陽出る処の書紀

忘れないこの気持ち、綴りたいあの感動──そんな想いをかたちに。

二次創作者、この厄介なディレッタント

2017-11-06 | 芸術・文化・趣味・歴史

*「ディレッタント」とは…
仕事としてではなく自分自身のために芸術や学問を「楽しむ人」を意味する。語源はイタリア語の「dilettare(楽しませる、楽しむ)」。日本語では「好事家」あるいは「芸術愛好家」などと訳す。すでに17世紀イタリアでに語句としての使用が確認され、18世紀前半の英国では、古代美術愛好団体「ディレッタント協会」によって一般に広まった。「ディレッタント」と呼ばれる人々はおおむね、特権的な学芸知識と富を背景に芸術品を自由気儘に享受できる立場にあった。そのため啓蒙主義者や芸術家からの反発も受けやすく、しだいにこの呼称は専門家の学術的探求に対する素人の個人的な趣味道楽といった側面が強調され、蔑称的性格が強まっていった。(現代美術用語辞典1.0



遊びより暮らしが大事、と思いたい! (太宰治風に)
趣味全開のブログで叫んでも説得力がありませんね…。
今回ものすごくマニアックな話題です。一般の方は多分知らないだろうし、知らなくてもいいことです。

二次創作なるアングラな趣味を持っているせいで暇つぶしができる管理人ですが、この二次創作については悶々とした思いがあります。そして、それに対する答えの糸口が与えられたのは、2017年6月下旬に生じたある騒動。

事の発端は、ある切り絵を趣味とする人間(自称・切り絵師の主婦だったらしい)がツイッターでうかつに洩らした発言から。
国民的大人気のRPGゲームのキャラをあしらった花札が版権ある企業から販売されるとの報を受け、その花札のデザインは自分が製作したものを剽窃したのではないか、と嫌疑を投げた。すると、フォロワーの賛同を追い風に公式に訴えるだの、なんのという方向に。ところが、公式デザインと素人作とは似ておらず、そもそもその自称切り絵師もフォロワーからの発案でつくってみたにすぎず、しかも、そのゲームで花札をつくった人間がそれ以前に存在していたことまでが明らかに。自称切り絵師が自己にあたかも権利があるかのように錯覚したのは、公式側のスタッフがうっかりこの人間の切り絵を褒めてしまったかららしい。

この問題の本質は、要するに二次創作ではなくて、二次グッズの話。
公式の絵をまるごとトレースしたものをプリントしてバッグやTシャツ、缶バッジなどの商品として販売したりすれば、それはアウト。版権のグッズの利益を損なうからです。

ところが、この問題は本質を拡大解釈されて、二次創作そもそもがいけない、という論議を呼びつつありました。そして同人誌を発行している、あきらかに二次創作によって利益を享受している方々は、この一件に関しては触れずさわらずの態度だったのではないでしょうか。その何週間か前に、猥褻な同人誌を描いた漫画家が、少女に対する性犯罪被害の参考にされたという疑惑で事情聴取された事件を根に持って、表現の自由の侵害だ、なんだのと大騒ぎしていたのと違って。

しかし、何故、この一件にかこつけて二次創作に対する憤懣が沸き起こったのでしょうか。
それは二次創作に対する一般人の嫌悪感は一定数存在することを認めなくてはならないからです一部のアニメなどでは二次創作を容認する方針を公言してもいますが、原作者側によっては表立っては波風が立つので言わないけれど、内心は快く思ってはいないこともあります。原作物の忠実な再現ではなく、あるいはアンチめいた解釈でつくられた二次創作。原作ではライトな友情ものなのに、二次創作者のアクの強いリビドーあふれる性描写にまみれた二次創作。プロフェッショナルたる原作者が苦心惨憺して、企画を何度も没にして、各所に交渉して、やっと生み出した作品のうわばみだけを吸い取って、あたかもはじめから自作であったかのように利用してクリエイターごっこをしたがる、アマチュア二次創作者たちと、これまた原作をないがしろにして二次創作ばかりを無駄に持ち上げるお追従。原作者が同人誌で利益を得たならば、それをこちらへ還元しろと叫びたくなるのも道理ですね。

