陽出る処の書紀

忘れないこの気持ち、綴りたいあの感動──そんな想いをかたちに。

エイブル・アートの正体(前)

2014-03-12 | 芸術・文化


つい先ごろ、耳目を賑わした話題と言いましたら、偽ベートーベンこと作曲家・佐那河内守氏のゴーストライター事件。全聾の作曲家として人気を得た彼ですが、その作曲はじつはまったく別人の、大学非常勤講師・新垣隆氏が創作したものでした。

この問題については、世間を欺いた作曲家本人(この人、素顔も人騙せるような顔してますよね(爆))は言わずもがな、それに踊らされてしまったマスコミの責任や、われわれ一般の聴衆の態度についても正すような動きが見られました。暴露した新垣氏についても、金品を受取り確信犯で行っていたわけですから、同情百パーセントとはなりません。ご本人も自省なさっているように、やはり、共犯は共犯でしかないわけです。叶姉妹みたいに、最初から架空のユニットみたいに売り出しておけばよかったものを、なんていまさら茶化して申しましても致し方なし。

さて、この問題はいまや全世界で話題になっていました。
なんといいましても、ソチ五輪直前。フィギュアスケートの高橋大輔選手がプログラムに選曲したものですから、話題性バツグン。しかし、皮肉なことに、この問題はほんとうの作曲家たる新垣氏の才能をではなく、ゴースト佐那河内氏の不気味な存在感を深めるのにますます役立ってしまったわけです。記者会見での変貌ぶりがネットで俎上に上ったのがよい例でしょう。

この事件は、いわば二重の問題を孕んでいます。
ひとつは作曲が本人のものではなく、ゴーストライターの作によるものであったこと。さらにもうひとつは、その「全聾で」「作曲家」なる人物が、全聾ですらなかったこと。二重の欺きがあったのです。ここで問題になっているのは、おそらくは後者に違いないのです。もし、佐那河内氏本人が作曲したものであろうとも、彼自身が耳が正常であると露見されたならば、同じように糾弾されたに違いありません。逆に彼自身がまったくの全聾であって、作曲を別人が行っていただけならば? おそらくは、佐那河内氏ではなく、そのように売り出したプロデューサーが責め負うでしょうし、下手すれば新垣氏本人も責められるかもしれませんね。ですから、この問題に絡んで、ゴーストライターうんぬんの倫理性やら、著作権やらが、を問うのはナンセンスであると感ずるのです。

からだに不自由がある人が行う芸術活動を一般に「エイブル・アート」(可能性の芸術)と総称します。別称、「アウトサイダー・アート」とも言いますね。この概念の発端は、二十世紀初頭の革新的な芸術家であったジャン・デュビュッフェ。彼は子どもや知的障害児の描く絵には、生命が宿っているとして、「アール・ブリュット=生の芸術」と名づけて褒めたたえました。現在でも日本の知的障害者の創作物が、海外のミュージアムで高く買い上げられていることが、数年前のNHK番組でも報道されていました。作品が売れることで収益になり、障害者の生活の自立にもつながる。このような好意的な見方がひろがったわけです。

が、しかし。そうした障害者の作品を買い上げるのは、一部のお金持ちの好事家のみ。大半の日本では、障害者がいかにもハンディを背負って作りました、と感じられるような不出来な作品は、商品価値がないものとして相手にされません。

ところが、いっぽうでハンディキャップは時に大きな付加価値を生むことがあります。それは、その質が標準以上であった場合。つまり同じ出来映えの絵があったとしても、片手が不自由な人が描いたものと、そうでない人が描いたものならば、どちらが評価が高いか。自明のことですね。ひとびとは不自由があっても、障害があっても、それを乗り越えてひとしなみ以上の価値を生み出した人への称賛を惜しまない。そこには奇蹟を欲しがるという、ミラクル欲求があるからです。

そもそも芸術の世界において、作品とその創作者の物語とは完全に切り離されて考えてしかるべきでした。モダンアートが要請したものは、作品からナラティヴネス(物語性)を排除せしむることだったからです。ところが、印象派の画家の作品が古代の神話やらキリスト教のコードやら逃げ出して自由横溢な光りと色彩の戯れを追求すると同時に、それが今度は生前は売れなかった画家の不寓を加味して価値を倍増させることにもなりました。なんとも皮肉なことです。

物語性から逃れたモダンアートが果たしたのは、美徳から芸術作品を解放してしまうことでもありました。十九世紀末、グロテスクで陶酔的な絵画運動がはびこったのもそのひとつ。アートは美しいものではなく、醜いもの、騒がしいもの、暴力、エロス、タナトス、不道徳なもの、不快なものをめざして餌にするようにもなりました。時代に潜む影をさらって形に残すような役目がアートにはあったのです。その傾向は、大戦が終わった二十世紀でも、そのまま二十一世紀に突入しても同じはずでした。



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