RADIX-根源を求めて

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動的平衡という用語を巡って

2011-11-29 04:22:27 | 自閉症スペクトル


福岡伸一さんの新刊『動的平衡』(木楽舎刊)が今日4月14日に到着したので、早速読んでみました。

『動的平衡という用語を巡って-生物と無生物のあいだ(1)』  

 http://blogs.yahoo.co.jp/yosh0316/47446807.html

という記事の中で動的平衡という用語は本来は非平衡定常開放状態とするのが抵抗が無いと私は指摘したのですが、この本の

第1章『脳にかけられたバイアス』と第8章のカルティジアン(デカルト主義者)批判の件を読んで私は福岡さんの意図を理

解できました。

福岡さんに確かめてみたわけではないので正確には理解できた積りかもしれませんが……私たちは物事を正確に見ていない

で、思い込み、刷り込みで、多く錯覚・錯誤しているのです。錯覚・錯視は心理学では図と地の関係でルビンの杯などが代表

例として使われていますが、学習障害の1つである、読字障害はこの種の図と地の関係の混乱が下地にあります。

虹は7色に見えていないのに私たちは脳にバイアスを掛けて7色を錯視しています。民族によっては5色だったり様々に言わ

れます。

虹はスペクトル。連続体で境目はないのですから。

子供たちの描く太陽は日本では赤でも、外国では黄色であったり、橙であるかも知れません。

世界の多様性にどのように接し折り合いをつけるかで、バイアスの掛かり方は、違ってきます。

知的障害・発達障害研究の分野に欠けているのは言語能力に偏重しない多様性の肯定の視点だと思います。

また、このブログ記事の「逆さ地図を巡る考察-健常と言う病が生み出す認知の危うさ・思い込みについて』は脳に掛かるバ

イアス(偏見)を書いた記事ですので読んでください。

http://blogs.yahoo.co.jp/yosh0316/45916181.html

8章ではライアル・ワトソンの『ホール・ホッグ』のカルティジアン批判の嚆矢たる豚にも『心の理論』が有る事の実験を紹

介していて思わず我が意を得たりでした。

私はかねてから心理学者が人を人たらしめていると声高に力説する『心の理論』を中心とする自閉症研究・発達障害研究には

疑念を感じていたからです。

自閉症・発達障害の当事者が言葉のやり取りで行き詰まり、難渋し、不正解するアン・サリー課題を豚があっさりと乗り越え

ると言うのです。

豚には人間の言語は無いので別のやり方ですが……たぶん人間の言語・言葉を用いなければ自閉症・発達障害当事者もクリア

出来ると私は思っていました。

私が心理・精神医学関係の専門家に厳しいのは彼らの脳に物凄いバイアスの掛かりを感じるからです。

彼らは例外も無くカルティジアンなのでした。

昨年癌で亡くなった、ワトソンと同じような視点・アンチカルティジアンとして生命現象の謎を考察する意図の下でのシェー

ンハイマー紹介と『動的平衡』概念の導入・用語選択、更にはライアル・ワトソンの『新自然学』の導入と私は読み取ったの

でした。

生命は不可避的に身体の内部に蓄積されるエントロピーを外部に捨てています。

その捨て去ったエントロピーが外部の生命の生命を構成して行きます。

このように流れの中で時間と共存して命を繋いでいるのです。

個体は必ずエントロピー増大の終末=死を迎えますが、遺伝子は受け継がれます。

死んだ亡き骸も土に還りやがて養分として身体の内部に取り込まれ生命を構成して行きます。

実にシンプルに生命は輪廻して転生しているのです。

エバーラスティング。

絶えず変化し絶えず流れていくことが命の営みなのです。



(この本では福岡さんは『シェーンハイマーは、この生命の特異的なありように『動的な平衡』という素敵な名前をつけた』としています。ならば先日の記事で私は非平衡定常状態の用語に拘らなかったのですが……福岡さんは『生物と無生物のあいだ』で「私はここで、シェーンハイマーの発見した生命の動的な状態 dynamic state という概念をさらに拡張して動的平衡という言葉を導入したい。」と述べている……この辺りの記述には釈然としないものを感じます。福岡さんが学術論文として2冊の本を刊行せずに一般書として書いたにしても、(本の内容は知見に富み以下に紹介する内田樹さんの書評と同感なのですが)この記述の齟齬ををどのように説明するのでしょうか、少々科学関係に無知な文系の読者を煙に巻きすぎなのではと苦言を呈して置きます。くれぐれも、クオリアで売り出し、現在は脳に優しいなどのおためごかしに終始する茂木某さんの様にならないでいただきたいものです。)

参考までに、内田樹さんによる『開かれている人間の身体』と言うタイトルの東京新聞の書評を紹介して

おきます。

評者]内田 樹 (神戸女学院大教授)
■開かれている人間の身体

 福岡伸一先生の本を読むといつも頭の中に一陣の涼風が吹き抜けたような感じがする。導かれるままに分子や遺伝子の極小の世界を経巡っていると、景況や総選挙なんか「別にどうでもいいか」という気になる。崑崙山の頂から下界の営みを見下ろすような宇宙的想像力を使ってみるのもたまには必要なことである。

 私がこれまで福岡先生から学んだいちばん貴重なものは、生命の本質は「異物との共生」と「動的平衡」のうちにあるという知見である。それはこの本でも全編を貫く主題である。

 私たちの細胞を構成しているミトコンドリアは太古において自立的な細菌だった。それが大型の細胞に捕食されて、内側に取り込まれ、なぜか破壊されずに生き残った。そして、共生関係に入った。進化も性も老化も、私たちの生命活動はすべてミトコンドリアという「他者」との共生関係がもたらしたものである。

 「動的平衡」はシェーンハイマーの作り出した言葉である。それが教えるのは、生命体は固定して閉じられたシステムではないということである。「生体を構成している分子は、すべて高速で分解され、食物として摂取した分子と置き換えられている」(二三一ページ)。私たちは休みなく体外から分子を取り入れて細胞を形成し、また分解して環境に排出している。「つまり、そこにあるのは、流れそのものでしかない。その流れの中で、私たちの身体は変わりつつ、かろうじて一定の状態を保っている。その流れ自体が『生きている』ということなのである」(二三二ページ)。

 「動きながら常に分解と再生を繰り返」すからこそ、生命体は「環境の変化に適応でき、自分の傷を癒(いや)すことができる」(二三三ページ)。

 生命とは「自己同一的であり、かつ自己同一的でない」という背理的事況のことだという福岡先生の生命哲学は、いつも私を深く震撼(しんかん)させる。

2009年4月14日


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