他人の生んだキャラクターや設定などを不当に占有しているにすぎない二次創作者が、あたかも、その原作物にまつわる権利もしくは評価そのものを己もが受け取るべきだ、と勘違いするのには、巧妙な罠があります。

ひとつには、原作者よりも二次創作者のほうがファンの立場に近いこと。原作者の側からは見えなかった──あるいは発表の時点ではわざと隠しておいたか寝かせておいた──視座などを二次創作者が迂闊にも示してしまい、それがファンの壺にハマってしまうとか、そもそも二次創作自体がどうでもよくて交流がしたくて原作物などはダシとして、二次創作者、この厄介なディレッタントあてに使っているだけだとか。

そして、もうふたつめ。二次創作がうっかりウケてしまった二次創作者はそれに味を占めて多作になりますが、創作に熱中するあまり、原作者への愛よりもファンからの親しみの声に近くなってしまうのです。主キリストへの愛よりも、堕落しきった司祭の甘言に耳を貸してしまう信者と同じで。人間は愚かです。自分に向けられた賞賛の源泉が他者に所属するのだとわかっていても、その心地よさに寄ってしまいます。そうなると、ほんらいは原作愛に向けられるべき奉仕が、二次創作者は自分の支持者を満足さすべき労働のようなものと、錯覚すら起こしてしまうのです。二次創作は、原作の良さを広める布教活動と表する者さえいます。それは一面否定されるべきではないのですが、さて、忠実な原作の使徒であったものが、いつのまにかその宗教をゆがめて流布しつつあることに、眉をひそめない創造主はいないでしょう。そして、うっかり公式がその二次創作に対する肯定的なアクションを示してみたりすれば、二次創作者は己が神の声を聞いた聖人だとすら思いこんでしまうのかもしれない。先述の一件はまさにこの過程。

さて、ではこの横暴きわまるえせ創作者の二次創作者の専制を防ぐには、いかがしたらよいでしょうか。
それは原作者側が、凡庸な二次創作者には思いだにしないような、極端に申せば、二次創作者が厭がるような、描きたがらないような、前作からはありえないような設定や性格付けのキャラクターにしてしまって続編や新編を発表し、二次創作者どもの度肝を抜いてやることです。そうすると、一部のファンは裏切られたといって騒ぎ立て、もとの原作物の代理品としての似たような、おいしい部分だけをつまみ食いしたような作品へと流れていきます。ところが、これも不思議なもので、ファンからそっぽ向かれていたはずの続編・新編などに二次創作が現れると、あの続編は苦手だったけど…と前置きをしながらも、その価値を認めたり、その二次創作の第二、第三が現れたりするもの。つまり、二次創作が豊富にあるものイコール人気作という暗黙のルールができあがってしまい、それに踊らされているのですね、現代のサブカルチャーは。

二次創作者の真の喜びは、自作に高評価をもらうことで作家遊びの自尊心を紛らわせることでもなく、知り合いに褒め言葉をいただくことでもなく、原作者にひけらかしてお声がけを待つことでもなく、その二次創作を読んで眺めて、知らない誰かにこの原作物を手にしてみたいと思わせることです。つまり、二次創作物は、原作物の販路を拡大するためのデモンストレーションにすぎない。 そのような二次創作の本意に根差しているならば、道具や創作法などはお構いなしに、ただ一本の鉛筆さえあればいつでも書けるのであって、スマホかPCがなければというのは、創作している自分を全世界に公開したいから。一般人の二次創作に対する根強い嫌悪感がいまだぬぐえないのは、我が物顔、アーティストでございの態で二次創作をする者に対する不快感をあちこちで見かけるからなのでしょう。まともな社会人からすると、業界で十年以上も研鑽を積んだプロフェッショナルの版権物を借りて「自分の作家性」をことさら主張する彼ら彼女らは、なんとも奇異に映るからです。とくに、自分の名前でなく、組織の一員として仕事をしている会社員からすれば。

以上の毒言は、いけ好かない二次創作者としての自覚のある身を顧みて述べたものです。
いつも、作品のキャラと設定とをお借りしている原作者さまがたには最大の感謝と敬意を。

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