き受けるべきではなかった」
鶴牧は、いつか机にうつ伏せになっていた。
「おい、鶴牧」
上官の声がする。この声は大陸へ渡ったときの上官だ。
麻袋とスコップが手渡された。
「研究のためだ」
鋭い短剣も差し出した上官。
「出来るだけ多く持って来い」
「研究のためだから……」上官の声が一段と低くなり、言い終わると麻川と鶴牧の背をポン、ポンと叩いた。
月明かりを頼りに、戦友の麻川と二人、小高い丘の墓場へ向かった。盛り上がった土の上に、木や石の墓標が立っている。故郷の墓地を思い出した。杉木立の中に、斜めになった古い墓碑があったり、真新しい土葬が盛り上がっていたり。国が違えども、死者の葬り方は似ている。何とも言えない雰囲気は同じだ。
「いやだなぁ」
麻川が吐き出すように言った。
「命令に背くわけにはいかない」
「ま、そうだけど。俺は昼間の墓地だって怖かったんだ」
「そうだな、あまり気持ちいいものではないな」
「あっ、人魂だ」
「死んだばかりの人がいるんだね」
「出来るだけ新しいものを持って来いって言ってたね」
「うん。嫌だけどしょうがない。命令には従うしかない」
鶴牧は、夢の中で「嫌だ、嫌だ」と叫んでいた。
現実に引き戻された鶴牧は、自室の中を見回した。隠居部屋らしい造りにしたのは八十歳になったとき。それまでの娘夫婦と孫二人の家を取り壊して建て替えた。鶴牧の部屋は、渡り廊下の先の庭の隅に建てた。八畳間とトイレ、風呂、洗面所、ミニキッチンを備えている。全ての床の高さを同じにした。歩幅の狭くなって、つま先が上がらなくなった鶴牧でも快適な空間である。建て替え費用は、鶴牧が全額負担した。
鶴牧は、戦後の混乱の中で結婚し娘二人を育てた。妻の静子が慢性的栄養失調の体に鞭打って、鶴牧の点々とする仕事に理解を示した。無理が祟ったのだろう、梅雨時の風邪を甘く見たせいか、数日寝込んだ後に、静子が四十歳を目前にして死んだ。それからが鶴牧の、戦後の本当の戦いが始まった。小学五年生と中学一年生の、二人の娘の世話をしながら仕事をこなした。娘二人には寂しい思いをさせた。寝る間も惜しんだ歳月。
ようやく娘たちが一人前になったとき、鶴牧は恋をした。香苗という名前の、一回りも若い女性だった。再婚を考えた。結婚したばかりの長女と次女が、反対らしい言葉は言わなかった。鶴牧の好きにすれば良いと言ってくれた。
部屋を借り、同棲して二ヶ月。その頃の鶴牧は、特許を取得していた。機械メーカーの役員にもなっていた。収入も他人が羨むほどである。ある日、仕事から帰ってみると、部屋に鍵がかかっていた。家財道具などを購入する資金を預けた香苗は戻ってこなかった。それっきり音信不通となった。気まずく、あっけない恋の終わり。鶴牧の心には、女性不信の痼となった。
鶴牧は、行方知れずになった香苗を探すことはしなかったが、その顔は忘れなかった。所詮、それまでの女なのだと自分に思い込ませ、香苗への恋心を封印した。ところが五年ほど経った頃、仕事関係の数人と行ったスナックに香苗の姿があった。ホステスとして働いていた。香苗も鶴牧を思い出したらしかった。一瞬、青ざめた顔が、きりりと唇を結んでそ知らぬ顔に変わった。鶴牧は、自分の視線を、その香苗の顔に止めることなく素通りさせた。
鶴牧はひたすら働いた。鶴牧を仕事は裏切らなかった。
晩年の鶴牧は、一日をゆったりと過ごした。長女夫婦と男女二人の孫。着かず離れずの暮らし方が心地よい。
娘婿は優しい人物で、実の娘より鶴牧を大切にしてくれる。孫たちの成長は順調だし、自分の体調管理さえしていればよい身分である。
