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「唯物論とスピリチュアリズムの論点を『含んで超える』」

2008-08-03 13:16:12 | Weblog
(1)
朝の投稿を読み返して
「当時の超唯物論派・・・は、近代科学的であり
非合理にそまっていたドイツの大衆の心の中に
アプローチできなかったのではなかろうか。」
の超は不必要だったなあと思います。

そこで論点を唯物論から論じます。
私は、マルクス、エンゲルスの失敗のひとつは、
自らの哲学を唯物論materism
とネーミングしてしまったことあるのではないかと
最近思うようになりしました。
いったん、用語として定義され、それが繰り返し使用される中で゛
マルクスやエンゲルスの意図に反して、唯物論という定義が
彼らの理論を後継者がさらに発達させてゆくことへの縛りを
与える要素になってしまったのではないだろうか
と思うのです。
もちろん彼らが説いたのはヘーゲルの弁証法という哲学を
唯物論的に解釈しただけなんだけども
弁証法の理解は深い直観を必要とするために、
後継者の側では唯物論の方が前面にでてしまったような気がします。

アメリカの賢者ケン・ウィルバーは、マルクス主義の解説書を読んで、
たぶんマルクスは唯物論の人だろうと思っていたわけですが、
実際に読んでみるともっていたイメージと違っていたと
語っている箇所がありました。

インドの聖者サーカーは、マルクス主義の唯物論を批判しつつも
弟子に対して「マルクスは、当時の支配者に奉仕し、
人々の意識を眠らせる役割を果たしている宗教を批判したのであって、
決してスピリチュアリティを否定していなかったことを覚えておきなさい」
という趣旨のことを述べていました。

エンゲルスが「唯物論materlismを物質主義materlismと批判する人々がいるが
私たちは物質主義materlism ではなく、idealisms理想主義であり、
私たちは、idealisms観念論を批判しているのだ」
という趣旨の箇所を読んだことがあります。

マルクス、エンゲルスが弁証法的唯物論の思想を作り上げたその時代から
唯物論materlismは人々に説明しなければわかってもらえず
マルクスやエンゲルスの理論を学習した人々のうち、
深い理解力のない人々は
「物質が根源か、観念か根源かで唯物論か観念論かに別れ
物質がこの宇宙の根源であるから、唯物論が正しい」
レベルの浅い理解をした可能性があります。

とりわけ、活動家たちはとても忙しいからじっくり考察するチャンスはあまりなく
レーニンのように亡命していたり、
宮本顕治のように獄中12年であったりして
静かに深い思索をすることができたが
そんな人は例外でたいていは唯物論については浅い理解になってしまったのではないだろうかと思うのです。

資本主義を超えるためには、文化、思想面で、
materialism(物質主義)を超えて、自然環境、平和、文化やスピリット、
生活の豊かさのコンセプトを物質的安定だけでなく、
心の内面的豊かさ(quality of life)を実現してゆくように
大衆的な「文化革命」が必要です。

しかしながら、残念なことはmaterialismという定義が逆に縛りとなって
心の内面の豊かさやスピリットの純真さのような意味での
文化革命は育ちませんでした。

毛沢東の文化大革命は、孔子批判でした。
問題は孔子の体制的なスピリチュアリティ理論を
人民的なスピリチュアリティ理論に組み換えてゆくべきでしたが
materialismという言葉が呪縛となって
孔子のもっていたスピチュアリティの善き面までの全面否定となりました。

今また中国で体制強化思想と結びつく形で
儒教的スピリチュアリティが復活しつつあるのではないかと思います。

私はマルクスと結びついた形でmaterilism哲学のネーミングを
支持している人に、用語を検討できないでしょうかと思います。

そもそも、マルクスとエンゲルスの科学的社会主義は、サン・シモン
フーリエ、オーエンなどの「空想的社会主義者」が
理想社会を実現しようとするidealismの運動があった。
マルクスやエンゲルスは、その理想的精神を支持しつつも
実際に実現しようとしたら、
実際の経済社会の中に理想を実現する基盤を見いだされなければ
理想は実現できず、単なる観念で終わってしまう。
そこで、現実社会の科学的分析の上に立って、
理想社会実現への道筋をあきらかにしよう。
この現実の社会の分析の土台を重視した点を哲学的に
materialismとなづけたんだと思います。

