RADIX-根源を求めて

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繊細な優しい心=強い心

2012-06-24 18:37:01 | 不登校・虐待・苛め問題
この記事は2006年9月のYahoo!ブログの記事の再掲載転載記事です。


     http://blogs.yahoo.co.jp/yosh0316/19127710.html


娘のひろが新学期になっても登校出来ません。私は無理に登校促進はしません。気持ちを整理して自分の

言葉で話せるまで気長に待つスタンスで小5~中3までの5年間の不登校を支えてきました。養護学校に入学して順調に登校出来

て、精神的にも私が驚くほどの成長ぶりでした。4.5日前になって心の整理がついて話し始めました。


夏休み直前の林間学習で、就寝時の時に先生方が会議で部屋を留守にしている間に同じクラスの2人の子が先生や友達の悪口・罵

詈雑言をしていて眠っている振りをしてやり過ごそうとしていて胸が張り裂けそうに痛んで悲しくて怒りで震えていたそうです。


下にひろがあるママさんに宛てたメールを掲載して置きます。

娘の精神面での成長と思考力の豊かさをご確認下さい。


何よりもショックだったのは言葉の理解力のない友達のいる中だからこそ平気で悪口を言える神経の酷さでした。

(言葉の理解の有る子は全員寝ていて、起きているのは時々声を出す言葉の発達がない子達だけと思い込んで2人で盛り上がって居たそうです。)


ひろが敬愛してやまないS先生を『うるさい。がみがみ言ってばかり』

ひろは『S先生は厳しさとその奥に溢れるほどの優しさを生徒に示していたのに気付かない無神経さが悲

しい』J先生について『あの人いい年だから早く定年退職すればいい』

生徒と一緒になって幼児のように遊ぶことの出来る54歳の先生です。教室はまるで遊園地です。

ひろはとてもJ先生の隣のクラスの無邪気な笑いに溢れた雰囲気が緊張を強いられる自分のクラスより好きなのです。


友達の障害の重い子たちについても『きもい、赤ん坊、子供、馬鹿』罵詈雑言の嵐でした。

これに関しては日常的に更衣室でなされている会話でいつも、気分を重くしながら着替えているそうです。

時には個々に表現を憚る様な露骨な会話がなされていて赤面を通り越して吐き気さえ感じるそうです。

『おやじの猥談の方がまだ性質が良いよ。可愛いよ。聞いていて虫酸が走るよ。同意を求められると最悪なんだよ。女子更衣室は

邪悪の巣窟だよ。』

林間の直前の職業実習についての会話で何よりも許せなかったのはF養護の卒業生の親たちが運営しているH農園についても実習先

をその農園に決めている子についての信じられない言葉でした。(メール参照)


私が話しを聞いていていて悲しかったのはPDD,ADHD、LDなどの軽度知的障害の子供たちが養護学校高等部に進学して障害の格差が

通常学校より著しくある中で人を人として尊重・敬愛する事を学べる貴重な機会を軽度の知的障害児が差別感丸出して日ごろのコ

ンプレックスを発散していた事でした。何かが根源的に欠落しているのです。言葉が発達している子どもに言葉を教える時に心・

をそして品性までをも一緒に運ぶのが言葉だと教えられていない特学の問題点が浮き彫りにされています。

言葉があることが良い事だと思い込んでいるのです。

ひろは言葉以前に大切なものがあることを養護学校で身をもって学びました。

言葉が無くても目で感情を表現して手振りで意思を伝えられる子の方が心をうまく伝えているといいます。

『言葉が喋れるから自分たちがしっかりしていて頭がいいと思い込んでいるから、自分たちがいかに馬鹿で思い遣りの気持ちが無いことを恥じていない。』

『新学期になって何も無かったように表面を取り繕う芸当は出来ないし、したくない。出来るようになるのが大人ならなりたくは無いよ。それに、面と向かって二人に注意したり、忠告を言えるほど未だ自分は強くなっていない。そんな自分が許せない気もする。』


ひろの不登校の理由の説明の言葉です。



口が酸っぱくなるように言い続けて来たのは養護学校で何を学ぶかでした。

『知的な面で通常の人の行動規範理解能力が劣っている友達の良い面を感じられて初めて、人間が何を支えに生きていくのかが分る。』

『自分たちの知識が上っ面でいい加減なものなら、彼らに恥ずかしいほどの行動を平気でして仕舞う。知識を持つということは自分の存在の悲しさ、生まれてきたことへの懐疑など辛さもあわせて感受することなんだ。』


