顎鬚仙人残日録

日残りて昏るるに未だ遠し…

偕楽園好文亭奥御殿の襖絵「萩の間」

2016年12月28日 | 観光ボランティア
好文亭は、天保12年(1841年)9代藩主斉昭公が、「一張一弛」の教育方針を掲げ、藩校弘道館とセットで創った偕楽園にあります。平屋部分の奥御殿は藩主夫人が來亭の際の休息所で、明治になってから斉昭夫人の貞芳院が、仮住まいのために水戸城中御殿より移築した3部屋を加えて合計10部屋あり、そのうち9室の部屋に描かれた花木の襖絵が部屋の名前になっています。さて、いまからご紹介の萩の間は、お付きのご女中衆の詰所、休息の部屋でした。

終戦13日前の昭和20年8月2日、水戸大空襲により市街地の80%くらいが消失し、この好文亭も焼け落ちてしまいました。戦後の再建は寺社建築などを専門とする、世界最古の創業578年を誇る金剛組が1955年から施工し、襖絵は当時の東京芸大の須田珙中助教授によって、松の間、紅葉の間、梅の間、萩の間が描かれ、竹の間に取りかかった時に病に倒れたため、後を引き継いだ田中青坪教授によって菊の間、桃の間、躑躅の間、竹の間、桜の間が完成しました。

しかし昭和44年、午後4時過ぎに起こった夕立の中、奥御殿の萩の間付近に落雷、奥御殿部分は全焼してしまいました。幸いにも、開亭時間中で屋根から燃え出したため、大事な襖絵は運び出すことができましたが、萩の間の天袋の襖絵だけが間に合いませんでした。

さて、昭和47年の奥御殿再建の時に描きなおしたという萩の間の天袋をアップで見ると、日輪と雀の隅に青坪の落款があるのがわかります。当時田中青坪画伯は69歳、萩の絵を描いた須田珙中画伯はすでになくなっていたので、彼が描き足したようです。

戦後の再建時には、創建時の襖絵の資料がほとんど残ってなくて苦労したようですが、再建なった萩の間は見ているわけですので、門外漢には白い萩の絵とのバランスが取れてないような気がし、また日輪の部分は以前は右側にあった筈とか、いろんな疑問はふつふつと湧きますが、各部屋を周りながら華麗でダイナミックな須田画伯と、静謐で力強い田中画伯の作風を見比べ、空想と妄想の世界で楽しく遊ぶしかありません。
(後で仲間のSさんから頂いた資料によると、須田画伯の門下生である水戸出身の谷中武彦画伯が、関係者の話や資料を元にして天袋襖絵の落雷消失前のイメージを再現した写真があり、それによると襖絵の銀色の月の上半分と萩の枝先が見えるだけのシンプルな天袋絵だったようです。)
(また、1989年に須田画伯の門下生、この谷中武彦と今井珠泉、鈴木至夫の三人の画伯が3日がかりで須田襖絵の剥離部分を無償で修復したということです。)
(なお天保13年の創立時の襖絵は、萩谷遷喬、三好守真、岡田一琢の作ですが、水墨画のようで弘道館の襖絵に似ていましたという古老の話が残っています。写真の弘道館の正庁、藩主の正席の間袋戸に萩谷遷喬によって描かれた梅の絵で想像するしかありません。)
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