陽出る処の書紀

忘れないこの気持ち、綴りたいあの感動──そんな想いをかたちに。

「夜の陽(いつはり)」(十六)

2009-09-26 | 神無月の巫女感想・二次創作小説


しかし、千歌音はつねに拒みつづけた。
彼女にとっては殿方に手を触れることなど、接吻するに等しく、肌を許すにも近く、それは穢れることだった。二、三の言葉を交わしてぎこちなく笑みを含めるのが精いっぱいなのである。

月の大巫女のお邸で過ごした潔癖な時期の永すぎた千歌音は、その純然たる想い出にあまりに忠実でありすぎた。姫宮神社は男子禁制というわけではなかったが、殿方といえば月の大巫女の託宣や卜占を頼って訪れる来客が大半であって、生まれてよりこの方、女ばかりに囲まれて育った千歌音は男慣れしていなかったのである。姫宮家でも無論のこと義兄君や、縁戚の紳士諸兄と面会はするし、使用人の男たちと日々接触しないではない。しかし、彼らは千歌音と深くは触れあおうとはしない、つるつるした男たちだ。適度に距離がおける間柄である。将来のことなど誓う関係に至ることなどない男たちである。

だが、夜会で顔合わせする男は、そういった、まだつるつるした感じの男たちではなかった。
男は女の美しさに目がない。女の声肉に蕩けてしまうものだ。麗しい女を目前にすると、シルクハットに燕尾服、勲章を胸に飾り付けた大礼服の紳士でありながら、さかんに目をぎらつかせた男たち。千歌音は喉元に漂う苦々しい紫煙や髪のポマードの匂い、口ひげや無骨な手つき、武張った振るまい。男の精気を感じさせるそれらに、拭いがたい嫌悪感を覚えずにはいられなかった。

多くの目に触れることは、千歌音にとっては、気恥ずかしくしてしかたのないことだった。
ローブ・デコルテのご婦人を呼び止めて、とある紳士が戯れに、大きく開けられた胸許へさっと艶書を投げ入れたのを眺めると、千歌音は自分がここにいれば、何か途轍もなく錆びついていくのではないか、という陰鬱たる気分に陥った。付け文が届けられると、鳥肌が立って、封も切らずに女中に命じて暖炉の薪にくべさせてしまった。

そんな千歌音のあまりに頑なで偏屈極まりない態度を、さすが深窓の令嬢らしき貞淑の極みよ、と好意的にみる者もあれば、邪慳にされて腹立ちこそすれ、あれ程なびかないのは、姫宮の殿様は余程の相手でなければあの娘を嫁にやる気はないのだ、まったく心憎い、と口惜し気に語る者すらもある。末娘だけがちやほやされるのに嫉妬してか、まだ嫁ぎ先のない、年増の義姉君たちからの嫌がらせもたちまち増えていった。それもまた、夜会に列するたびに千歌音を疲弊させる一因になった。

求婚者の中でも特に熱心だったのは、三人の男たち──四十を過ぎた男やもめの病院長と、二十四、五歳の亜米利加人実業家、三十歳の海軍軍人だった。

病院長は洋行帰りの医学博士で相当のインテリゲンチアであったが、女と畳は新しく青いほうがいいという、奇特な思想の持主であった。
医学における造詣の深さを引けらかすために高説を垂れるが、しばしば話が滑って、女体の神秘とは云々かんぬん、等と熱弁をふるう変わり者であった。さらには不潔恐怖による洗浄強迫なのか、ナイフ一つ持つのでも逐一アルコール漬けのガーゼで拭いてからでないと気が済まない男であった。千歌音と同年代の娘が一人いるらしく子煩悩そうであったが、その娘が病弱な上にどうも気難しいようである。そのうち娘が入院したのを機に姿を見せなくなったので、千歌音は胸を撫で下ろした。

異人のほうは日本人離れした彫りの深さで、夜会では人気を博した御仁である。
お化粧でなんとか顔の平均を保っている、目の肥えすぎた義姉君たちが無い物ねだりでぞっこんであったが、姫宮が探偵を雇って身上を洗い出すと、故国に妻子がいる上に大の賭博好き、芸者通いが趣味であることが判明し、さすがに姫宮家も外聞を憚ったのであろう、我が拙女たちと貴公との交際はご遠慮願いたしと申し入れたらしい。こちらも、その後になって、夜会に足が遠のいてしまったようだ。理由は、芸妓が洋館前に押しかけて、身請けしないの、されないだのと大騒ぎされたのを恥じたのか、さらには起請文を交わしたのに反故にされて切り指しておくれと迫られただとか、それとも日本の商事会社との取引で不渡りを出したのだとか、本国の商会から預かりの公金をお茶屋遊びで費消してしまったのだとか、いろいろと巷であることないこと良からぬ噂が飛び交ったのだが、はたして真偽は定かではない。とにかく、出るわ出るわの醜聞で、男がこれだけ悪し様に罵られている裏には、どうも泣かした女の数に比例するのではないか、とも思われる。



ジャンル:
小説
この記事についてブログを書く
この記事をはてなブックマークに追加
« 「夜の陽(いつはり)」(十七) | TOP | 「夜の陽(いつはり)」(十五) »
最近の画像もっと見る

Related Topics