『知識の多さより深さ、思考力をひろには深く身につけて欲しい。だから養護学校は人間を学ぶのに最高の環境なんだよ』

そういい続けてこの1年半を過して来ました。そして彼女自身沢山のことを身をもって学んできました。

ひろの感性の繊細さと優しさは私の誇りです。『社会に出ると使い分けをしなければ生きていけないことは知っている。

こんな感性の持ち主の私はうまくこれから人生を送れるのかな』と泣きながら話していたひろでした。

『小学校の時だって心を誤魔化せば皆勤出来ていた。でもそれをする自分が許せなくて不登校になった。』


ひろ自身がいじめられてはいないのですが、いじめの現場にいて何も発言も行動も出来ない自分に対しての悲しさ、いじめの雰囲

気が支配する学校の教室に『邪悪』さを感じて不登校になりました。

小学校の担任は『紘ちゃんは心が弱い』と言いました。

私は『逆ですよ。心が強くて、繊細です。先生は心が鈍い子供にしたいのですね』と反論しました。

彼は心が鈍感なことを強いと思い込んでいました。

「教室では社会と同じように強い子弱い子がいて我慢することも必要でそれも社会性の勉強になる。世の中は純粋だけでは生きて

いけない。」


この教師の持論ですが……発達障害などの障害の知識が0でした。

熱血教師で普通の生徒の人気は高いけれど、ひろにとっては最悪の担任でした。

もう一ついただけないのは自分が在室しているときの生徒の把握でよしとするタイプの教師でした。

このタイプは自分が生徒にいかに良い影響を与えるかに拘るタイプで所謂熱血派の青い教師の典型です。

力量のある教師は自分が不在時の生徒の実態把握に長けています。

私がそのような教師でした。信頼する生徒たちに教室の雰囲気造りを任せれば良いのです。

そうすることで普段の子供たちの苛めの予兆の行動を彼らから情報として貰えるのです。

『自分が、自分が全部仕切る』式の教師は生徒から人気が有っても3流なのです(人気の反面必ず「明るく元気な教室」からはじか

れる彼のやり方に不適応の5,6人の犠牲者・被害者が存在するのです)。実に肌理が粗い教師なのです。

いじめの対象が当人に無ければ、またいじめの行動が確認できなければいじめは存在しないと言うこの鈍磨した学校教育者の認識

の甘さが苛めを温存し助長しているのです。

ひろの不登校は立派に苛めの結果なのです。教師不在の休み時間の教室が邪悪の空間と化すのです。

(ひろによると養護学校高等部の場合は更衣室だそうです)

教師の力量とはまさに自分の不在時にこそ試されているのです。


事実を知って女性の教頭先生が『ひろさんの心の優しさを社会に出てもこのまま穢れずに維持して欲しい。


ひろさんの心の繊細で優しい特性は無くなるどころか社会に出ても磨き上げられると思います』と言って下さったことがこれから

のF養護の取り組みの方向を示唆しているようで心強く思いました。



心配してメールをくれたある養護学校の生徒のママさん宛てのひろの返事のメールです。ひろはママさん達のメル友が多くいる変った養護学校生なのです。



余裕で起きてます!

気にしないで下さい♪

Iさん、Uさんの問題は深刻だと思います…。

現に、Iさんの発言、行動全てが養護学校全体の風紀を乱していると思うから…。


私は養護学校は平和な場所だと思っていたのに、それは違いました。

現状は養護学校ならではの問題が山積みです。

Iさん達は

その人一人一人の良さを深く見る事がまるで出来てないです

表面的な事でしか人を見れないのでしょう。
『あの先生はすぐ怒るからウザい!』

『あの先生は綺麗だしカワイイから好きvv』
『あの先生はウザいし、もう年なんだから定年退職で早くやめれば良い』

本当に中身の無い子達だと思います!

学校の勉強の前に
人間としての勉強をするべきです!

人間として赤点です!
おまけに「H農園」の事を罵倒・侮辱する様な発言もしていました。

『○○君は将来、H農園に行くんだって!』

『やだ~キモい…』

こんな会話を
目の当たりにしました…

もう、人間のクズとしか言い様が無いです…
こんな事を平気で言える人達と仲良くする気持ちにはなれません!
虫酸が走る…!

Yさんが、このままIさん達と仲良くしていると、Yさんまで汚染されて
しまう様な気がして心が痛みます…。

Yさんにとって、
悪い影響しか無いと思います。

Yさんにだけは、
汚れて欲しくない!

そう思っています…。


苛めについて小中学校教育者の認識は鈍感以外の何者でもありません。ひろの小学校時代不登校で苛めの存在との関連を指摘しても、ひろ自身が苛められていない、苛めの事実は無いの一点張りでした。ひろが目にした風景はアトピーの子を特に避ける、まるで汚染物扱いをするように。4、5人のグループが特定の子をシカトして、排除する。そのグループで排除した子のことを平気で悪し様に悪く言う。苛めの行動の現場確認が認識の指標という硬直した前提を見直して休み時間の教室を思い描ける感性を磨いて欲しいと思います。何事に於いても多様な命の在り方を尊重する教育指導が、対応に四苦八苦しながら常に後手後手に回る対処的教育指導に勝るのです。悲劇が起こってからでは手遅れなのです。つまり想像力をなくして、『自分が子供だった時のこと、傍らにいる自分とは違った佇まいのクラスメイトの気持ちに敬意を抱いた経験。自分とは違った生き方に心惹かれた経験』を持たないで、或は忘れ果てて教師になった『大人の教育者』が子供たちの未来を閉ざしているのです。



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