ヘーゲル哲学の観念に縛られていたとき、
フォイエルバッハの唯物論materialism哲学に出会って
感動したあまり、マルクスとエンゲルスは自らの哲学のネーミングを
間違えてしまって「唯物論materialism」と名付けてしまった。
あまり本を読んで勉強しない人は、
フォイエルバッハ・レベルの機械的唯物論という
浅薄なレベルで理解してしまう。

世界中に巨大な影響与えたので、各地域のリーダーの中には、
スターリン、毛沢東、ポル・ポトなどのように
宗教施設を破壊するような人々を登場させてしまいました。

予想だにしなかった展開に
マルクス、エンゲルスもあの世?でなげいているとと思いますが
(ちなみにサーカーのスピリチュアリティ哲学では「あの世」はありません)

しかし、materialismと自らの哲学をネーミングして
後世の人々に誤解を与えてしまったことには責任があると思います。
誰もが自分の理論を理解できる知的レベルがあるという
人間観をもっていたことがマルクスの間違いでした。

(マルクスだけではなく多くのその間違いをみます。
小泉順一郎の「勝ち組み・負け組み」も、この世の中の人々が、同じ能力をもっているということを前提にしています。
これは「努力しないやつが悪い」という前提です。努力しても誰もが東京大学に合格できるわけではないし、野球選手になれるわけでないし
私は自分の力をだしてこつこつと世の中に貢献する人はすべて報われる社会にしないとあかんと思うのです)

「言葉」は私たちが予想する以上に
このコスモスに影響を及ぼしてしまうのだと私は思います。


『ドイツ・イデオロギー』』というマルクスの本を読んだことがありますが
それは天上の神々の観念形態の批判ではなく、
地上の人々の苦悩が、その神々を生み出しており、地上の批判が必要だと
論じていたように思います。

こうしたマルクスやエンゲルスといういわゆる「マルクス主義」の
創始者のスタンスは正当なものだと思います。

(3)
観念論やスピリチュアリズムは、江原氏たちの言説に典型的なように
一部の財あるものの支配する非民主的な経済構造、
すなわち、さまざまな社会問題の背景にある
社会構造の変革のテーマを回避させる役割があります。

劣悪な労働環境で働く人びとが、みんなで団結して
法律や社会のありようを変革してゆくというテーマから
人びとを意識をそらせる役割を、
日本のスピリチュアリズムは担っています。

個人の問題だけに収斂して
よりよい社会構造という集合体のテーマにゆきません。
その点での観念論やスピリチュアリズム批判は
唯物論側からする正当な批判だとは思います。

ところが、サーカーのスピリチュアリティや
ケン・ウィルバーの理論では
個体と集合体は、切っても切り離せない関係にあります。
そこには社会構造批判につながる論点がでてきます。

江原氏らスピリチュアリズムの言説の最大の問題は、
個体の苦悩が、このコスモスの一領域である
魂のレベルだけで解決するという点にあります。
その結果、この地上での苦悩の解決のために
マルクスのようにこの地上の批判がでてこないわけです。

サーカーは、三層における人類解放理論を説いています。
①スピリットのレベル
宗教が課題とした魂、スピリットの救いを実現する道筋を
瞑想的哲学で実践的に示しました。
②心のレベル
集合体の内面、すなわち文化面ではすべての存在を尊重するネオ・ヒューマニズムを説きました。
さらに個体の内面において、宗教や〇〇主義といった心に枠をはめるドグマから
いかに「知性を解放」し、心の無限に拡張してゆくことが大切を説きました。
③物的身体的レベル
集合体においてマルクスのように、資本主義構造にかわる
民主主義経済、decentralized非集権的経済を説き
実現可能な資本主義文明を超える展望を示しました。
個体においては、菜食などの食べ物論、ヨガなどの身体レッスン論を述べました。

個体においては身体的健康の上に健全な心が育ち、健全なスピリットが育つわけです。
集合体においては物的レベルで誰もが安心して暮らせる社会の上に健全な文化が育ってゆくわけです。

人々の人気を博している人は、それなりにその存在根拠があり
人々のある側面のニーズに応えていることを見抜き
私たちがこれから誕生させる資本主義を超える文明が
そうした人々のニーズを満足させるものとして
展望する必要があります。

人々の物的ニーズだけでなく、文化的ニーズ、そして魂のニーズにも
応えるアプローチをする時

このとき、私たちは勝利すると思うのです。
地上を正義ある平和の地にすることに
勝利すると思うのです。


1 コメント

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新幹線男。 (電車男。)
2013-01-05 18:27:29
勿論スピリチュアリズムは嬉しいですよ。
当然スピリチュアリズムは魅力的ですよ。