それが、ややこしいことを引き受けたが故、この頃は嫌な夢を見たりする。つくづく、あの戦争の意味が分からなくなってくる。
再び、机にうつ伏せになっていた。
「行ったきり還ってこないぜ」
戦友の与謝野が小声で言った。
「何をゴチャゴチャ言ってる。私語を慎め」
教官が怒鳴った。飛行訓練の時だった。
「還らないって?」
「どうなっているんだろうね」
与謝野が不安げな表情をして、声を低くして言った。
「俺、田舎の彼女に戦争が終わったら、一緒になろうって約束しているんだ」
「彼女かぁ」
鶴牧は、幼馴染の静子の顔を思いだした。どうあっても、生きて帰りたいと思った。
「俺、ここだけの話だけど、本当は静かに田舎で暮らしていたかった」与謝野が唇をヘの字に歪めた。
「戦うしかないけど、戦局はどうなっているのかサッパリ情報が入らないな」
特攻機に乗ったのは、与謝野が先だった。そして、還ってこなかった。
夢はいつの間にか浅い眠りの中で、現実の思考へと移っていった。
鶴牧は、幸か不幸か、戦闘機に乗らずじまいで終戦を迎えた。その後、時には戦争のことを思い出し、苦しい気分になったりした。目先の生活に追われて、反省らしきことをする暇が無かったような気がする。戦後の生活は戦地へ行っていた時同様、苦しいばかりであった。
「おじいさん」
娘の声でハッキリと眼が覚めた。
「夕飯を用意したから、書き物はそれまでにして、冷奴の冷たいうちに食べてよ」
ベッドのサイドテーブルに細長いお膳が置いてある。
「その前に、シャワーを浴びるよ」
「湯船に浸かると暑いからって、シャワーだけでいいの?」
「うん。風呂に入っているだけでも、心臓が持たないよ」
「玉葱のスライスには鰹節を掛けましたからね。酢醤油がいいのよね、ここに用意してあるから」
「うん、わかった」
鶴牧は、戦争体験を書くよりも、今の自分の体をもてあましている。この暑さにも関わらず、長袖の下着と、ズボン下を履いている。その上にズボンとワイシャツ。外に出ると時は、上着を羽織る。年齢を重ねるに従って、暑くても半袖などを着ていると、たちまち風邪を引いてしまう。体温調整がうまく出来ないらしい。
シャワーを浴びながら、戦争体験を書き続けるべきか悩みだした。面倒なことが嫌だし、思い出して楽しいことでもない。それでも、書かないで死んで逝っていいのかという思いにもなる。
テレビには国会内の様子が映し出された。野党が退席していくようだ。
戦闘員として戦争に参加をした鶴牧。自分というものが有って無いようなものだった。死と隣りあわせの毎日。沢山の戦友の死。戦後の混乱の中、父母の死。夢で会えることもあったが、日々の暮らしに追いやられて、いつか思い出に浸かっている暇も無くなった。そしてようやく、手に入れた安穏とした日常。
さて、これから、どうしようか。まずは、食事をして、また机に向かってみることにした。とにかく、読む人に理解できるような文章が書けるか問題だ。戦争という、あってはならないことが二度と起こしてはならない。子や孫の将来が豊かに自由であるように。
鶴牧は、戦争体験を事細かく書こうと思う。思い出せる範囲になるのは仕方が無い。自分に忠実に、ありのままの体験を書く事にしよう。そして後は、読む人に委ねることにしよう。
夜の帳が西日を遮り、徐々に暗さが増していった。暑さの名残だけが、西側の窓に残っている。
「嗚呼、大陸へ渡った時の西日も暑かったなぁ」
七十年前のあの日も暑かった。
鶴牧は、老体に鞭打って、戦争体験を書く事した。