陽出る処の書紀

忘れないこの気持ち、綴りたいあの感動──そんな想いをかたちに。

「夜の点(くろぼし)」(三十三)

2009-09-29 | 感想・二次創作──神無月の巫女・京四郎と永遠の空

「これは、わたくしの祖母が賜ったものです。大巫女さまのお召し物を解いて、祖母は繕い物をいたしました。それは、美しい赤子の夜泣きをしばしば慰めたそうです」
「ばあやがくれた這子(ほうこ)…。 乙羽さんは如月のばあやの孫娘だったの…?」

千歌音は感激のあまりに声が上ずった。
姫宮のお社での子ども時代、千歌音のお守り役を仰せつかった側仕えの女は多い。そのほとんどは、花か草かの名をもじったり、物語の中に出てきそうな典雅な名が与えられていたりしたのだが、なぜか、姉巫女たちには、そのばあやだけが巫女さまと同じに「月」のつく名で呼ばれていた。幼い千歌音はそれを「更衣(きさらぎ)」だとずっと思いこんでいたので、迂闊なことに、乙羽の家名を耳にしても思い当たらなかったのである。なぜなら、その老婆はとにかく繕い物が巧みなのであって、彼女の縫ったものは天女の衣と見まがうぐらいの美しさがあった。縫物であったのに、糸を通した痕跡が見えず、透明なのであった。お社の衣裳の管理を任されていたので、季節ごとの色合わせなどを巫女さまが相談しにくらいであったからだ。

「千歌音さまのための這子をこしらえたあとの余り布でつくったのが、このわたくしのお守りです。亡くなる前に、これをわたくしに授けてくださいました」

如月のばあやが千歌音の子守り役であったのは、物心つくかつかぬかのうちだった。
だから、千歌音はあまり顔をはっきりと覚えてはいない。たしか、病を得たのでお社を辞していたのだと聞いていた。

「有難いのだけれど、やはり、これは戴けないわ。乙羽さんの形見でしょう?」
「いいえ、千歌音さまに差し上げます。そうすれば、亡き祖母も喜ぶでしょうから」

乙羽は千歌音の目の中を覗きこんでいた。主の唇が発した道義心と、瞳に煌めいた喜色との葛藤を、この侍り女は見逃さなかった。うるわしい指で包ませるように手を重ねて、どうぞ、と促した。

「…では、お言葉に甘えて。ありがとう。乙羽さんの分まで、大事にするわ」

主の持ち物は従者に運ばせるのが決まりである。だが、千歌音はその布人形の守り袋の輪をいとおしげに腕に嵌めた。この思わぬ献上品のために、千歌音の疲労はどこかへ吹き飛んでいた。
本音を言えばお礼を言い足りないぐらい、このうえなく有難かった。乙羽には明かせなかったが、枕元の魔除けとしていつも抱いていたその這子を、病篤い大巫女さま助命祈願がため、祈りの古井戸に投げ込んでいたのだった。大巫女逝去ののち、千歌音にはなんら遺されたものはなかった。それが、こうして戻ってきたのだ。千歌音の瞳は潤みがちになっていた。

「お嬢さま、さらにもうひとつ、わたくしのお願いを聞いてくださいますか?」
「お願い…?」

乙羽は両膝を地に着いて、千歌音の片手を恭しくとった。まるで洗礼を受ける敬虔な信徒のような心持で。千歌音の手首の先まで、お守り袋が滑り落ちていた。その布人形をマリア像のように祈りの対象のように見立てて、乙羽は高らかに宣言したのだった。

「この如月乙羽を、姫宮千歌音さまの這子にしてくださいまし。悲しみは半分に、喜びは何倍にも。わたくしなら、できます。わたくしは、常にお嬢さまのお側におります。二枚貝の対には及びませんが、貴女さまの御心をお守りいたします」

千歌音の双の瞳に結ばれた露が、おし抱かんばかりに侍り女に掲げられた手の甲に跳ね返った。乙羽はじっと見つめて、唇を寄せた。吸い寄せるような施しのあとで、千歌音は見たのだった。今し手の甲にあらわれた可憐な花びらの紋様が、ある日の朝、おのが身に点じられた鮮やかな熱をもった夜のしるしと同じものだということを。

乙羽は上目遣いにして、爽やかに微笑していた。
その顔には、梢のあいまからこぼれる陽だまりのような、控えめな温かさがあった。千歌音は羞恥心を気取られまいとして大袈裟に頷き、櫂のように腕を伸ばしたまま、貴族の姫君のように立っていた。それでいながら、千歌音の空いた手は姫子の唇がなぞった奇跡を辿るように鎖骨のあたりを、秘密の道具をポケットに隠した子供のように、恍惚とした表情で執拗に撫でていた。そのしぐさは徒っぽく衿に指を滑らす女の色想いめいていたが、いまだに太陽の熱にあてられたかのようなほのかな疼きが消えていないことを認めて、あの悪夢から醒めた千歌音を幸福にした。



ジャンル:
小説
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