備忘録として

タイトルのまま

破斯(ペルシャ)

2016-10-08 19:33:39 | 古代

          

やはり古代の奈良にペルシャ人がいた。

10月6日付け奈良新聞の考古学欄に、「波斯清通」という名前の書かれた木簡(上の写真)が平城京跡で見つかったという記事が載った。右上は奈良文化財研究所が撮った赤外線写真で、”波斯”を赤枠で囲った。波斯はペルシャのことで、530年頃の梁職貢図(下の絵)にも同じ漢字が使われている。木簡は天平神護元(765)年に役人を養成する役所「大学寮」が式部省に宿直勤務を報告した記録だという。当時、遣唐使が行った長安の街には大勢のペルシャ人がいたし、正倉院の宝物の中にペルシャ起源の工芸品があるように、8世紀の日本にペルシャ人がいても不思議はないのである。職貢図に描かれたようなペルシャ人が古代日本の役所にいたと思うと楽しい。

正倉院のペルシャ起源の宝物 左より白瑠璃碗、螺鈿紫檀琵琶、羊木臈纈屏風 (宮内庁正倉院ホームページより)

新聞記事は、天平8年(736)に遣唐使船が波斯(ペルシャ)人一人を伴って帰朝し天皇に謁見したという続日本紀の記録があり、木簡の人物はそのペルシャ人と関係があるのではないかとする。続日本紀のその箇所は以下のとおり。

天平八年

八月,戊申朔庚午,入唐副使-從五位上-中臣朝臣-名代等,率唐人三人,波斯人一人,拜朝.

十一月,丙子朔戊寅,天皇臨朝.詔,授入唐副使-從五位上-中臣朝臣-名代,從四位下.故判官-正六位上-田口朝臣-養年富、紀朝臣-馬主,並贈從五位下.准判官-從七位下-大伴宿禰-首名、唐人-皇甫東朝、波斯人-李密翳等,授位有差.

天平8年(736)、8月、遣唐副使の中臣朝臣名代らが、唐人3人とペルシャ人一人を率いてもどり、天皇に謁見した。11月、遣唐副使の中臣朝臣名代に従四位下を授け、唐人の皇甫東朝とペルシャ人の李密翳に位を授けた。この二つ以外に”波斯”の文字は見つからなかった。

続日本紀の736年や木簡の765年はちょうど阿倍仲麻呂が唐にいた時期(716から770年)で、7世紀中頃にムハンマドの後継者に滅ぼされたササン朝ペルシャの遺民たちが唐に亡命していた。その中の一人が遣唐使といっしょに日本に来たということだろう。奈良新聞に、奈良文化財研究所の渡辺晃宏・史料研究室長が「当時の平城宮が、外国人も分け隔てなく役人に登用する国際性を持っていたことが分かる史料」と語っている。阿倍仲麻呂が唐朝で重用されたことに通じる。今の日本の地方自治体には外国人職員がいて徐々に国際的になっているが、中央官庁はどうなっているのだろうか。

ジャンル:
ウェブログ
この記事についてブログを書く
この記事をはてなブックマークに追加
« 江戸庶民の教養 | トップ | 夏目の妻 »
最近の画像もっと見る

古代」カテゴリの最新記事