陽出る処の書紀

忘れないこの気持ち、綴りたいあの感動──そんな想いをかたちに。

「夜の逸(はしり)」(一)

2009-09-28 | 神無月の巫女感想・二次創作小説




「一つの心が壊れるのを止めることができたなら、
私の人生は無為ではない」
エミリー・ディキンソン





大正十一年の十月のあの邂逅の日から、これまでひと月。
千歌音と姫子は、この離れで過ごす時間を共にしてきた。ほんらいならば、素性の知れない女など邸内に入れるべきもないのだが、女中たちが遠ざかっていったのだから、もっぱら侍り女のように姫子は千歌音に寄り添っていた。

姫子は身の回りの世話だけではなく、外部と遮断されて世事に疎くなった千歌音に、いろいろなことを聞かせてくれた。邸内にある新聞をくすねてきては、読み聞かせてくれた。彼女は学校に通っていない。井戸で棲んでいたはずの少女がなぜ、しっかりと文字まで読めるのかは分からなかった。千歌音は姫子の身の上について考えたこともない。

あるときは清らかな湧き水を運んできた。
瓢箪の水筒をしゃぷしゃぷと顔の横で振ってみせるので、なにごとかと思ったら、それを千歌音に差し出す。まさか、酔漢よろしくそれを飲み干せというのでもなく、姫子が両手のひらを皿のようにして受ける。そのまま口づけて、というのである。千歌音が飲み干さねば、戻しようがない。姫子はいつまでも捧げもったままなのだ。さすがにこれは誰かに見られると恥ずかしいが、姫子のまなざしに根負けしてしまい、やってみないではない。手のひらで温まった水は、ほの甘かった。

あるときの手土産は、箱に入った鈴虫の音。また、あるときは黄金に染まった銀杏の枝であった。
その葉の裏がわから毛虫がひょっこと顔を出して、千歌音が驚き声をあげたら、姫子はくすくす笑い出した。なにより、姫子が側にいることでもたらされたのは、光りだった。それまで、淀んだ空気のなかにいた千歌音にとって、姫子がいてくれることは、春の陽気につつまれたような居心地の良さがあるのだった。

眠れない夜があると、姫子は添い寝をしてくれた。
自分でもおかしいと思うほど、千歌音は姫子にしがみついて、眠ってしまうことがあった。子どもの頃に枕辺から手放せなかった布製の和人形や這子(ほうこ)の丸っこさや厚み。それらに似たものを、千歌音はいまだに忘れられずにいた。千歌音は姫子の柔らかさや温かさを求めていたが、姫子はそれを無防備に与えていた。もう子どもでもあるまいに、おおきなお人形を欲しがったわけでもないのに、千歌音はなぜそこまで姫子に寄りかかってしまうのかわからなかった。

「どうして、私の側にいてくれるの? 姫子は病が怖くはないの?」
「わたしはあなたを失うほうが怖い」

穏やかなまなざしのまま、姫子はそう言った。姫子が語ったことは、ただそれだけだった。
その言葉よりも、そのときの真顔になった表情こそが千歌音には重みがあった。もっとしっかりと生きなくてはいけない。千歌音の体調が上向きはじめたのは、それからだった。



ジャンル:
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